みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

取るに足りない僕

〈年間第27主日〉ルカ17・5〜10


 「僕」という文字を『広辞苑』で調べてみると、「下部・僕」と記され、「身分の低い者」「雑事に使われる者」と記されています。「僕」には「下部」の方がより的確な表現かもしれません。今日のみことばでは「取るに足りない僕」というように、「僕」が使われています。この原語は「ドゥーロス」が用いられ、「僕」の他に「奴隷」「仕える者」の意味が含まれています。奴隷には自由がなく、主人の意のままに働くように、「僕」の場合でも従順のうちに従う人の姿を考えることができるでしょう。

1.jpg大聖グレゴリオ(スビアコ)  聖人の中に「大聖」という敬称をいただいている4名の聖人がいます。大聖グレゴリオ、大聖レオ、大聖バジリウス、大聖アルベルト。この4人の中でも教皇であった大聖グレゴリオは自らのことを、Servus servorum Dei(神の僕たちの僕)と表現し、教皇が神の前で仕える身分であることを示しました。彼は五四〇年にローマで生まれ、イタリアのスビアコにあるベネディクト会の修道院で生活します。五九〇年に教皇に選ばれ、六〇四年に亡くなりました。教皇は権威ある方のイメージがありますが、その根底には「僕」として仕える者の生き方を見いだすことができます。

 またみことばにある「取るに足りない」は「アクレイオス」が使われ、「無益な」「役に立たない」「不適格な」を意味します。「僕」も謙虚さを示しますが、「取るに足りない」もそのことをよりいっそう強調しているのではないでしょうか。

2.jpgベネディクト会の修道院(スベアコ) パウロ家族の創立者福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、自分自身のことについて「もしわたしより不適格で無能な人がいたなら、主はその人を選ばれたに違いない」と表現しています。「僕」という表現は出ていませんが、「不適格で無能な人」の言葉から、彼の謙虚な生き方が示されています。

 「取るに足りない僕」。謙虚な生き方を多くの方がたから見いだしたいものです。



忍耐強く

〈年間第29主日〉ルカ18・1〜8


 今日の第一朗読の中で、モーセの話が登場いたします。モーセが両手を挙げるとうまくいき、下げると逆の結果になります。両手を挙げ続けるため、アロンとフルが両手を支えます。両手を挙げる仕草は祈りの仕草ですが、この情景から祈りには自分の力で行う部分と他の人の力を借りて行う姿を感じることができます。

3.jpg 福音の中でイエスは「気を落とさずに絶えず祈る」ことを指摘します。そこでやもめのたとえを用います。裁判官はとても強気の人ですが、やもめは弱者の立場です。それでもやもめは何度も裁判官のもとへ行きます。裁判官が語る「(わたしを)さんざんな目に遭わす」を直訳すると、「目の下を殴る」「目の下に青いあざを作る」の意味になります。やもめが裁判官を殴ることはなくても、やもめが根気よく願うことに対して、裁判官は顔にあざができるような脅威を感じています。やもめにしてみれば、それほど切羽詰った気持ちだったのでしょう。根気強さが自分の願いを実現していきます。

 かれこれ十数年前になりますが、奉献生活を送る方がたのシノドスが開催されました。それをもとに『奉献生活』という使徒的勧告が出されました。この会議にあたり、当時の新潟教区の教区長であった佐藤司教様が提言なさいました。日本人会のミサで、その内容を説教なさったことが印象に残っています。「私たちはうまくいっている時、感謝するのはやさしい。でもうまくいっていない時ほど感謝するのは難しい。どんな時にも神様は働いています」と。とても基本的なことかもしれませんが、その言葉がとても新鮮に感じました。

 神様は苦難の時に沈黙しているように思います。調子よくいった時には感謝しやすいでしょうが、うまくいかない時にはついつい愚痴を叫びたくなります。それでも根気強く祈る姿勢を、やもめから学ぶことができるのではないでしょうか。

 うまくいく時も、うまくいかない時も、勇気をもって信頼の道を歩んでみましょう。