山内堅治神父のみことばの響き
見て、信じた
〈復活の主日〉ヨハネ20・1~9
北アルプスに登ると種々の高山植物に出会います。ニッコウキスゲ、ワタスゲ、ハクサンフーロ、イワギキョウなど。その中でも特に好きな高山植物はコマクサです。砂地の上に逞しく育っているのを見ると、とても感動的です。学生の頃に山に登り始めた時、「コマクサ」が美しいことを友人から聞いていましたが、実際に初めて見た時の感動は忘れられません。その後、何回となく淡いピンク色のコマクサを見てきましたが、一番印象に残っているのは北アルプスの燕(つばくろ)岳。小屋に着き、しばらくして燕岳の頂上を目指していく途中、砂地にコマクサの群生が広がってきました。厳しい冬を過ごし、逞しく育った淡い色合が今でも脳裏に残っています。まさに「見て、信じた」心境でした。
主の復活の朝、シモン・ペトロともう一人の弟子が墓を訪れ、イエスの遺体がないことに気づきます。彼らは「見て、信じます」(20・8)。しかし、イエスが死者の中から復活されることについては、まだ理解していませんでした。「見て、信じた」ものの、復活について理解するには時間がかかったのでしょう。彼らがよく理解できるようになるのは、「週の初めの日の夕方」(ヨハ20・19)でした。イエスが弟子たちの傍にいて、何度となく復活のことについて話したにもかかわらず、弟子たちは十分に理解していませんでした。
よく理解できなかった典型はトマスです。「あの人の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハ20・25)と言い張ります。8日目になり、再びイエスが現れ、トマスも信じるようになり、「わたしの主、わたしの神よ」と告白し、イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハ20・29)と語ります。弟子たちが体験した一つひとつの出来事や理解するまでの歩みは、私たちの信仰をより強いものにしてくれます。
平和があるように
〈復活節第2主日〉ヨハネ20・19~31
イエスは「あなたがたに平和があるように」(20・19)と語ります。しかも一度ならず三度も語っていきます。一度目はイエスが真ん中に立って語り、二度目は手とわき腹とを見せ、弟子たちが喜んだところで語り、三度目は8日の後、トマスも一緒にいる中で語ります。何となくしつこい感じにも響きますが、繰り返すことで私たちに確信を持たせてくれます。
こうした三度にわたる内容は他にもあります。一つはヨハネ18章に出てくるペトロの否認です。門番の女中がペトロに「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(ヨハ18・17)と尋ね、ペトロは「違う」と否定。二回目、人々が「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と尋ねられ、再び「違う」(ヨハ18・25)と。三回目、耳を切り落とされた人の身内の者が「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたのではないか」(ヨハ18・26)と言われると、ペトロは打ち消していきます。このように三度、ペトロはイエスのことを否認していきます。
同じペトロがヨハネ21章ではずいぶん違ってきます。ペトロはイエスから「わたしを愛しているか」と三回尋ねられます。特に三度目「わたしを愛しているか」と尋ねられ、悲しくなっていきます。18章にあったように、三度イエスのことを否認したことが蘇ったのでしょうか。やがてペトロは勇気を出して「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハ21・17)と答えていきます。
こうした歩みを振り返ってみると、「あなたがたに平和があるように」というのは、これらの中心にあって、弟子たちに励ましを与えてくれます。イエスが弟子たちに語りかけた「平和があるように」は、私たちへの語りかけとしても響いてきます。
羊を飼いなさい
〈復活節第3主日〉ヨハネ21・1~19
今日の箇所は、通常のヨハネ福音書に比べて、用語がきめ細やかに使われています。おそらくヨハネ以外の人が書いたのかもしれません。具体的には、「愛する」という言葉に、ギリシア語の「アガパオー」と「フィレオー」とが違った用語で使われ、イエスがペトロに答える言葉も「小羊を飼いなさい」、「羊の世話をしなさい」、「羊を飼いなさい」と違っています。
ちょっと細かく見ていきましょう。最初の「小羊を飼いなさい」(21・15)。「小羊」はギリシア語で「アルニオン」の複数形が使われています。これはヨハネの黙示録によく使われ、「いけにえの小羊」として、キリストや教会を表すのに用いられたりします。「飼う」は「ボスコー」が使われ、「(家畜の)世話をする」「えさを食べる」を意味し、群れを世話する時に使われたりします。第二番目の「羊の世話をしなさい」。「羊」はギリシア語で「プロバトン」が使われ、母羊を思わせるもので、ヨハネ10章に登場するよい羊飼いのイメージと重なっています。イエスがよい羊飼いで、弟子たちが羊。この箇所では弟子たちが「よい羊飼い」としてイエスから派遣されていきます。「世話をする」は「ポイマイノー」が使われ、「放牧する」「牧畜する」「番をする」の意味があり、散らされ、滅びの危険に渡されている群れを集めることを意味し、羊を水場に連れていく姿と重なります。最後の「羊を飼いなさい」。「羊」に「プロバトン」が使われ、「飼う」は「ボスコー」。よい羊飼いのイメージと群れをしっかりと世話する姿が重なります。
こうした表現を通じてイエスは、教会に対する指導者としての役割をペトロに委託していきます。最初は不安にも感じられましたが、それでもペトロに委ねていく。こうしてペトロはよい羊飼いとして命を捨てる覚悟ができたのではないでしょうか。最初は弱々しくても、イエスに従っていく。ペトロの歩みは、私たちの歩みそのものかもしれません。
羊と小羊
〈復活節第4主日〉ヨハネ10・27~30
今日の第二朗読の「ヨハネの黙示録」7章では「小羊」、福音の「ヨハネ福音書」10章では「羊」が使われています。「小羊」と「羊」の違いは単純に「子猫」と「猫」、「子犬」と「犬」の違いにすぎないと考えがちですが、そうでもないようです。
ヨハネ福音書で「羊」は18回、「小羊」は1回(21・15)、一方、ヨハネの黙示録で「羊」は1回(18・13)、「小羊」は28回登場します。ヨハネ福音書では「羊」、ヨハネの黙示録では「小羊」が主に用いられています。「わたしは善い羊飼いである。善い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)とあり、羊は「民」を、羊飼いは「キリスト」を示しています。羊が羊飼いに従う様子は、民がキリストに従う様子です。一方、「小羊」について調べると、「ほふられた小羊」(黙5・6)、「小羊の血で打ち勝った」(黙12・11)、「小羊は主の主、王の王」(黙17・14)とあるように、キリストが十字架上でいけにえとしてささげられ、血を流されたことを想起します。このことから「小羊」は「キリスト」を指すことになります。今日の第二朗読でも「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり」(黙7・17)とあるように…。これらのことから、「羊」と「小羊」の違うが分かるのではないでしょうか。
今日の福音で「羊はわたしの声を聞き分ける」(ヨハ10・27)とあります。羊と羊飼いとの間の親近感が見えてきます。羊はもともと弱い性格、だれかにすがるような性格を持っています。それでいて主人の声をしっかりと識別することから、とても従順な動物と言えます。このことから、羊である民は、羊飼いであるキリストの声をよく聞き分けることを意味します。同様に私たちも、羊としてキリストの声を聞き分ける気持ちを持たなければなりません。自分の弱さ、誰かにすがるような気持ちを持っていれば、それは容易なことでしょう。自分の力だけで何でもできると思う高慢さがあれば、キリストの声が聞こえません。種々の場面でキリストの声に耳を傾けたいものです。
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