沖に漕ぎ出す勇気 - みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

沖に漕ぎ出す勇気

〈年間第5主日〉ルカ5・1~11

年間第五 網を降ろす(ラヴェンナのアポリナーレ教会).jpg 一所懸命に働いてみたけれど、成果を挙げることができなかったとか、真面目に授業を受けたのに落第してしまったというような体験を、だれでも持っているのではないでしょうか。
 今日の福音の情景を考えてみると、まさにそうです。漁師たちは仕事を終え、岸辺で網を洗っていました。しかも夜通し苦労をして漁をしてみたものの、何も取れない失望感が、彼らには満ちています。網を洗う動作にも、普段とは違う、とてもしょんぼりとした気持ちがあったのではないでしょうか。そんな彼らにイエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語ります。
 イエスのこのことばから私たちは何を考えるでしょうか。「沖に漕ぎ出す」ということは、とても勇気が必要です。すなわち、沖へ行けば行くほど、荒波が押し寄せ、深くなり、危険な区域に入っていきます。漁師とはいえ、沖に漕ぎ出すにはそれに見合った勇気が必要でしょう。
また彼らにしてみれば、夜通し働き、何も取れない失望感に満ちていました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」という「苦労する」は、ギリシア語では「コピアオー」が使われ、「疲れる」「骨を折る」「労苦する」の意味があります。まさにクタクタになるくらい働き、疲れ果てた印象を与えてくれる言葉です。そんな雰囲気の中で、再び漁に出かける気持ちはないでしょう。また漁に関しては、ヨセフのもとで大工仕事を手伝っていたイエスに比べれば、漁師たちのほうがプロフェッショナルです。常識で考えたら、漁師たちはイエスに耳を傾ける必要はないでしょう。
 しかし、漁師たちは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、イエスのことばに素直に耳を傾け、実行していきます。「お言葉」はギリシア語の「レーマ」が使われ、感情面を強調した表現・発言を意味するものです。ちょうど聖母マリアが「わたしは主のはしため、お言葉(レーマ)通りになりますように」(ルカ1・38)と同じように…。こうして、魚は網が破れそうになるくらいかかり、大漁でした。
 イエスはペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語り、弟子にしていきます。イエスの弟子として歩もうとする時、みことばに耳を傾けることから始まるのではないでしょうか。

汚名を着せられる

〈年間第6主日〉ルカ6・17,20~26

年間第六 安部川(静岡).jpg  今日のみことばの中で「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(ルカ6・22)とあります。ルカ福音書には、「憎まれる」「追い出される」「ののしられる」「汚名を着せられる」といった迫害に関連する内容がよく登場します。それは、この福音書が書かれた初代キリスト者の信徒たちが数多くの迫害を受け、そのことへの励ましとして福音記者が書いたためだと考えることができます。例えば、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9・24)、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたは髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカ21・17~19)など。
 同様な体験として、パウロの言葉を思い起こします。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです」(二コリ6・4~8)。
これらのことを踏まえ、2008年11月24日に長崎で列福された江戸のキリシタンである原主水を思い起こします。彼は徳川家康の小姓として仕え、やがて家康の警護にあたる走衆に抜擢されます。しかし、野尻彦太郎の妹(奥女中)と恋仲になり、追われる身となります。教会からは「密通の沙汰あり」と、家康からは「御殿に勤める女の一人をたぶらかした」と、両方から冷たく見られます。やがて捕らえられ、安倍川のほとりで足のすじ等を切られ、額には十字の焼き印が押されます。かつての栄光をすべて失い、ハンセン病者の施設に運ばれていきます。すべてを失った時、初めてキリストの本当の十字架が見えてきました。十字架上で嘲笑されるキリストの姿が目に浮かんだことでしょう。不自由な体ではあっても生涯を神にささげ、最期は札の辻で殉教します。
憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられても、イエスとしっかりつながった多くの聖者たちを顧みることができます。

