山内堅治神父のみことばの響き
唾を吐く
〈四旬節第4主日〉ヨハネ9・1〜41
目の不自由な人の癒し(ベトサダの池) 通りを歩いていると、時々道路に唾を吐きかけている人を見かけたりします。その人にとっては訳あってそうしているのでしょうが、決してよい仕草とは思いません。唾を吐くことは、古今東西を問わず、ネガティブな側面が多いものです。旧約聖書の中には、「顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ50・6)や民12・14、申25・9などの箇所。また新約聖書では、イエスの受難の場面で、兵士たちが「唾を吐きかけ」(マルコ15・19)てイエスを侮辱したような行動。現代に至っては「天を仰いで唾(つばき)する」という表現があるように、人を落としいれようとして、かえって自分が損をする言い方さえあります。
こうしたネガティブな側面があるかと思えば、マルコ8・23ではイエスが盲人の手を取り、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置くと、その人の目が見えるようになる箇所があります。唾が目の治療に役立っています。事実、古代エジプト人は、唾が盲目の治療に効果的だと考え、タキトゥス『歴史』4、81の中にもその関連した治療法が記され、当時としては、目の治療に唾を用いるのが一般的だったことが分かります。
さて今日の箇所ではどうでしょうか。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りに」(ヨハネ9・6)なります。その当時としての効果的な方法を用います。また盲人は目が見えないだけではなく、種々のハンディがあります。生まれつき盲人であること、物乞いをしているので、普通の盲人以上に精神的、身体的苦しみを数多く担っていること。その盲人が癒されます。またキリストとの出会いにより、身体的に見えるようになるとともに、精神的にも人生の途上で豊かな光を受けていきます。さらに盲人が癒されたのは安息日でした。
形式にとらわれない、律法に対する新しい見方がイエスにはあります。愛、温かさ、ぬくもり、思いやり。今まで体験したことのない光が、彼の上に射し込んだ瞬間です。
王の姿
〈受難の主日〉マタ27・11〜54
エジプト脱出(ノートルダム大聖堂) 受難の主日(枝の主日)には、二つの福音が朗読されます。一つは枝の行列の前に朗読されるイエスのエルサレム入場に関する箇所、もう一つは受難の朗読です。
エルサレム入場にスポットを当ててみると、現代でもそうですが、だれか偉い人(大統領や首相など)が来日すると、歩く場所には赤いカーペットが敷かれ、両側には兵士たちがずらりと並んでいる光景を目にしたりします。偉い人への配慮や敬意でしょう。
イエスがエルサレムに入城する時も、これに似た配慮がなされます。ロバが引いてこられ、上着をかけ、その上にイエスが乗ります。現代とは様相が違いますが、当時としては荘厳な、最高のもてなしでした。
アシジ また「ロバ」はどんな動物でしょうか。西洋では卑しい動物として理解されていましたが、東洋では「王の乗り物」として大切にされ、「ロバ」に乗る王は平和のしるしを示すものでした。ロバに対して馬は戦争の時に使われ、平和を示す「ロバ」とは大違いでした。このことから、平和の王であるキリストが、ロバに乗ってエルサレムに入城するのもふさわしい光景です。
さらにイエスが歩くところにはシュロの枝が敷かれます。現代では赤いカーペットをイメージするでしょうが、その当時、シュロは大切な役割を担っていました。民衆はイエス・キリストを王として迎えます。戦いに勝った時に「シュロ」を振るように、最高の者として迎えます。また人々は「ダビデの子にホサナ」と賛美します。ダビデは油を注がれた者、民を支配する王です。人々はイエスの中に王の姿を見ていたのでしょう。
ホサナとは「今、救いたまえ」という意味で、詩編118・25〜26にも「主よ、請い願う我らの救い、主よ、請い願う勝利を与えよ。主のみ名によって来るものを祝されよ、我らは主の家からあなたを祝そう」と記されています。王として迎えたイエスを、人々はそんなに時がたたないうちに死刑にします。それまで王として認めていましたが、まったく逆の立場をとっていきます。彼らはイエスの元から去り、弟子たちでさえ去っていきます。イエスにっとっては孤独な体験でした。
受難の朗読にスポットを当ててみると、イエスが十字架を担い、苦しみ、死んでいく姿がよく描かれています。さらには弟子たちが逃げ去り、イエス自身が孤独の中で苦しむ姿を見ることができます。イエスの歩みをとおして真の王の姿がよく見えてくるのではないでしょうか。
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