みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

コミュニケーションの原点

〈年間第18主日〉ヨハネ6・24~35 

年間第18主日<ダブリン市内.jpg 旧約聖書の出エジプト記の中で登場しますが、モーセはイスラエルの民を導いて荒れ野を旅します。ところが食料も底がつき、民はモーセに対して不平不満をぶっつけ、人々の心はモーセから離れます。モーセはとても困り果てますが、父なる神は天からマンナを降らせ、それらが人々に与えられることで、人々の空腹が満たされていきます。しかし、それらは空腹を永遠に満たすものではありませんでした。
 やがてイエスが到来し、イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とか、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と語ります。モーセがイスラエルの民を導いて体験したこととは明らかに違います。またイエスの時代には、ローマ帝国の支配下のもとでユダヤの社会自体が貧困を強いられ、貧しい人々が数多くいました。目に見える糧と目に見えない永遠の命との対比で、イエスのことばに多くの貧しい人たちは、力と勇気を得たのではないでしょうか。
 「飲んだり」「食べたり」というと、何となく不謹慎に感じる人もいるかもしれませんが、アイルランドへ行くと、ちょっと町にもパブがよくあります。「居酒屋」には違いありませんが、ビールやウィスキーだけでなく、ジュースやコーラなども置かれ、家族連れで楽しめるような、とても庶民的な雰囲気の場所です。それは一つのコミュニケーションの場。そうした日常生活の中で繰り返される飲食を、イエスは永遠の命と関連づけていきます。それはイエスと私たちとのコミュニケーションにもなるでしょう。
イエスは私たちのために、十字架につけられ、血を流して命をおささげになります。イエスと私たちとのコミュニケーションの原点は「十字架」から…。
 

永遠に生きる

〈年間第19主日〉ヨハネ6・41~51 

年間第19主日<十字架につけ.jpg  聖体賛美式やちょっとした演奏会などで「AVE VERUM」という曲が歌われたりします。原曲はラテン語のグレゴリオ聖歌。「めでたし、おとめマリアから生まれたまことのからだよ、まことに人類のために苦しみを受け、十字架の上でいけにえとなられたかたよ。」(「教会にいのちを与える聖体」カトリック中央協議会訳82頁参照)という意味です。
 グレゴリオ聖歌はとても素朴なメロディーで、心に響いてきます。同じタイトルでも有名なのはモーツァルトが作曲した「AVE VERUM」です。この曲は48小節からなり、繰り返しが一回もない名曲で、モーツァルトの晩年の作品とも言われています。特に「in mortis(死において), in examine」という部分では、一番の高い音の響きと共に、モーツァルト自身が死を目前にして、最後は自分の生涯を神様に委ねる素直な気持ちがよく描かれている作品ではないでしょうか。
 今日のみことばで、「このパンを食べる人は永遠に生きる」とあります。キリストがご自身を与えるパンを私たちがいただくことにより、永遠の命へと導かれていきます。モーツァルトもカトリックの信徒でしたので、聖体をいただくことにより、永遠の命をかみしめたことでしょう。特に晩年は…。
 ある日のこと、長い間教会から離れ、ゆるしの秘跡や聖体拝領から遠ざかり、やがて重い病気にかかった人を見舞ったことがあります。彼は久しぶりにゆるしの秘跡を受け、心から回心し、聖体を拝領しました。長い間、教会をご無沙汰していて、久しぶりの聖体拝領であっただけに聖体を受ける仕草も、とても初々しいものを感じました。重い病気を抱えていることもあり、聖体をいただくことで永遠の命を意識したのではないでしょうか。聖体を通して、永遠の命の味を考えてみたいものです。
 