荒れ野の時

〈四旬節第1主日〉ルカ4・1~13

四旬節第一 エリコ(誘惑の山).jpg イエスは荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔からの誘惑を受けます。「引き回される」ということは、イエスが神の意志に従って導かれ、行動していったことを意味します。舞台となるのは荒れ野。そこは危険に満ち、無味乾燥は場所です。誰も立ち寄りたくないような場所ではないでしょうか。イエスはそんな場所で40日間、誘惑を受けます。
 「40」というと、旧約聖書の中で40年間、イスラエルの民が荒れ野を旅し、種々の誘惑にも陥った出来事を思い起こすことができます。この誘惑は、主による人々への試みや誘惑に使われるものです(出16・4、17・2、申8・2、詩編95・9)。その体験によって、イスラエルの民は主の御旨を知ることができました。
 さて2009年12月1日、生まれて始めて入院し、翌日、内視鏡で2センチほどの胃のポリープ切除手術を受けました。手術の日は朝から一日中絶食。また午前9時には24時間にわたる栄養剤が入った点滴が始まり、10時過ぎに寝台車で病室から手術室に運ばれ、手術が始まりました。内視鏡による15分程度の手術とはいえ、緊張を要するものでした。手術後は安静の状態で、午後3時ごろからは少し歩けるようになり、ふだん読めない本などを読んだりしました。病室は6人部屋でしたが、プライバシー保護のためか各ベッドともカーテンで仕切られ、他の入院患者と話す機会はほとんどありませんでした。物音、寝息、看護師たちがせわしく働く音以外は何もない。人はいても全く会話がない孤独な世界の中で、荒れ野の状況に似たようなものを感じました。4日の朝、退院して修道院に戻り、昼食としてシスターが準備してくれたおかゆや柔らかい食べ物など、病院にはない温かさを久しぶりに感じました。荒れ野から解放されたような、そんな気分。
 私たちの周辺にも、いろいろな荒れ野が存在するでしょうが、それは自分の生き方をしっかり見つめる機会にもなっています。

祈りに導かれた道

〈四旬節第2主日〉ルカ9・28b~36

四旬節第二 主の変容の教会モザイク.jpg ルカの福音書には、祈りに関する記事がよく出てきます。今日の主の変容の箇所にも「祈るために山に登られた」というように、静かに祈るイエスの情景が描かれています。この箇所は、イエスが受難を前にしてオリーブ山で祈る箇所(ルカ22・39~46)とつながっています。このことから、変容するイエスは、やがてご自身が死と復活へと旅立っていく姿を示唆するものです。
 二人の人がイエスと語り合っています。「二人の人」という表現は、証言を確固としたものにするため、ルカ福音書でよく用いられます。例えば「主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(ルカ10・1)、「途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」(ルカ24・4)、「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ24・35)、「白い服を着た二人の人がそばに立って」(使徒1・10)などを挙げることができ、それらは証言の確実性や変容、復活、昇天が同じ位置にあることを示してくれます。今日の福音に登場する二人とはモーセとエリア。モーセは神の礼拝を確立し(出3・12、5・1~3)、エリアは礼拝の刷新に尽力した人(王上18・16~40)です。この二人とイエスとの対話は、新たな礼拝を確証してくれるのではないでしょうか。
 その後イエスは、ご自身が「遂げようとしておられる最期について話していた」(9・31)と言います。「最期」とはギリシア語で「エクソードゥス」が使われています。これは、モーセのことが記されている「出エジプト記(エクソードゥス)」とともに、「エクス(~から)」と「ホドス(道)」の合成語からして、「道」の意味が含まれています。福音記者はこの「ホドス(道)」の中に、イエスの生涯を「最期」「道」として表現したのではないでしょうか。
 また変容にあたり、雲が現れて彼らを覆います。「雲」はシナイ山や幕屋を覆った雲と同様に、神の出現を象徴(出24・15~18、33・9~10参照)し、やがて訪れるイエスの受難に、神が支えてくれることを示してくれます。こうして雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と聞こえてきます。自分から選んだのではなく、「選ばれた者」が強調されています。
 静かな祈りの中で、イエスの道、私たちの道を見つめてみましょう。