みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

熱意

〈復活節第3主日〉ルカ24・13〜35


1.jpgエマオの旅人 10年前になりますが、「家庭の友」誌でユダヤ教のラビにインタビューしたことがあります。彼が日本人について語ってくれたことが、今でも印象に残っています。「日本人は恵まれていますが、満足した顔がない。疲れがたまっていて、暗い顔つきをしています」と。種々の仕事に追われ、いつの間にか暗い顔つきになっているのかもしれません。

 二人の弟子がエルサレムからエマオへと旅をしています。イエスを失ったという悲しみのあまり、彼らの表情は「暗い顔つき」です。彼らはイスラエルを解放してくれるという望みをいだいていたけれど、実感がわいてこない。復活したという噂は聞いているけれど、本当かどうか確信が持てない。種々の失望感が彼らの脳裏を覆っていたことでしょう。

 イエスは二人の弟子とともに歩いていますが、彼らは全く気づきません。自分の思いだけに縛られていると、周りがよく見えない私たちの状況とまったく同じではないでしょうか。この中で興味深いのは、どんなに私たちがイエスに気づかなくても、イエスは私たちと行動を共にしてくださることです。しばらく時間がたってみて初めて、「あの時」、イエスが私たちと共に歩んでくださったことに気づくものです。

 イエスは聖書を説明し、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人の弟子に渡します。聖体祭儀と同様の動作ですが、これによって弟子たちの目が開いていきます。さらに聖書を説明してもらった時に、自分たちの心が燃えていたことに気づいていきます。イエスとの出会い、同伴により私たちに熱意が生じました。

 「熱意」に関するヤコブ・アルベリオーネ神父のことばはとても印象的です。「聖パウロが生きていたら、今もなお同じ一つの火から出る二つの燃え続けることだろう。すなわち神とキリストへの熱意、すべての国の人々への熱意。」
 みことばや聖体など、イエスとの出会いにより、燃えるような熱意をイエスから与えられ、その熱意によって日々邁進したいものです。


十字架から栄光の道へ

〈復活節第5主日〉ヨハネ14・1〜12


2.jpg札の辻 「みち」を辞書で調べてみると数多く出てきます。道、路、途、径、迪、倫、軌、塗など。「みち」と言ってもこんなにあるのかと驚きました。特に「道」は人間が踏んでいくみち、「路」は足で踏む、「途」は歩行する道と表現されています。これらの中でも、人生において深い意味を持つのは「道」。事実、日本では、茶道、華道、柔道、剣道などのように、精神性を重んじた内容が込められています。

 みことばの中で、「わたしは道である」と記されています。イエスにとっての道は並大抵のものではありませんでした。十字架への道に視点をおくと、それは孤独、軽蔑、苦痛。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザヤ53・7)、「茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて(中略)侮辱した。唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた」(マタイ27・29〜30)という箇所が目に留まります。十字架への道も、やがては喜び、栄光を伴う復活への道につながっていきます。

3.jpg鳥越神社 「十字架への道」と「復活への道」を感じさせてくれるのは、1623年12月4日に殉教した「江戸の殉教者たち」です。50名が江戸で殉教していきますが、そのうちの一人は原主水で、今年の11月24日、長崎で列福の恵みをいただきます。この殉教者たちを偲びながら、何度か彼らの足跡を辿ったことがあります。

4.jpg銀座 都内にある浅草橋駅を降り、浅草教会を訪問。しばらく静かな時間を過ごしてから近くにある鳥越神社へ。かつてこの近辺にはハンセン病患者の施設があり、フランシスコ会の方々が世話をしていました。ここから江戸通を南下し、小伝馬町の牢屋敷へ。この牢獄には一般の犯罪者の他に、数多くの宣教師たちやキリシタンたちが捕らえられました。50名の殉教者たちもここに捕らえられ、牢獄の中は劣悪を極めたと言います。やがて彼らはここから見せしめのため、今でも人通りの多い室町→日本橋→京橋→銀座→新橋を通って札の辻の処刑場へと連行され、火刑に処せられました。ちょうどこの時、江戸では将軍徳川家光の就任を祝うために全国の諸大名が集まっていた時でした。彼らが歩いた道のりは十字架への道のりでしたが、同時に天国の栄光を目指した復活への道のりでもありました。

 イエスの十字架の道、殉教者たちの道を思いながら、栄光に導かれた復活への道のりに希望をおいて歩みたいものです。