山内堅治神父のみことばの響き
謙遜の勧め
〈年間第22主日〉ルカ14・1、7〜14
来年、北海道の洞爺湖近くにある「ザ・ウィンザーホテル洞爺」でサミットが開催されることになっています。洞爺湖と太平洋の内浦湾を見下ろす山の上に建てられた超高級なリゾートホテル。サミットのテーマは自然環境になっていますが、皮肉なことに、このホテルを建てるためどれだけの自然が破壊されたのだろうと思ってしまいました。警備のしやすさとホテルの高級感でここに決定したのもうなづけますが、驚いたのは、一泊の客室料金。安い部屋(33m2)で約三万五千円。最高級の部屋(460m2/グランドプレジデンシャルスイート)になると約一三六万円と記されています。これだけの差があると、サミット冒頭の議題は、だれがどの部屋を使うのかを議論することから始まるのではと思ったほどです。安い部屋が割り当てられても、出席者たちがそれで満足するかどうか…。国のレベルで部屋を決めるのでしょうか…。
ホテルから内浦湾を望む 今日のみことばで「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と言います。プライドがあればあるほど、末席に行くのは難しいでしょう。日本での宴会の場合、最初は末席に集まるケースが多いのですが、上席においしい料理がありそうものなら、そちらのほうに行きたがるのが人の性でしょう。そんな気持ちがある時ほど、謙遜が求められるのではないでしょうか。「謙遜」のために、ギリシア語では「タペイノス」が使われています。これは「身分が低い」の意味の他に、「価値の低い」「気落ちしている」「弱腰である」の意味もあります。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタイ18・4)というみことばを思い起こします。また今日の第一朗読には「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる」(シラ3・18)とあります。謙遜へと導くメッセージです。
実りの秋が近づいてきました。格言にも「実るほどに、頭を垂れる稲穂かな」とあります。季節とみことばに合わせて、謙遜の道を体得したいものです。
悔い改め
〈年間第24主日〉ルカ15・1〜10
アイルランドのダブリンから西へ約30キロ行ったところにメイヌースという町があります。聖パトリック大学、サレジアン・シスターズ、神言修道会、コロンバン会、そして聖パウロ修道会の修道院。この修道院で約8か月生活したことがありますが、休みになると近辺を散策しながら、放牧されている羊を眺めるのはよいリフレッシュでした。さらにはバスや電車を利用して西に向かい、広大な草原や羊の光景を車窓からボーと眺めるだけでも、心が癒される思いでした。時には、道路を堂々と歩く羊の群に出会う時も…。
今日のみことばで「百匹の羊を持っている人がいて、見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」とあります。マタイ福音書では「迷い出る」(マタ18・12)となっていますが、ルカ福音書では羊を「見失う」(ルカ15・4)と記され、表現が異なっています。また一匹の羊のためにマタイでは「もし、見つけたら」(18・13)と仮想的な言い方ですが、ルカの場合では「見つけ出すまで捜し回る」(15・4)と、徹底した愛情表現が用いられています。一匹を捜す動機が明らかに違っています。ルカの描写はとても繊細で、「その羊を担いで」は「上に置く」「掲げる」といった意味を含んでいます。見失った一匹がやっと見つかって、みんなに見えるように掲げるところに喜びの思いが感じられるのではないでしょうか。そんな愛情に満たされたところで、最後には「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びがある」というように、「悔い改め」のたいせつさを説いていきます。
私たちの世界にも、見失った一匹の羊の状況が多々あるでしょう。そんな時、九十九匹の犠牲の上に成り立っていることや、愛情によって「悔い改め」が実現していく歩みを、このみことばから感じることができます。
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