山内堅治神父のみことばの響き
心に留める
〈神の母聖マリア〉ルカ2・16~21
私たちの生活の中で、具体的に活動する時もあれば、これからの活動のために話し合いの場を設けたり、あるいは心の中で思い巡らしたりする時があります。
今日のみことばにおいて、羊飼いたちとマリアの姿勢はとても対照的です。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見て来よう」とか、「羊飼いたちは、このみどり子について自分たちに告げられたことを人々に知らせた」とあるように、誕生したイエスをこの目で見に行きたい気持ち、さらには自分たちに告げられたことを、一日でも早く多くの人々に知らせたいという熱い気持ちに満ち溢れ、羊飼いたちの積極的な活動が目に浮かんできます。それに対してマリアは「これらのことをことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」とあるように、自分の中に起こった出来事について、多くの人々に知らせるどころか、自分の心の中に留めていき、沈黙を守ろうとします。羊飼いたちの態度とは正反対です。イエス誕生という大きな喜びをマリアはいただいたのに、沈黙を守るのは私たちの目にはとても不思議に感じます。
聖ベネディクト(480年~547年)の言葉の中に「祈りかつ働け」というのがあります。彼は数年間、洞窟の中で隠遁生活を送った後、イタリアのスビアコで修道院を設立しました。やがてモンテ・カッシーノへ移り、共同の修道生活を送る形態を築いていきます。修道生活の基本には、この「祈りかつ働け」が根付いています。祈りをベースにしながら、活動にいそしんでいく。現代でもこうした生活は受け継がれています。
羊飼いたちの行動には活動的なものがよく見えてきます。それに対してマリアの行動を見て行くと、活動だけでなく、「思いめぐらす」中に祈りのような、また観想的な姿勢を見い出すことができます。羊飼いたちのような具体的な活動も大事ですが、マリアのような観想的なものも、こういう機会に振り返ってみたいものです。
イエスに視点を当てて…
〈主の公現〉マタ2・1~12
今年の正月はどんな夢を見たでしょうか。日本では縁起が良い夢として、昔から「一富士、二鷹、三なすび」と言われてきました。一説には、「富士山を見て、鷹狩りをし、ナスを食べること」が、徳川家康の幸せだったことから、このように言われたとか…。初夢の代表格でもある富士山をどの角度から見るかによって、私たちの感じ方が違ってきます。
例えば、富士山を山中湖辺りから見ると、堂々とした三角形に見えますが、沼津あたりから見ると、右側(山梨県側)の斜面は少しなだらで、江戸時代に噴火した部分がポコと突き出ているのに対し、左側(静岡県側)の斜面はやや急になっていて、きれいな三角形とは言えません。一方、八ケ岳や南アルプスの北岳、北アルプスの穂高岳頂上などからの富士山は、すーとした三角形を描いていて、とてもバランスがとれています。同じ富士山でも、場所や角度によって違うなあと思います。
さて今日のみことばは「主の公現」の箇所です。「公現」はギリシア語で「エピファニア」と言い、「現れること」「明らかにすること」を意味し、今まで分からなかったことがはっきりしてくることです。東方からの博士たちに代表される異邦人に、キリストが自らの姿を現したことを祝うもので、3世紀に東方で始まり、やがて西欧に広まっていきました。
しかし、今日の朗読箇所となっているマタイ2・1~12に付けられている表題は、「主の公現」というよりも、一般的には博士たちにポイントが置かれています。例えば、フランシスコ会訳では「博士たちの来訪」、新共同訳では「占星術の学者たちが訪れる」、原典のギリシア語聖書では「賢者たちの訪問」、エルサレム・バイブルでさえ「占星術の学者たちの訪問」となっています。つまり、博士たちがイエスのもとを訪問し、黄金、乳香、没薬を幼子イエスにささげたことがポイントになっています。
しかし、典礼の側面から考えていくと、「主の公現」とあるように、イエスがご自身を博士たちに示されたとあります。すなわち博士たちではなく、イエスに中心をおいていくと、「主の公現」の意味がしっくりきます。イエスに視点を当てて、今日の箇所を再度読んでみると、今までとは違う味わいが出てくるかもしれません。
体験入会
〈年間第2主日〉ヨハ1・35~42
どの修道会・宣教会でも数十年前からすると、司祭・修道者への召命がずいぶん減少したように感じます。若者たちが、修道生活に魅力を感じないのか、あるいは修道生活を生きている私たちが、若者たちに魅力や生きがいを示していないからでしょう。とても厳しい現実の中で、勇気をもって召命を目指す若者たちもいます。例えば、私の修道会では、修道院に入会希望者があれば、すぐに許可を出すのではなく、最低14日間の体験入会期間を設けています。修道院で一緒に生活してみて、その後、最終的に決意していく。修道院の生活スタイルを学び、生活している人たちの姿を実際に目にし、ほんとうに自分がこの生活をやっていくことがふさわしいかを判断していく。また受け入れ側も、その方が修道生活をほんとうに望んでいるのかを識別していく期間でもあります。
