異邦人への宣教 - みことばの響き

山内堅治神父のみことばの響き

異邦人への宣教

〈主の公現〉マタイ2・1~12

聖書博士の来訪(デューラー).jpg 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(マタイ2・1)ということばから始まります。「ベツレヘム」とは、ヘブライ語で「パンの家」を意味し、ダビデ王の出身地として有名な所です(一サム16章、20・6参照)。ここでわざわざ「ユダヤ」を入れているのは、ガリラヤにあるゼブルン族のベツレヘム(ヨシ19・15)と区別するためでしょう。
 ベツレヘムで誕生したイエスを拝みに、占星術の学者たちが東方からやってきます。「占星術の学者」とは、ギリシア語で「マーゴイ」が使われ、「博士」「占い、医術を行っていた学者」などを意味しています。また彼らは本来、ペルシアの祭司で、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈をよく行い、人の運命や世の動きについて神意を伝える人々、多くの人々から尊敬されていました。後の時代になると「マーゴイ(magoi)」は西方の世界で「魔術師」を意味するようになり、「マジシャン」などもその部類に入るでしょう。
 東方でとても尊敬されていた外国人の占星術の学者たちが、幼子イエスの前にひれ伏して拝みます(2・11)。イエスの活動が異邦人のためであることを強調するマタイ福音書において、幼子イエスを最初に礼拝した人たちが外国人(異邦人)であったことを強調します。こうした内容は、その後も「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21・43)と語ることにより、神の国が異邦人に与えられることを示していきます。このような姿勢に対応するのは、祭司長やファリサイ派の人々(マタイ21・45)でした。
 主の公現の出来事を通して、救いの広がり、また異邦人に及ぶ救いの豊かさを感じることができるのではないでしょうか。

祈りの中で

〈主の洗礼〉ルカ3・15~16、21~22

イエスの洗礼(レオナルド).jpg  主の洗礼について、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書に登場しますが、ルカ福音書には他の福音書にはない味わいがあります。
 ちょっと長い引用になりますが、マタイ福音書では「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」(3・16)、マルコ福音書では「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(1・9~10)、ルカ福音書では「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のようない目に見える姿でイエスの上に降って来た」(3・21~22)と記されています。
 ルカ福音書を中心に味わってみると、イエスだけでなく民衆も洗礼を受け、イエスの祈りの姿がとても印象的です。それは他の福音書には見られない特別な味わいではないでしょうか。
 この場面に限らず、ルカ福音書には祈りの場面がよく描かれています。十二人の弟子を選ぶにあたり、「イエスは祈るために山へ行き、神に祈って夜を明かされた」(6・12)とか、ペトロがイエスのメシアについての信仰告白をする前でも「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(9・18)と記されています。さらに主の変容にあたり「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」(9・28)とあります。祈りの中でも感動的なのは、イエスのオリーブ山での祈り、つまり「ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」(22・41~42)と。
 こうした祈りに関する箇所をルカ福音書から集めてみると、イエスの洗礼の場面での祈りは種々の活動の出発点とも言えます。聖霊の恵みとともに、イエス自身の祈りを洗礼の恵みから味わってみたいものです。

最初のしるし

〈年間第2主日〉ヨハネ2・1~11

年間第二主日(カナの婚宴).jpg 有名なカナでの婚礼の箇所ですが、結びの部分で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(2・11)と記されています。
 「しるし」を辞書で調べてみると「印」「標」「徴」とあります。「印」は印鑑など、「印をつける」の意味、「標」は「人目につきやすい目じるし」、「徴」は「表面にあらわれたしるし」を意味します。ここからカナでの婚礼は「徴」の意味に近いのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書から、イエスがなさったしるしには他のどんなものがあるでしょうか。ヨハネ4章に出てくる役人の子の癒し、ヨハネ6章の病人たちになさったしるし、同章のパンを増やすしるし、9章の盲人を癒すしるしなど数多く出てきます。しかし、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」(12・37)と。たくさんのしるしを示されたにもかかわらず、人々の無理解があったのでしょう。種々のしるしでも、イエスにとって最高のしるしは死と復活です。最後にヨハネ福音記者は、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(20・30)と。
 さてカナでの婚礼はイエスにとって最初のしるしですが、これは最後のしるしとも言える「十字架」と非常に密接につながっています。イエスは母に「婦人よ」と語りかけます。これはキリストが十字架上から母マリアに語りかけた言葉と同じです。
 またイエスは「わたしの時はまだ来ていません」(2・4)と語ります。これは十字架刑を前にしてキリストが語る「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(17・1)と語ります。イエスにとっての「時」が、死と復活であることを示唆してくれます。
 種々のしるしを示されたイエスですが、最初のしるしであるカナでの婚宴は、ヨハネ福音書全体を結びつける重要なものです。

