山内堅治神父のみことばの響き
よい準備
〈年間第32主日〉マタイ25・1~13
「十人の乙女のたとえ」を通して、私たちがふだんからどのように準備していくかを問いかけてくれる内容です。
2011年6月、私の叔母がクモ膜下出血のため71歳で亡くなりました。叔母は20代半ば、お見合いで結婚。相手の男性は小学生の時に耳を悪くし、それ以来全く聞こえない方でした。二人の子供に恵まれ、家庭は貧しかったけれど、お互いに支え合って生活しました。ご主人は耳が聞こえないので、会話の時は叔母が言葉を発しながら指で文字を書き、ご主人がそれに答える。例えば「学校」という時には、叔母は「がっこう」と発音しながら、指で「が・っ・こ・う」と書いていく。するとご主人が「がっこう」と答える。とても不自由な生活でしたが、不幸だとは思いませんでした。
叔母が60代半ば頃、ご主人は寝たきりの生活になりました。自宅での介護が難しく、バスで15分くらいの所にある養護老人ホームにお世話になりました。叔母は毎日、老人ホームに通い、着替え等を持って行き、いつも枕元で話しかけていました。昨年の秋、叔母といっしょに老人ホームを訪問しました。いつものように着替えを手に持ち、ご主人に優しく語りかけていました。結婚したことを決して後悔していないこと、貧しかったけれど幸せな人生であったことなど…。
ある日の午後、いつものようにご主人の着替えを持参してバスに乗って老人ホームに向かいました。ところが途中で具合が悪くなり、乗客が介護してくれました。バスは終点まで走り、その後、とても親切な運転手が病院を手配してくれました。たくさんの人の手助けにもかかわらず翌日、叔母はクモ膜下出血のため帰天。ハンドバッグの中には、子供たちの連絡先やご主人に関する必要事項を記したメモが残っていました。いつ具合が悪くなってもいいように準備していたのかもしれません。ご主人をずっと看病していたので、ご主人より先に亡くなるとは誰も考えていませんでした。
ふだんからよい準備をした人の歩みを身近に感じた思いです。
タラントの活用法
〈年間第33主日〉マタイ25・14~30
「タラント」はギリシアで用いた計算用の単位で、6000ドラクメに相当します。1ドラクメがローマの銀貨1デナリオンと等価で、一日の賃金にあたり、一タラントは当時の約16年分の賃金に相当します。仮に一日一万円の賃金として、365日に16年をかけると、5840万円になります。これが5タラントともなると2億9200万円。
5タラント預った人は別に5タラントもうけます。つまり約3億円を別に稼ぐことができました。自分の能力を最大限に活用したのでしょう。どうやって稼いだかは分かりませんが、雰囲気からして相当の努力をしたのでしょう。二タラント預かった人も、ほかに二タラントもうけるほどの努力でした。両者に対して主人は「善良で忠実なしもべ」と言います。「善良」はギリシア語で「アガトス」、「忠実」は「ピスティス」が使われ、特に「ピスティス」は「信仰」とも訳されます。つまり「善良で信仰深いしもべ」ということになるでしょうか。
一タラント預かった人でも相当の金額です。約5840万円なので、この金額に腰を抜かし、驚いたのかもしれません。紛失しないようにと安全のために土に埋めておきました。その心境が分からないでもありません。でも主人は「なまけ者の悪いしもべ」と形容します。確かに預かったもので何か工夫しようとするのではなく、一番安全な方法を取ってしまいました。
5タラント、2タラント預った人に対しては「わずかなものに忠実」と表現します。私たちの感覚では二人とも莫大な金額に思えますが、神様の前では「わずかなもの」になるのでしょう。しかも「忠実」はギリシア語で「ピストス」が使われ、「信仰」(ピスティス)に近い言葉です。つまり「わずかな信仰」でも、私たちに大きな恵みが与えられることを教えてくれます。
タラントのたとえを通して、私たちの才能や信仰の在り方を考えさせられます。
奉仕の精神
〈王であるキリスト〉マタイ25・31~46
