みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

新しい掟 —互いに愛し合う—

〈復活節第5主日〉ヨハネ13・31〜33a、34〜35


1-5.jpgカテドラル(デリー) イギリス領の北アイルランドに「ロンドンデリー」という町があります。この名前で耳慣れしていますが、アイルランドの人たちは単に「デリー」と呼んでいます。本来は「デリー」であったのが、この地がイギリス領になって「ロンドンデリー」と呼ばれるようになったのでしょう。10年前ですが、語学学校の先生(アイルランド人)が「デリー」市街を案内してくれました。教会や「血の日曜日」(1972年1月30日に起こり、多数の死傷者を出した)の場所など。見学が終わって車に乗ろうとすると、先生が車の下をのぞき込み、爆発物が仕掛けられていないかを確認していました。ナンバープレートがイギリスは黄色、アイルランドは白なので国籍の識別ができ、先生が心配するのも分かりました。カトリックとプロテスタント、アイルランドとイギリス。北アイルランドの領土を巡って長年争っているだけに、問題解決もそんなに容易ではありません。互いに許し合い、愛し合いことの大切さを感じます。

2-5.jpgデリー さて今日の福音の中に「新しい掟」「互いに愛し合う」ことが記されています。興味深いことに、この前の箇所は「ユダの裏切りの予告」(13・21〜 30)、後の箇所は「ペトロの離反の予告」(13・36〜38)に関する話です。人生の中で裏切りや離反があっても、互いに許し合い、愛し合うことの大切さが響いてくるのではないでしょうか。

 旧約の掟として十戒(出20章)、愛に関する掟として「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ19・18)があります。

3-5.jpg「血の日曜日」の犠牲者(デリー) これらの掟がイエスの場合にはどのように変化していくでしょうか。良い羊飼いの話の中で、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハ10・18)。御父との関わりで「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきことを語るべきことをお命じになった」(ヨハ12・49)。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる」(ヨハ15・10)など。

 許し合い、愛し合うことが難しい状況に直面する時、イエスのことばや行動の中に、解決策の原点を見ることができます。



独り立ち

〈主の昇天〉ルカ24・46〜53


5-1.jpg松浦線 かれこれ40年前の古い話になりますが、松浦市の小学校を卒業して福岡の修道院に入会した時のことです。家から駅まで30分程度の砂利道を父母、兄弟とともに歩き、父は福岡まで同行してくれましたが、母と兄弟たちとは駅でお別れ。当時の松浦線にはまだ蒸気機関車が走っている時代で、シュッシュッシュッと煙をなびかせながら、列車が駅に到着。列車に乗り込み、最後尾に立ち、母や兄弟たちに手を振って別れていくのは寂しいものでした。

 別れでも、もっと寂しいのは船。10年前、神津島での「ジュリア祭」に参加し、帰途につく時です。船のデッキから紙テープが舞い、桟橋にいる人たちはテープを受け取っている。島の港にはスピーカーから「ほたるの光」が流れ、船が徐々に岸壁から離れていく光景は、涙を誘います。

4-4.jpg神津島 イエスは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」(ルカ24・51)ていきます。いわばこの地上での弟子たちとの別れでした。弟子たちにしてみれば、頼りにしているイエスがいなくなる寂しさとともに、独り立ちを求められた時でした。寂しさのあまりでしょう、彼らは「天を見つめていた」(使徒1・10)と言います。しかし、彼らはその寂しさから一転して、喜びの気持ちに変わっていきます。「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24・52〜53)と。もちろん嫌な人がいなくなった喜びではなく、「父が約束されたものをあなたがたに送る」(ルカ24・49)と言われた、聖霊の派遣を待ちながら……。

 「主の昇天」は、別れの寂しさが感じられますが、それは同時に聖霊の恵みが確約され、弟子たちが独り立ちしていく瞬間です。