福音が告げられる

〈年間第3主日〉ルカ1・1~4、4・14~21

待降節第三(ラテラン大聖堂)教皇祭壇とオルガン.jpg イエスはガリラヤに帰り、宣教活動を開始します。ガリラヤはエルサレムに比べて人が少ないところですが、素朴に信仰を受け入れる地域から活動していきました。しかも人間的な力ではなく、「霊の力」に頼りながら…。
また「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられます」(4・15)。その当時、会堂(シナゴグ)はイエスの教えの場として福音書にしばしば登場する場所です。それは同時にユダヤ教の礼拝、または宗教教育の場所でもありました。会堂では「聞け、イスラエルよ」(申6・4、民15章)の信仰宣言で始められ、他の祈りが続き、聖書朗読に入りました。今日の箇所では預言者イザヤの巻物が朗読されますが、初代教会にとってもイザヤ書は重要な視点を持つものでした。
 また「貧しい人」「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」が併記されていますが、内容としては、「貧しい人」が他の三つを具体化したものです。
 「貧しい人」の姿はルカ福音書にはよく登場します。例えばルカ6・20~22には「貧しい人々は、幸いである、…今飢えている人々は、幸いである、…今泣いている人々は、幸いである、…汚名をきせられるとき、あなたがたは幸いである」などと記されています。ルカ7・22になると、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とあります。またルカ14・13になると「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記されています。こうした人々の総体が「貧しい人々」と言えるのではないでしょうか。
 こうして人々に「主の恵みの年」が告げられていきます。まさにイエスによって人々の中に福音の光が差し込んだ時です。

異邦人の救い

〈年間第4主日〉ルカ4・21~30

年間第四主日(エリア)ムフラカ.jpg 今日の話の中で、シドン地方のサレプタのやもめとシリア人ナアマンの話が取り上げられますが、サレプタのやもめの話は一王17・1~16に登場します。異邦人であったやもめが救いへと招かれた話です。
 話の中身は次の通りです。エリアの時代に3年6か月雨が降りませんでした。土地はカラカラとなり、川も涸れ果てます。エリアはサレプタへ行き、ひとりのやもめに言います。「器に少々水を持ってきて、わたしに飲ませてください」「パンも一切れ、手に持ってきてください」と。やもめは正直に言います。「わたしには焼いたパンはありません。ただ壷の中に一握りの小麦粉とかめの中にわずかな油があるだけです」「わたしは二本のたきぎを拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちはそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つだけです」と。やもめにとって、人に与えるほどの余裕はなく、明日の命さえ保証できない状況でした。そうした中、エリアはやもめに「まずわたしのために小さいパン菓子を作り、持ってきなさい。その後であなたとあなたの息子のために作りなさい」と。やもめはエリアの言葉の通りにし、こうして彼女もエリアも、彼女の家の者も幾日にもわたって食べ物に事欠くことがありませんでした。エリアの言葉に信頼したやもめが救いを得ていきます。異邦人に救いが示された典型的な例とも言えます。
 イエスは旧約聖書に登場するエリアとエリシャ(シリア人ナアマンの中で)の話を引き合いに出しながら、二人の預言者がイスラエルではなく異邦人を救ったという内容を取り上げていきます。こうした引用は、会堂内にいた人々の大きな反感をかっていきますが、サレプタのやもめのような素直な信仰が、私たちに救いをもたらすことをよく示してくれます。