みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

見る目

〈年間第2主日〉ヨハネ1・35~42

 
名称未設定-23.jpg 今日の箇所に「見る」という言葉が5回登場します。ギリシア語原文を併記していくと、「歩いておられるイエスを見つめて(エムブレポー)、『見よ(イデ)、神の小羊だ』」(1・36)、「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て(テアオマイ)」(1・38)、「イエスが泊まっておられるかを見た(ホラオー)」(1・39)、「イエスは彼を見つめて(エムブレポー)」(1・42)というように、「見る」と訳されていますが、同じ用語は36節と42節だけです。

 例えば「エムブレポー」というのは、「目を留める」という意味があり、心の中まで見抜くような見方でしょう。「空の鳥をよく見なさい」(マタ6・26)の時、この「エムブレポー」が使われています。「イデ」は「見よ」「ご覧」の意味があります。「テアオマイ」は「見届ける」「観察する」の意味があり、「ホラオー」は「見る」「見える」の意味です。「見る」とはいえ、このようなさまざまな表現があります。

 最初に出てくる「エムブレポー」を使うのは洗礼者ヨハネです。二人の弟子が気づいたのではなく、洗礼者ヨハネがイエスをしっかりと見つめて、その後、弟子たちがイエスに従っていきます。洗礼者ヨハネの目に間違いはないと彼らは感じたのでしょう。また洗礼者ヨハネは、イエスの後に従う二人の弟子たちに対して何の咎めもしません。普通なら、自分の弟子が横取りされた気持ちになるのでしょうが、洗礼者ヨハネの心の広さが感じられます。またイエスが凝視する人はシモン・ペトロです。イエスはシモンを見つめた後、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言います。イエスの見方にはいろいろは角度があるのでしょうが、シモン・ペトロに対する目は、他の弟子たちには向けない鋭い視線があるのではないでしょうか。

 この箇所の大きなタイトルは「最初の弟子たち」ですが、「目」や「見る」視点で読んでいくと、また違った味わいがあります。
 

 
 

回心の意味

〈聖パウロの回心〉マルコ16・15~18

 
パウロの回心-2.jpg 通常は年間第3主日ですが、「パウロ年」の特別の機会にあたり、教皇庁から今日は一回だけ「聖パウロの回心」のミサをささげることができます。せっかくの機会ですので、この回心にスポットを当ててみたいと思います。

 回心の場面で有名なのは、使徒言行録9章1節~19節です。その場面は次のように記されています。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』」(使徒9・3~4)と呼びかける声を聞きます。この場面でよく描かれているのは、ダマスコの途上で落馬する様子です。実際に馬に乗っていたかは定かではありませんが、とても劇的な描写です。

 この回心により、これまでとは違う生き方をパウロはしていきます。パウロは回心の場面で言います。「主のあなたはどなたですか」と。それに対する答えがあり、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。それまで迫害者であった者がすっかり立場を入れ換えて宣教する者に変わっていきます。パウロはこの回心について自分では「回心」というよりも「捕らえられた」と表現していきます。自分の力ではなく、神の力や光による恵みです。私たちも自分の力に過信すぎることがありますが、パウロの態度には神様の恵みを素直に受け止めていく姿勢が見られます。
 今日の福音でイエスは弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と語ります。語るにあたり、まず自分自身で神様の恵みをしっかりと受け止める必要があります。自分の力だけだと、それは違ったものになっていきます。

 パウロの回心の背景には自分自身が行動したことよりも、神様の恵みをどれだけ感じ取っていったかが大きなポイントのように感じます。