山内堅治神父のみことばの響き
自分の貧しさを知っている人
〈諸聖人〉マタイ5・1~12a
聖書を読み、文字を通して味わうこともできれば、イエスが実際に語られた場所へ行って、その箇所を読み、体感することもできます。後者の方がイエスのことばをより身近に感じることができるのではないでしょうか。
10年前の8月、聖地へ巡礼する機会がありました。シナイ山のふもとなどでは日中45度近くまで温度が上昇し、ちょっと歩くだけでも日本にはない暑さでフラフラするほどでした。やがてエリコを通ってガリラヤへ。そこは緑も多く、ガリラヤ湖があるためか、少々湿度は高いものの、風景を見てほっとする場所でした。湖の岸辺からちょっと高台の所に山上の垂訓、今日の福音の箇所の舞台があります。「山」とは言え、標高100メートルもないくらいで、「丘」と言ったほうがよいかもしれません。その高台から眺めるなだらかな斜面やガリラヤ湖の風景は圧巻です。イエスがこうして情景の中で、今日の福音のメッセージを語ったのかと…。マイクがない時代ですから、多くの人々に聞こえるようにイエスは大きな声で語ったことでしょう。
教会の中に入ると、八角形になっていて、8つのメッセージがラテン語で記されています。一番最初のことばは「心の貧しい人々は、幸いである」(5・3)。このことばはフランシスコ会訳では「自分の貧しさを知っている人は、幸いです」と訳されています。個人的には後者の訳が好きです。自分の才能の不足を認め、自分の力ではどうしようもないので、神の力に頼らざるをえないと思う人にとって、このことばは響いてきます。自分の不足、知恵のなさなどは、その人にとっては、辛い部分ですが、神に信頼していく第一歩とも言えます。神に頼ることのない自己中心主義から脱却する秘訣を私たちに教えてくれます。
「自分の貧しさを知っていくこと」、それは神や「幸い」に近づいていく第一歩とも言えます。
寛大さ
〈年間第32主日〉マルコ12・38~44(12・41~44)
一人の貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献金します。この銅貨二枚の価値は今で言えば100円くらいでしょうか。100円とするなら、自動販売機で500ccの水を買うのと同じくらいの感覚です。私たちの生活からすると、ささやかな値ですが、このやもめにとっては生活の全てでもある値でした。ケチ臭い私だと、銅貨の一枚は献金しても一枚は自分の生活のために手元に残したいのが心情です。しかし、このやもめは全てを入れることで神様を愛する心、自分にとって何が大切なのかをよく理解していたのではないでしょうか。
最近、長崎の教会を世界遺産にしようとする動きがあります。もちろんそこには賛否両論ありますが、実際に長崎の教会を見て思うのは、「自分たちの教会」という感覚が根付いています。それはおじいさんや曾祖父の時代に教会を建てるために自分たちも木を切り出したり、レンガ造りのために土をこねたり焼いたり…。教会を建てるために、単にお金を出すだけでなく、自分の労力を捧げたからこそ愛着があるのではないでしょうか。まさに手造りの教会とも言えます。そんな中、信者たちの生活はとても貧しいものでした。それでも生活の中心に教会があり、そのためにはお金や労力を惜しまない。惜しみなく与える愛が自然に成長していったのではないでしょうか。その結実が教会の建物とも言えます。
漁師たちは豊漁であれば、神様への感謝の気持ちで教会に献金する。農家の人たちは作物がたくさんできれば、やはり神様への感謝の気持ちで教会のために献金する。彼らには貧しくても、何を優先するかがしっかり根付いているように思います。また神に信頼する心が自然に身に付いていたのではないでしょうか。
寛大な気持ちでささげていく。今日のみことばはそのことを教えてくれます。
終末は神との出会い
〈年間第33主日〉マルコ13・24~32
1985年のこと。「ハレー彗星が76年に一度現れる」ということで、みんな興味津津でした。次に現れるのは2061年なので、私は生きてはいないでしょう。この彗星の存在を発見したのは、ハレーという人です。計算上のことで、実際に彗星が接近したのは、ハレーが亡くなった後のことでした。
天文学が発達していない時代にあって、天体の変化は不吉なもの。日食、月食、流星など…。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(13・24~25)と。今年の7月、日食が起こりました。昔であれば、何か不吉なことが起こるのではと思ったでしょうが、今では一大イヴェントで、商魂たくましい人も数多くいました。
旧約聖書の中で「天と地に、しるしを示す。それは血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶものは皆、救われる」(ヨエル2章~3章)。そう言えば、2000年になろうとした時、「世の終わりが来る」と不安を掻き立てる人たちもいました。確かに時の区切り目なので、そういう感じもしましたが、教会は大聖年を祝いました。その年を祝うことにより、暗い時代というよりも何か新しいものに向かうものがあったし、希望を感じさせるものでした。新しい時代に入ることにより、神との新たな出会いを感じさせるものです。