さて弟子たちの召命についての話は、イエスが弟子たちに呼びかける「わたしについて来なさい」(マタ4・19)がとても知られています。ちょうど、次週の福音の箇所(マルコ1・14~20)がそうであるように…。しかし、今日の箇所ではそうした呼びかけではなく、二人の弟子と一緒にいた洗礼者ヨハネはイエスが通りがかるのを見て、「見るがよい。神の小羊だ」と語ります。イエスから声をかけたのではなく、ヨハネの語りがあり、それによって二人の弟子はイエスについて行くことになりました。イエスは「来なさい。そうしたらわかる」と答え、二人はついて行き、イエスが生活してところを見ることになりました。こうして二人は、イエスの具体的な生活スタイルや状況を目にすることになります。何となく、生活の雰囲気が伝わってくるようです。こうした体験を通して、シモン・ペトロとアンデレがイエスに従うことになりました。
彼らはイエスの具体的な生活を見て、体験して、イエスに従って行く道を選んでいきます。イエスに魅力や生きがいを感じたからでしょう。
主の招きに従う
〈年間第3主日〉マルコ1・14~20
先生たちが自分の後継者を探そうとする時、できるだけ優秀な学生を自分の弟子にしようとするのではないでしょうか。しかも自分の意志を素直に受け継いでくれそうな、支障のない学生を…。
キリシタン研究をしているある大学の先生がこんなことを話していました。この研究のためには、キリシタン時代のことをよく知る必要があり、教会の公式文書として使用されていたラテン語の他に、スペイン語、ポルトガル語、さらには日本語の文語体や筆字の草書体などを理解できる人が必要だと語っていました。確かに教会の文献だけではなく、江戸時代に書かれた文献も読む必要があるので、多岐にわたるし、そうした研究の後継者ともなると、とても大変だなあと話を聞きながら思いました。
イエスの場合はどうでしょうか。イエスは大都会のエルサレムからではなく、人が少ないガリラヤ地方から福音を宣べ伝え始めます。私たちだったら単純に、大都会のエルサレムから始めていけば、とても効果的なのになあと思いますが、私たちの思いとイエスの思いはかけ離れています。
また最初の弟子たちは、ガリラヤ湖で漁をしている人たちです。決して優秀な学生たちではありませんでした。イエスの教えを理解するにも時間がかかり、イエスに怒られたりすることもたびたびありました。しかも漁師をしている人たちですので、当時の社会では机に向かって勉強するというよりも、漁に専念する機会が多かったことでしょう。そうした具体的に仕事をしている人たちの中から選び、声をかけていきました。「わたしについて来なさい」と…。彼らは生活の糧を全て捨てて素直に従っていきます。これからどんなことがあるかもよく分からず、従っていきました。こうして選ばれた弟子たちは、ヨハネを除いて、みんな殉教していきます。
主の呼びかけはとても単純で、素朴なものがありますが、それは同時に、殉教を呼び起こすほどのもの求める招きでもあるように思います。
汚れた霊の恐ろしさ
〈年間第4主日〉マルコ1・21~28
小学生の頃、近く住む一人の子供がよく痙攣(けいれん)や発作を起こし、両親はそのたびに病院の先生をよく呼んでいました。発作がいつ起こるかも分からないので、両親にとってはさぞかし心配の種であっただろうと思います。私も何度か、その場面に立ち会ったことがありますが、全身がガタガタ震え、口から泡を吹き、顔は真っ青。この子はこのまま死んでいくのかなあと思ったことがあります。やがて医師が到着し、痙攣や発作を起している子供に注射をすると、しばらくして痙攣や発作も収まりました。先生は、命の恩人だなあと感じました。
今日のみことばでイエスは汚れた霊につかれている人に向かって「黙れ、この人から出て行け」と語り、「汚れた霊は、その人をけいれんさせ、大声をあげて出て行った」(マルコ1・26)とあります。その場に立ち会っていた人たちにとって、とても恐ろしい光景であっただろうと想像します。痙攣した時間がどのくらいかはっきり書かれてはいませんが、その光景を目にしながら、多くの人にとっても、この人はこのまま死んでいくのかなあと思った人もいたでしょう。今のように医学が進歩した時代ではなかったので、恐怖もさぞかし大きかったことと思います。このような痙攣を起こさせるほど、汚れた霊の強さが想像できます。
ローマで生活している時、聖パウロ修道会の司祭でアーモト神父という払魔師(バチカン公認)がいました。修道院の応接室に悪霊につかれたような人がやってきて、アーモト神父から癒されていました。部屋の中の様子は分かりませんが、時々「ギャー」というような叫びが廊下に響き、最後には両手でしっかりと按手。当のアーモト神父は、悪魔も驚くような怖そうな顔でしたが…。
種々のケースを通して、汚れた霊を追放するイエスの偉大な力を改めて感じます。
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