命のパン

〈年間第20主日〉ヨハネ6・51~58 

年間第20主日<十字架につけ.jpg  日常生活の中で不可欠なものは何でしょうか。目に見えないものであれば、光、風、息、霊、神などをあげることができるでしょう。目に見えるものであれば、食べたり飲んだりすること。
 食べることを考えてみると、それは空腹を満たすためです。食事には「目で食べる」というように、日本食は欧米の食事に比べてとてもきれいです。盛り付け、きめ細やかさがあるのではないでしょうか。
 また飲むことも人間の生活で欠かせないものです。暑い時に冷たいビールやソフトドリンクを飲む。それによってコミュニケーションをとることもできます。
 今日のみことばでキリストは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得る」(6・54)と語ります。ユダヤ人には「肉を食べる」とは人を殺すこと(詩編27・2)を意味し、血を飲むこともユダヤ教では厳禁され(レビ17・10~14、申12・23参照)、衝撃的なことでした。しかしイエスは、「これは天から降ってきたパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる」(6・58)と語ります。ギリシア語で「食べる」という用語には主に三つ出てきます。①「食べる」ことでよく使われる「エスティエイン」、②「大食い」「大食漢」を意味する「ファゲイン」、③「噛み砕く」の意味を持つ「トロゲイン」。6・53に登場する「人の子の肉を食べ」は「ファゲイン」、6・54の「わたしの肉を食べ」は「トロゲイン」、6・58の「このパンを食べる者は永遠に生きる」も「トロゲイン」が使われています。こうした表現からも、ユダヤ人にとっては、なおさら衝撃的だったのではないでしょうか。
 またイエスは、十字架上で自分自身のいのちをささげます。こうして私たちは裂かれたイエスの体、流された血にあずかることによって、新しい命を生きます。私たちに記念として残された聖体をいただきながら、キリストとの一致を考えてみましょう。
 

忍耐をもって歩む

〈年間第21主日〉ヨハネ6・60~69 

年間第21主日<ユダの裏切り.jpg 同今日のみことばは「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(6・60)ということばから始まります。何が一体ひどい話でしょうか。先週のみことばでイエスがユダヤ人たちに語った「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6・54)などです。これまでの常識では考えられないイエスの発言でした。それらに対してイエスは、「命を与えるのは霊である」(6・63)と語ります。イエスは聖体のことについて述べていきますが、多くの人々がイエスのもとから去っていきます。「弟子たちの多くが離れ去る」と表現されている中で、ギリシア語で「多く」は「ポッロイ」が使われ、「数多く」の意味を持ち、「離れ去る」には直訳すると「後ろに離れていく」「背を向けて去っていく」などを意味します。「離れ去る」「背を向ける」光景として、ユダがイエスを裏切る場面、ペトロがイエスのことを三回否定する場面などを思い起こすことができるでしょう。
 これに似た状況かもしれませんが、使徒聖パウロもアテネのアレオパゴスで体験します。パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、アテネの人々に向かって説教します。ところが人々の反応はとても冷たいものでした。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」(使徒17・32)と。パウロにとってはとても辛い仕打ちを受けた時でした。
 現代では、教会に救いを求めてきたのに、何の効果も表れなかった。そのために教会から去っていく人たち。修道院に入ったのに、こんなはずではなかったと去っていく人たち。自分が期待していたことと裏腹の場面に遭遇することでしょう。そんな時、自分の尺度ではなく、神様の尺度で見ていけば、一つの解決策が見えるでしょう。
 

おもてなしの心

〈年間第22主日〉マルコ7・1~8、14~15、21~23 

年間第22主日<静岡市・紅葉.jpg ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを固く守り、念入りに手を洗わないと食事をせず、市場から帰ってきた時には身を清めてからでないと食事をしない習慣を身につけていました。当時のユダヤ人は、水が貴重であるにもかかわらず、手のこぶしまで洗っていました。また牢獄で渇死したラビ・アキバ(紀元51年~135年没)は、牢獄で与えられた少量の水を飲まずに、その水で手を洗ったほどでした。いろいろな規定を忠実に実行するところに、彼らの律法遵守が感じられます。
 イエスは彼らの心を見抜きます。イザヤ29・13を引用しながら、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と語ります。私たちの生活でも、手を抜いて仕事をしたり、いい加減な作業をすると、その不正がいつかは明らかになるものです。
 イエスは外面的なことと心の内面的なこととが調和することを語ります。いくら外面的に立派でも、心が離れているとアンバランスです。日本の文化は外国でもよく評価されていますが、「○○道」というのがあります。「柔道」「剣道」「茶道」「華道」など。たんに技術だけではなく、精神性や心の問題をとても大切にします。例えば、「生け花」では、技術的なことよりも、「心を落ち着けて、花に心を生ける」と言われたりします。「茶道」では、単にお茶を飲むだけではなく、姿勢、歩き方、持ち方、拭き方など、心との関わりがあります。柔道でも試合に勝つだけではなく、「精神統一」「道を究める」ことが要求されたりします。外面的な形と心とがうまく調和している「おもてなしの心」に触れることができるのではないでしょうか。時代とともに忘れられがちなことですが、この心を大切にしていきたいものです。