今日の聖書のことばにも、「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(13・29)ということばが響いてきます。終末は神との出会いの時とも言えるのではないでしょうか。出会いは不安よりも喜びを感じさせてくれます。
この時代には変わるものが数多くありますが、変わることのない神の言葉もあります。それに信頼することによって、私たちは希望を失わないで歩むことができます。世の終わりの不安よりも、希望に満ちたものをみことばから感じたいものです。
王様
〈王であるキリスト〉ヨハネ18・33b~37
今日は「王であるキリスト」をお祝いしていますが、福音の中で語るピラトの「王」とイエスの「王」の意味が違うことに気づきます。「王」の意味を辞書や種々の言語で比べてみると面白いものです。例えば「国語辞典」には「王」について「天命を受けて統治するもの。強い支配権を世襲するもの」と記されています。「漢和辞典」では、象形文字と関わりから、「大」という字を上に書き、その下にカーブした剣(斧)を重ねます。そこから大きな斧を立てた形、つまり大きな斧は「大きくて威力あるもの」、これが転じて「君主」を意味し、「王」として使われるようになったと言います。ギリシア語で「王」は「バジレイウス」が使われ、「バジレイア」(国)、「バジリカ」(大聖堂)とも関わり、「威力、力」を意味しています。ラテン語では「レックス」が使われ、動詞の「レーゴ」(指揮する、支配する、統治する)から派生しています。こうして比べてみると、「王」という言葉には、「君主、支配者、統治者」といった意味を考えることができるでしょう。
旧約聖書では、注油によって聖別されたサウロ王、注油され神と人との仲介者となったダビデ王、エルサレムの神殿を建て、民の支配者となったソロモン王を想起することができます。ここから「王」には、聖別され、神と人との仲介者、政治的支配者が浮かんできます。
イエスの場合はどうでしょうか。イエスは「神と人との仲介者」(一テモ2・5)とあるように、政治的な支配者、統治者ではありませんでした。しかし、人々はイエスに政治的支配者を求めます。イエスの真の姿は、十字架上で亡くなり、三日目に復活することで、人々のイメージとはかけ離れていました。罪もないキリストが重罪人扱いの死刑を受けていく。「苦しむしもべの姿」(イザ53・12)がイエスにはありました。イエスと共に十字架につけられた犯罪人には、イエスの本当に姿が見えてきます。つまり「イエスさま、あなたが王権をもって来られるときには、どうかわたしを思い出してください」(ルカ23・42)と。本当のことを理解できたのは、犯罪人、しかもイエスとほんのわずかの間に出会った人でした。どうも時間の問題ではないようです。
私たちもイエスをどのように見ているか、今日のみことばから考えてみたいものです。
目を覚まして祈る
〈待降節第1主日〉ルカ21・25~28、34~36
世の中にはたくさんの不安があるかもしれない。日本では約50年間続いた自民党から民主党に変わり、マニフェスト通りほんとうに進むのだろうかと不安をいだく人もいます。また景気の低迷がずっと続き、失業者が増加しています。今後、社会はどのように変化していくのだろうか。
かつて天体の変動なども人々に大きな不安を駆り立てていきました。「太陽と月と星に徴が現われる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」(ルカ21・25)。「天体が揺り動かされる」(ルカ21・26)。今年の4月、イタリアのアクィラで大きな地震があり、多数の死傷者が出ました。現在もその復旧作業が続いています。先日、イタリアで国際会議があり、その合間にアクィラから来られた方に会う機会がありました。その方が「日本では地震は頻繁にあるけれど、アクィラでは珍しいことで、地震の時にはとても驚きましたよ」という話をしていました。ふだんそういう体験がない所での地震は、とても恐ろしいものです。
また「放縦や深酒や生活の煩い」(ルカ21・34)を挙げます。こうした思い煩いは、富や快楽から出てくることをしばしば述べています(ルカ8・14、12・22)。そうしたものに注意をすることを著者は喚起します。「目を覚ましていなさい」とも…。ところが、私たちは疲れや悩みなどのために長い間苦しむこともあります。そんな時ほど「目を覚まして」いなければならないのではないでしょうか。
同時に今日のみことばは「祈りなさい」とも語っています。私たちが求めるものに対する心構えが見えてくるのではないでしょうか。
典礼年間のスタートにあたり、私たちがふだんどんな姿勢をとっているかを考えてみたいものです。
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