パン五つと魚二匹 - みことばの響き

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山内堅治神父のみことばの響き

パン五つと魚二匹

〈キリストの聖体〉ルカ9・11b~17

キリストの聖体.jpg エルサレムに比べ、ガリラヤ地方は今でも静けさに満ちた所です。観光地には人がいますが、ちょっと郊外になると人気(ひとけ)がなくなります。そんな所に男だけでも五千人というのですから、これに女性や子供を加えると相当の数になったことでしょう。人里離れた所なので、食べ物を調達するのも容易ではありません。日も傾き、弟子たちが群衆を解散させ、適当に「宿をとって、食べ物を見つけるでしょう」と言いたくなるのも納得できます。そんな弟子たちにイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と語りますが、彼らはとても困惑したことでしょう。しかも「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えます。これだけしか持っていないのに、どうすればよいのだろうと彼らは悩みます。
 一方、イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせます」。不平不満ではなく、賛美と感謝の祈りを行います。こうして「すべての人が食べて満腹しました」(9・13)。弟子たちの言い分は「パン五つと魚二匹しか」ですが、イエスにとっては、賛美と感謝になり、皆満足します。同じものでもこんなに違ってきます。
 2008年の「カトリック教会現勢」をカトリック中央協議会のホームページで調べてみると、日本の人口は約1億2700万人に対して、カトリックの信徒数は44万3872人。パーセンテージでは0.349%となっています。聖職者・修道者・神学生の数は8266人。信徒数とのパーセンテージで計算すれば、1.86%。人口の割に信徒数は少ないのですが、聖職者・修道者・神学生の割合はかなり高いものです。信徒数こそ少ないものの、学校、病院、諸施設など、カトリック教会が日本の社会に与えているものは大きいのではないでしょうか。「数が少ない」と不平不満を漏らすか、たくさんの恵みを感じて賛美と感謝になるか、それは私たちの心の持ち方で違ってきます。

罪深さ

〈年間第11主日〉ルカ7・36~8・3

年間第11(罪深い女).jpg  イエスが食事の席に着かれた話から始まります。「食事の席に着く」はギリシア語で「カテクリテー」が使われ、「寝ている、横になる」といった意味を持っています。つまり、イエスは横になって食事をしていたことになります。私たちの習慣からするとだらしない格好に思えますが、その当時ではごく普通の姿勢でした。また客を招いた家には、誰もが自由に入ることができたので、罪深い女性もこの席に入ることができました。
 さて、一人の罪深い女性。どんな罪を犯したのでしょうか。売春か娼婦による罪か? 彼女は自分の罪の重さを深く反省し、自分の涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻をし、香油を塗ります。これらの動作から最高の敬意をイエスに示します。
 彼女はイエスの足元にひれ伏します。その仕草は挨拶、感謝、懇願、敬礼、謙遜を意味します。イエスに対する尊敬がよく表れています。また足を洗うことはしもべの役目でした。彼女はイエスの前で自分が取るに足りないしもべであることを自覚し、罪を悔やみながら、行動します。さらにイエスの足に接吻します。「接吻する」はギリシア語で「カタフィレオー」が使われ、「友愛」を表す「フィリア」と同じ語根にあります。つまり彼女はイエスの足に接吻することで、友情的な愛を示すとともに、尊敬に満ちた行動を取ったことになります。最後に、彼女が用いた香油はとても高級な壷に入ったもので、高価なものでした。香油はギリシア語で「ミューロン」が使われ、イエスの埋葬の際(ルカ23・56)に用いられたものと同じものです。しかも、尊敬する人を迎える時には、この香油を使っていました。これらのことから彼女はイエスに対する深い尊敬を示します。
 多くの人から罪深い女性と見られていましたが、イエスとの出会いで回心します。ほんとうの謙虚さや尊敬の深さを彼女から学ぶことができます。

