山内堅治神父のみことばの響き
驚き
〈年間第14主日〉マルコ6・1~6
休暇で自分の故郷へ行き、出身教会で説教をするほど難しいものはありません。自分が所属する共同体もそうですが…。
イエスは自分の故郷へ帰り、弟子たちも従って行きます。イエスが会堂で教え始めると、多くの人々が驚きます。「この人は、大工の子ではないか」と。とても軽蔑的な言い方です。昔からよく知っている仲間たちは、イエスの話に驚きます。
「驚く」と出てきますが、どんな意味が込められているでしょうか。ギリシア語で「エクセプレソー」が使われ、「打ちのめされ」「仰天する」「呆然とする」といった意味があります。漢字で「驚く」という字は、「馬が後足で棒立ちになり、上を向いておどろくさま」「はね上がる」とあります。いずれの意味にせよ、イエスが会堂で話している様子に郷里の人々は「開いた口がふさがらない」という気持ちになったことでしょう。
また「大工ではないか」という時、どんな意味が込められているのでしょうか。シラ書38・25~27には次のような内容が記されています。「どうして知恵ある者となれようか、鋤を握り、突き棒の扱いを自慢する者が。また、牛を追い立て、仕事に忙しく、話題は子牛のことばかりという者が。職人や職人頭も同じだ。彼らは昼夜を分かたず仕事に励む。」こうした人々が知恵ある者になれない軽蔑的な表現で、大工の仕事も同じように思ったことでしょう。またユダヤ人の社会は男社会が強い世界ですが、「マリアの息子」というよりも「ヨセフの息子」として、父親の名前が言われるはずですが、「マリアの息子」という表現には、父親は不明というような中傷的内容が見え隠れします。
これらの状況を踏まえてくるとき、身近な人たちに受け入れられないイエスの思いと、それを理解しようとしない人々の心の狭さが見えてくるのではないでしょうか。
宣教者としての歩み
〈年間第15主日〉マルコ6・7~13
最近は登山の機会がめっきり減ってしまったのですが、学生の頃はよく山に登っていました。しかも南アルプスや北アルプス。
学生の頃は体力がある分、お金がなくてテントや食糧をかついで登ったものです。山小屋に泊まったりするとけっこう高くつくし…。その頃のザックは肩に食い込むようなもので、荷物そのものも20キロ近く。最近、山小屋に泊まる時はだいたい12~13キロ程度ですから、重さの違いは歴然としています。
山登りも回数を重ねるにつれ、いろいろと要領を覚えていきました。一つのものをいかにしていろいろなものに使うかと。例えば、新聞紙だと敷物にしたり、背中のクッションにしたり、汗をかいて冷えそうな時には上着とシャツの間に入れるとけっこう保温効果があり、風邪をひかなくてすむなど…。一つのものがいろいろな用途に変わっていきました。できるだけ荷物を軽くするための秘訣です。節約はまた、自分の鍛錬にもなるもの。
今日の福音の中で「旅には杖の一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物ははくように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じます」(マルコ6・8~9)。共観福音書で同じ箇所を読んでみると、マタイ福音書とルカ福音書では杖も履物もダメだと言っています。なぜこんなに違うのでしょうか。ガリラヤの風土であれば、杖や履物がなくても歩いて宣教することは可能でした。しかし、パウロと宣教したマルコはギリシアやトルコなどを旅してまわります。そこは山を越え、谷をわたり、長旅の連続でした。そういう行程であれば、杖や履物は必需品なので、マルコ福音書の場合はそうしたものへの配慮からくるのでしょう。それでも共通することは、「ともかく贅沢をするな」。
私たちも洗礼によって宣教の務めがあります。いろいろな場で身軽な形で神様のみことばを宣べ伝えたいものです。
人里離れた所
〈年間第16主日〉マルコ6・30~34
ある風鈴を作っている会社の人が、「風鈴はガラスで作るけれど、最近、その音の高さが以前よりも高くなった」と言っていました。それは騒音に影響するようで、それに負けじと音が高くなっているのかもしれません。同時に、人間の社会もストレスや疲れがたまっているのでしょう。
毎日、慌しい日々を過ごしていますが、休暇をどのように過ごそうとしていますか? イエスは弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と語ります。弟子たちもかなり疲れていて、こうしたゆっくりとした時間が必要だったのでしょう。「人里離れた所」と言いますが、ギリシア語原文では「エレモス」が使われています。これは「荒れ野」「砂漠」を意味することばで、とても意外です。私たちが休暇をとってのんびりしたいと思えば、自然に満ち溢れた湖、海辺、緑にあふれた山などを想像します。ところがイエスは「人里離れた所」と言って、人間がだれもいないような、しかも危険に満ちたような「荒れ野」「砂漠」を示唆します。確かにそこは何にもないので、全てを忘れてゆっくりできる所ではないでしょうか。私たちがゆっくりできる所というと、全てが満ち足りて、全てが整っている場所を想像するかもしれません。むしろ、何にもない所でのんびりと過ごすと、今までとは違う何かを得ることができるのかもしれません。まさに「無の境地」の休暇。
疲れきった弟子たちを見てイエスはまた「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」ます。飼い主のいない羊は、まとまりがなくなるものです。野獣の餌食になる危険さえあるでしょう。そんな彼らの状況を察知して、イエスは心から憐れんでいきます。そこに弟子たちが癒される秘訣があるのではないでしょうか。
慌しい現代において、その癒しを求めている人が多いものです。あらゆるもので満ち足りた社会だからこそ、何にもない世界がかえって癒しを与えてくれるのかもしれません。
感謝の心
〈年間第17主日〉ヨハネ6・1~15
同じものでもリサイクルする人、捨てる人、別の用途に活用する人、実にさまざまです。
今日の箇所は、パンを増やす奇跡ですが、男だけでも5000人近くいます。大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年に出会います。弟子たちの反応は常識的な考えです。「こんな大勢の人では、何の役にも立たない」と言います。常識では確かにそうです。それに対してイエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えて」から多くの人に分けていきます。イエスは決して少ないと嘆きません。むしろ感謝の祈りを唱えています。
弟子たちの反応とイエスの反応とではずいぶん異なっています。数の上ではまったく同じですが…。同様に私たちもよく召命について、少ないと言ったりしますが、恵まれていることに対して感謝を忘れてはいないでしょうか。
数年前、広島で日韓学生交流があり、雑誌の同行取材をした時のこと。一人の司教さんが自分の体験を交えて次のように話しました。「私のお父さんはガンになり、モルヒネを打って、家で一日中ボーとする日々が続いていました。ある日、お母さんが次のように言いました。『お父さんは一日中ボーとしていて、世話を焼いているなあと思うでしょう。何の手伝いもしないし…。でもお父さんが生きているだけでも幸せなんだよ』」。そのお母さんの言葉にとても感動したそうです。この話を聞いた日本と韓国の学生たちは、とても共感を覚えていました。他人に世話はかけているけれど、そこにいるだけで幸せを与えてくれる。どんなに感謝に満ちた言葉でしょう。
私たちも日々の生活で迷惑をかけることもたくさんあります。でもそれはお互いの思いやりや交流のために、とても役立っているものです。
HOME
HOME
バックナンバーへ