山内堅治神父のみことばの響き
忍耐の徳
〈四旬節第三主日〉ルカ13・1~9
「いちじく」は漢字で「無花果」と記します。8世紀ごろペルシアから中国に伝わり、日本にはポルトガル人によって寛永年間(1624年~1644年)に伝わってと言われています。キリシタンに対する取締りや迫害が厳しかった時代ですが、「いちじく」については寛容だったのでしょう。名前の由来は『和漢三才図会』に「俗に唐柿といふ。一月にして熟すゆえに一熟と名づく」と考えられていますが、明確なことは分かっていません。また花が外から見えないことから「無花果」と、当てたとも言われます。そんな背景を持ついちじくですが、さし木をすれば簡単に成長し、一般家庭でも容易に育てることができます。
これらのことを頭に置きながら、今日のみことばを読むととても興味深いものです。かつて私の父はぶどうを栽培していました。ぶどうはとても手入れがたいへんで、春には肥料を施し、初夏には下草を払い、ぶどうの実が成長してくると一つひとつに袋をかけていく。とても手間がかかりました。それに対していちじくを育てるのはとても容易です。今日のみことばによれば、ぶどう園にいちじくを植えているわけですから、普通の土地に比べて肥料がたくさんあります。好条件にあって育たないのは、よほど肥料が少なかったのか、育て方が非常にヘタだったことになります。
主人は園丁に言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」と。そんなに手入れをしなくても育ついちじくなのに、何にも実をつけないので主人が切り倒したくなるのも分かります。通常なら、切り倒して他の作物をそこに植えるのが順当ではないでしょうか。しかし、主人は園丁の言い分を聞いてもう少し様子を見ることになりました。何と忍耐強い主人でしょうか。忍耐強く見守ってくださる主の支えに、私たちは大きな励みを感じます。
父の憐れみ
〈四旬節第四主日〉ルカ15・1~3、11~32
今日の箇所は「放蕩息子」のたとえとしてとても有名な箇所です。この表現から、息子にスポットが当てられていますが、実際には父の憐れみに重要なポイントがあります。
たとえの内容を振り返ってみましょう。兄と弟を比べると、兄は父のもとで奉仕し、とても模範的です。弟は兄とは対照的に財産を分けてもらい、「遠い国に旅立ち」ます。「遠い」はギリシア語で「マクラン」が使われ、単に遠いだけではなく、かなり離れている意味合いがあります。やがて弟は財産を使い果たし、その地方にものすごい大飢饉が起こり、「豚の食べるいなご豆」を食べてでも必死に生きようとします。豚はユダヤ教徒にとって汚れたものとして一切口にしません。やがて弟は我に返り、反省します。お父さんと一緒にいた時のことを思い出し、お父さんの愛情が自分の中にひしひしと蘇ってきたのでしょう。お父さんの愛情に気づいて、弟は回心していきます。
そんなお父さんは「まだ遠くにいたのに」息子(弟)に気づきます。「遠くに」はギリシア語で「マクラン」が使われ、どんなに距離があっても息子のことを思いやるお父さんの愛情、親心が表現されています。このことから息子の回心の前提は、お父さんの愛情からきます。お父さんが息子に対して「憐れに思う」心はまさに、そのことを表しています。「憐れに思う」はよく使われる「憐れみ」(エレオス)ではなく、「内臓」「はらわた」に由来する「スプラングニゾマイ」が使われ、弱い者に対する同情や愛情の意味があります。
一方、兄には「プレスビュテロス」が使われ、これは「長老」とも訳されたりします。自分を偉い立場に置き、弟についてはとても厳しくせまります。兄弟なのに「あなたのあの息子」と、あかの他人のようです。また「娼婦どもといっしょにあなたの身上をつぶした」と、ありもしない罪を加えていきます。兄には人を裁く心が深く根付いていました。
お父さんの愛情と兄の裁く心はとても対照的です。どんなに心が遠くに離れていても、また冷めた態度を兄のような心を持っていても、いつも心に留め、憐れんでくださる父なる神の愛情とふところの広さを痛感します。
裁きと憐れみ
〈四旬節第五主日〉ヨハネ8・1~11
十数年前の新聞記事ですが、イランでこんな出来事がありました。ある一人の青年が盗みを働き、逮捕されました。数日後、2~3万人の公衆の面前で手首を切られていきました。いわば見せしめのようなものです。同じ日に、姦淫罪を犯した19~20歳になる女性が、やはり公衆の面前で鞭打ちの刑を受けました。死罪にまでは至りませんでしたが、旧約聖書のレビ記に出てくる「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(20・10)の内容が思い起こされます。姦淫・姦通を犯した者に対してはとても厳しい規定でした。
今日のみことばでは姦通の罪を犯した女性の話が登場します。律法学者やファリサイ派の人々を前にして、彼女は死罪を覚悟していたことでしょう。また自分の罪の重さを人一倍感じていたのではないでしょうか。多くの人々の目はこの女性に集中していますが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8・7)と語ります。やがて一人去り、二人去り…。こうしてイエスと真ん中にいた女性だけが残ります。イエスの言葉が印象的です。「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8・11)。裁こうとした律法学者やファリサイ派の姿はその場にありません。イエスは裁くのではなく、癒していきます。まさに憐れみの心です。ただそれだけではなく、「もう罪を犯してはならない」と、この女性に諭していきます。イエスは回心の心をも与えたのではないでしょうか。
私たちもついつい律法学者やファリサイ派の人々と同様に、自分の目線で人を裁いたりします。イエスの行動を振り返ると、まず自分自身の心がどういう状況なのかを振り返らせてくれます。
わたしを思い出してください
〈受難の主日〉ルカ23・1~49
受難の主日にはいつも、イエスの受難の朗読がなされます。それぞれの福音記者に味わいがありますが、ルカ福音書の場合にはとても写実的です。この中で二人の盗賊がイエスと共に十字架につけられます。一人は不平不満を語り、もう一人は心から回心していきます。長い朗読の中で、この場面にスポットを当ててみましょう。
十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスをののしって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23・39)と語ります。「メシア」は原文のギリシア語では「クリストス」、つまり「キリスト」が使われ、「油注がれた者」「王」「大祭司」「預言者」といった意味が込められています。イエスを「メシア」として見ているものの「ののしって」います。これに似たような表現に、議員たちは「あざ笑い」(ルカ23・39)、兵士たちは「侮辱した」(ルカ23・36)とあります。十字架上でイエスが受ける苦しみはどのようなものだったのでしょうか。身体的な苦痛、ユダの裏切り、弟子たちが恐さの余り立ち去り、イエスが孤独に陥っている状況だけでなく、こうした侮辱的な苦痛もありました。犯罪人の「ののしる」は、ギリシア語で「ブラスフェメオー」が使われ、それは「冒涜」を意味するようなものです。このことから、十字架を担ったイエス、十字架上のイエスの苦しみがどのようなものだったかが想像できるでしょう。
それとは裏腹にもう一人の犯罪人はイエスの本当の姿に気づき、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)と語ります。彼が語る「御国においでになるとき」は、「主の祈り」の中の「あなたの国が来ますように」(ルカ11・4)を思い起こします。面白いことに、最初の犯罪人はイエスに対して「メシア(キリスト)」を使っていますが、十字架上の姿に救い主を感じていません。一方、後者の犯罪人は「イエス」を使って、親しみを込めて語っています。しかも「メシア(キリスト)」という言葉を使いませんが、十字架上のイエスの姿に、真の救い主を感じています。
こうした二人の盗賊の姿に、私たちの信仰の在り方を問いかけてくれます。
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