キリストに従う

〈年間第12主日〉ルカ9・18~24

年間第12(十字架).jpg 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」のことばがとても響きます。ルカ福音書は「日々」という言葉をあえて挿入しています。つまり、一時的ではなく、永続的に…。
 26年前、私は助祭に叙階され、すぐに中学生志願者の養成担当者として福岡修道院へ派遣されました。個人的には養成よりも編集関連の仕事ができればいいなあと思っていましたが、任命は違っていました。反抗期の中学生相手に悩んだことも…。4年間福岡で生活し、そろそろ疲れも出始めた頃、八王子修学院へ召命担当として異動。養成の仕事を4年間しただけに、今度こそは編集関係と思ったのですが、当て外れでした。3年間、召命担当をした後、今度は大阪・箕面修道院の院長として派遣されました。これも予想外の異動でした。3年間箕面で過ごし、院長の任期後、3か月してローマで語学の勉強とマスコミ関連の勉強を2年半。引き続き、アイルランドで半年間の英語の勉強。霊性か典礼を学びたいなあと思ったのですが…。帰国後は管区秘書の仕事を11年間、それと並行して月刊誌「家庭の友」の編集を9年半、宣教支援グループで1年半の仕事。異動のたびに予想外の任務と十字架を感じましたが、今思えばそれは自分の気持ちを切り換える時にもなり、恵みにもなっていました。2007年7月末に管区長の仕事。週一度は会員を対象にミサと説教。ふだん生活を共にしている会員たちに説教するほど大きな十字架はありません。また月に一度は乃木坂、平塚、八王子・戸吹の修道院を訪問して、ミサをささげたり…。この他に修道会・宣教会の仕事、宗教法人事務委員会の仕事、真生会館での講座を月に二回、朝日カルチャーセンター千葉での聖書講座を月に一回。機会があれば幼稚園、小学校でのミサ。こうやって並べてみると種々の十字架や自分の不足をつくづく感じることもありますが、それらは学びの機会、自分自身を鍛錬する機会だなあと思います。
 だれでも自分の十字架がいちばん重いと感じるかもしれません。でも他の人からいろいろな話を聞いたりすると、もっともっと重い十字架を抱えている人もいます。それ以上に重い十字架はイエス自身が担った十字架でしょう。そこには、孤独、侮辱、身体的苦痛、精神的苦痛などが伴っていました。今日のみことばを通して、自分自身の十字架を担ってイエスの後に従いたいものです。

下積みの生活

〈年間第13主日〉ルカ9・51~62

年間第13(エリア).jpg 旧約聖書の中に「エリシャは牛を捨てて、エリアの後を追い、『わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います』」(列王上19・20)とあります。エリアはエリシャに対して父母への別れの挨拶を赦しています。一方、今日の箇所では家族に対するいとまごいを「神の国にふさわしくない」と答えています。新約聖書ではとても厳しい言い方になっています。
 昨年、司祭叙階25周年を迎え、主に従う決意を新たにする時でした。この節目、節目は前向きに歩む仕方を教えてくれます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」のことばがとても印象的です。
 相撲や芸能の世界では下積み生活がけっこう長かったりします。人にもよりますが、下積みの生活が長いとその人の味がよく出てくるものです。月刊誌「家庭の友」の編集をしていた時、よく女優の村松英子さんの自宅を訪問しました。原稿のことや舞台のこと、時には最近の政治、宗教などの話題も…。1時間、時には2時間くらいお話をする時もありました。話の中でとても心に残っているのは、「最近の役者さんたちはすぐ有名になろうとしたがる。下積みをしっかりやらないといけませんね。発声の仕方、舞台に立った時の姿勢、普段の生活での整理整頓など…」。基本的なことや、我慢強く忍耐して修行に励むことなど…。なるほどと思いました。当たり前のことでしょうが、それが意外と難しいものです。基礎をしっかりやること、何か言われてもそれで落ち込むことなく、助言として素直に受け止めていくこと。そうした下積みが深ければ深いほど、豊かな人間性が形成されるのかなあとも思いました。
 今日のみことばにつながるパウロのことばを思い出します。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、…(中略)目標を目指してひたすら走ることです」(フィリ3・13~14)。下積みをしっかりして、いつも前向きに歩みたいものです。