今日は「王であるキリスト」の主日です。「王」という言葉は、部族や種族の長たる者を「王」と呼んだり、「君主」、ある特定の分野で頂点に立つ者を「王」と呼んだりします。
キリストが「王」である時、支配、権威、力のような意味合いよりも、私たちのために死に、復活された勝利の王を指しています。その生涯も人に対して支配的なものではありませんでした。貧しい誕生から始まり、罪深い人、貧しい人に手を差し延べ、福音を告げ知らせました。最後は全ての人々の救いのために、いばらの冠をかぶせられ、鞭打たれ、嘲笑され、十字架につけられました。でも死に打ち勝ち、復活することによって勝利の王キリストを示されます。こうした歩みだからこそ、どんなに小さな、弱い人々にも手を差し延べることができたのではないでしょうか。
王は右側の者に対して「あなたがたによく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである」と。左側の者に対しては「これらの最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしなかったのである」と語ります。右側の人は自分が配慮したことを気にしていません。それに対して左側の人は自分がいろいろな人たちに世話してあげたことを主張しています。しかし、王の裁定は厳しいものでした。つまり、「相手のために何かをしてあげる」という姿勢ではなく、評価されなくても相手のために謙虚に奉仕していくことの重要さを教えます。
2011年3月11日に大震災が起こり、たくさんのボランティアが派遣されていきました。私の修道会からも合計7名、ボランティアに参加しました。これに先立ち、事務局の方から「ボランティアに参加する方々は強制されて来ることのないように」という内容の指示をいただきました。参加した7名も、自分の意志で、しかも奉仕の精神を肝に銘じて参加していました。
たとえ他人に評価されなくても、目立たなくても、奉仕し続ける素晴らしさを教えてくれます。
目を覚ます
〈待降節第一主日〉マルコ13・33~37
今日から待降節に入ります。文字通り「主の降誕を待つ季節」です。商店街では11月ともなると、クリスマスの飾り付けが目立つようになってきますが、教会はクリスマス近くになって飾り付けを行う所が多いのではないでしょうか。商店街は「キリストの誕生を待つ」というよりも、できるだけ多くのお客さんに来てほしいということで、商売を意識した飾り付けと言えるでしょう。それに対して教会の飾り付けは、キリストの誕生を待つ心が込められていると言えます。
キリストの誕生を待つのであれば、それにちなんだ朗読が選択されているかというと、「目覚めなさい」という言葉が目に付きます。すなわち、「目覚めていなさい」(13・33)、「目を覚ましていなさい」(13・35)、「目を覚ましていなさい」(13・37)と。このことは、主の誕生ともに、主の再臨を意識したものであることが理解できます。まさにふさわしい準備を…。
かれこれ25年前の話ですが、福岡で志願者の係をしていました。ある祭日の午前9時に教皇大使が修道院を訪問してくれることになりました。福岡のカテドラル、司教館などともに私たちの修道院も…。当日、大使は修道院から車で10分の所にある司教館から訪問してくださることになっていました。恥ずかしい話ですが、連日とても忙しい日々が続き、玄関などを掃除する機会がありませんでした。当日になり、急に思い立って掃除をしたほうがよいだろうということで、朝食後に志願者たちとともに掃除に取りかかりました。時間に几帳面な大使のことなので、9時定刻に到着するだろうと思っていました。あともう少しで終わるという8時40分ごろ、玄関のブザーがなりました。「掃除で忙しいのに、いったいこんな時間に誰が来たのかなあ」と思って玄関に行きますと、教皇大使が立っていました。予定よりも早く着いたとのこと…。ふだんからきちんと掃除をしていればよかったと思いました。
些細なケースですが、私たちはいつもどのように準備しているでしょうか。ふだんの生活に見られる事象を通して、私たちの準備を振り返ってみたいものです。
HOME
HOME
バックナンバーへ