山内堅治神父のみことばの響き
イエスの輝き
〈四旬節第2主日〉ルカ9・28b〜36
主の変容の教会(ダボル山) 北アルプスなどの高い山に登った時、一番感動的な瞬間はご来光の時です。これまでに登った山で感動的なご来光に遭遇したのは、八ケ岳の赤岳頂上、白馬岳頂上、立山連峰の内蔵助山荘。空気が澄み渡り、東の稜線が明るくなって太陽が徐々に昇ると、詩編19・2の「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」をついつい口ずさみたくなるような雰囲気です。ご来光もすばらしいのですが、太陽と反対側の山々に目を向けると、もっと感動的です。山の色が黒色→紫色→紅色→金色→黄色へと変化し、最後はその山が持つ色に収まり、光が織りなすショーは圧巻です。そういう光景を目にすると、山は祈りの場、神との出会いの場にふさわしい所だとつくづく思います。
白馬岳
赤岩屋根分岐点から見たご来光
立山の剣岳
内蔵助山荘
イエスは祈るために山に登り、祈っているうちに「服は真っ白に輝き」ます。「輝く」という言葉は、エクザストラプトーという言葉が使われ、「閃光を発する」を意味し、新約聖書ではここだけに使用される特別な用語です。旧約聖書の中では、「火の中には琥珀の輝き」(エゼ1・4)、「磨いた青銅が輝くように」(エゼ1・7)、「剣はきらめき、槍はひらめく」(ナホ3・3)と使われ、キラキラとした輝きを表しています。こうした表現から、どんな輝きかを想像できるのではないでしょうか。この描写は同時に、イエスの復活の前兆をも示唆します。
イエスの様相の変化に同調するかのように、弟子たちの気持ちも変化します。「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです…。」イエスとの確かな出会いによって、弟子たちの心が完全に変えられていった瞬間です。
イエスの輝きは、わたしたち一人ひとりの心を変えていく力にみなぎっていることを、このみことばから味わうことができます。
父の愛情
〈四旬節第4主日〉ルカ15・1〜3、11〜32
このたとえに目を向けると、二人の息子(兄と弟)のうち、弟の方は財産を分けてもらい「遠い国」に旅立ちます。「遠い」は「マクラン」というギリシア語が使われ、「彼方に」「はるか」のように、距離的にもかなり離れていることを意味します。弟は旅先で無駄遣いをし、財産を使い果たし、やがてものすごい飢饉を体験します。生きるために弟は必死になり、豚の食べるいなご豆で生き延びようとします。豚はユダヤ人にとって汚れた動物なので、どんなどん底だったかが分かるでしょう。そんな生活の中で、弟は我に返ります。同時に、父のもとで生活していた時の愛情に気づきます。息子(弟)は、父のもとに回心して戻ろうとすると、父はまだ「遠く」(マクラン)にいたのに自分の息子に目を向けます。どんなに遠く離れていても、その距離を埋めるだけの父の深い愛情ではないでしょうか。
よい牧者 父は息子(弟)を「憐れに思い」ます。「憐れむ」はスプランクニゾマイが使われ、「内臓」や「はらわた」に由来します。いちばん弱く、腐りやすい部分だからこそ、心に留めることから「憐れむ」という言葉が生まれました。まさに息子への憐れみに満ちあふれています。
一方、「兄」を表すのに「プレスビュテロス」が使われています。これは「長老」をも意味するものです。兄は弟に対して「あなたのあの息子」と言うように赤の他人のような表現、さらに「娼婦どもといっしょにあなたの身上をつぶした」と、弟にとって事実無根のことを語ります。回心した弟とは対照的です。そんな態度を取る息子に対して、父は「子よ」と親しみを込めて語りかけます。
対照的な二人の兄弟ですが、どちらの息子にも温かい愛情を注ぐ父の深い憐れみに、心を揺さぶられるものがあります。
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