山内堅治神父のみことばの響き
早朝の祈り
〈年間第5主日〉マルコ1・29~39
イエスの行動を追いかけながら今日の箇所全体を読んでみると、次のようになります。まずイエスはペトロの義理の母の所へ行き、彼女が熱を出していたので、彼女を癒します。夕方になると、病人や悪霊に取りつかれた人たちがたくさんやってきて、イエスはそうした人々も癒していきます。次から次へと種々の活動が続く中、ゆっくりする暇もなかったことでしょう。翌朝になると、人里離れた所で静かに祈っておられました。その後、ガリラヤじゅうをめぐり歩き、あちこちの会堂で福音を語り、悪霊を追い出します。
このようにイエスの活動を見てみると、数多くの活動がある中で、その中間に、早朝の祈りがあります。活動の中心は祈りということでしょう。
ある年の1月中旬、郷里の西木場教会へ行った時のことです。玄界灘に近いこともあり、北西の風が吹き、とても寒く感じました。そのころ、教会にはダルマストーブが置かれ、主任司祭は午前4時30分頃にはこのストーブに火を入れる。ミサに来る信者たちが少しでも暖かく感じるようにとの配慮からでしょう。5時30分くらいになると教会の中も暖かくなり、方々から信者たちがミサにやってきます。早朝の祈りにとても感動を覚えました。
またパウロ家族の創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父も祈りの人でした。ステファノ・ラメラ神父は「朝の三時半から彼(アルベリオーネ神父)の一日は始まり、夕食後約一時間たった21時ごろに閉じられた。『早く床につき、早く床から出る』というのは彼のモットーだった。人に教え、それより先に自分がこれを実行していた。一日の最初の部分、最良の時間は祈りにあてられた。ミサ聖祭を4時半にささげ、7時まで祈りが続く。そして、受けた手紙に目を通したり、事業のために次第に増えていく訪問客との面接やあらゆる仕事をする」(ステファノ・ラメラ著、大滝玲子訳『今世紀の一大驚異』参照)と記しています。
いつの時代でも、早朝の祈りは活動の中心になっています。
重い皮膚病
〈年間第6主日〉マルコ1・40~45
重い皮膚病というのは、祭儀的に汚れたものと思われた皮膚疾患の総称でした。詳細については、レビ記13章を読んでいくとよく分かります。例えば、「ある人の皮膚に腫れ、あるいは吹き出物、あるいは疱疹があり、それが重い皮膚病の症状のようになるなら、その人は祭司アロン、あるいは祭司である彼の子らの一人のもとに連れていかれる。祭司は皮膚の症状を調べ、その患部の毛が白く変わり、皮膚の下にまで及んでいるように見えるなら、それは重い皮膚病である。祭司はその人を調べて、汚れたものとする」(レビ13・2~3)。また「祭司はそのただれた部分を調べて、その人を汚れた者とする。ただれた肉は汚れたもので、それは重い皮膚病である」(レビ13・15)。他にもレビ13・18~20、24~25など…。「患部のある重い皮膚病患者は衣服を裂き、その髪を乱し、口髭を覆い、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない」(レビ13・45)。「7日目に祭司が調べて、患部がそのままで、皮膚に広がっていないなら、祭司はさらに7日の間留めておく。7日目に再び祭司がその人を調べて、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼を清い者とする」(レビ13・5~6)。このような記述から、重い皮膚病の人はその当時、汚れた者として、身体的にも精神的にもかなりの負担を持ち、差別的な扱いを受けていたことが分かります。
さらに現代のように医学が発達している時代ではなかったので、伝染するかもしれないと、多くの人々は避けていたことでしょう。差別的な対応で、彼らにとってもとても辛い気持ちを持っていたのではないでしょうか。人々から嫌われていたので、彼自身どんなに孤独を感じていたことでしょう。
そんな状況でイエスは憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り、「わたしは望む、清くなれ」(マルコ1・41)と語ります。特に手を差し伸べて、その人に触っていくことは、その人と行動を共にするような気持ちが表れています。イエスは差別の壁を乗り越え、癒していきます。
イエスの行動の中に、心身を癒す行動がよく見えてきます。
協力する4人の男たち
〈年間第7主日〉マルコ2・1~12
カファルナウムの家というのは、ペトロとアンデレの家を指すでしょう。ごく一般的な民家なので、そんなに大きくないだろうし、人間が入るにも制限があるでしょう。そうした家に大勢の人が集まり、戸口までびっしりだったと記されています。民家に大勢の人がいる中で、イエスの所に近づくのは到底無理な状況でした。
そこで、イエスがおられる真上の所の屋根を壊し、中風の人を寝床とともに上から吊りおろしていきます。イエスに近づくにはとても賢明なやり方でした。そのことについてフランシスコ会訳の注には、「今日でもそうであるが、当時のパレスチナの屋根はテラスのように平らであった。屋根は木の枝などの上に粘土を約30センチの厚さに置いて、固めたものである。したがって屋根に穴をあけるのは容易であった」と記されています。今の時代の私たちには屋根の破壊行為に思えますが、修復が可能なものでした。
ここで興味深いのは、仲間たちが中風の人を上から吊りおろしていることです。彼らの協力がなければこの癒しも実現しなかったのではないでしょうか。仲間たちの思いやり、よい理解者の存在のありがたさ…。4人の息が合っていると、吊りおろす時もスムーズでしょう。
1983年10月28日、私の父が67歳で生涯を閉じました。司祭叙階一年前だっただけに、とても残念でなりませんでした。通夜、葬儀に参列しましたが、埋葬はその当時、まだ土葬でした。教会から墓地までの距離は約1キロ。ロザリオを唱えながら、墓まで行列。墓に着くと、すでに信徒の方が墓穴を掘っていました。2メートル位の深さでしょうか。父の棺が縄で結ばれ、4人の男性によって墓穴に埋葬されていく。棺が傾かないように、4人の男性たちはバランスをとりながら埋葬してくれました。息が合っていないと傾いてしまうだろうなあと思いました。
中風の方を屋根から吊りおろす際にも、そんなバランスが大切だなあとつくづく思います。癒された人の信仰と共に、仲間たちの支えを感じます。
荒れ野の人生
〈四旬節第1主日〉マルコ1・12~15
イエスは40日の間、サタンに試みられます。野獣が住む所なので、イエスにとっては恐怖の場所とも言えるでしょう。イエスはそんな状況から逃げることはありませんでした。
12月8日から9日にいわき市で、傾聴ボランティアの奉仕をした時のことです。さいたま教区がURの展示場の一室(現在はログハウスの建物が、2012年1月にオープン)を借りて「もみの木」という被災者がだれでも訪れることのできる所です。そこに70歳くらいの一人の女性が訪ねてきて、こんな話をしてくれました。
「2011年3月11日に大震災があり、近くには福島の原子力発電所がありました。ニュースでも報道されていたように、その原発は水素爆発などを起こしました。その翌日、細かいことはよく分かりませんでしたが、役場のほうから『危険なので急いで避難してください』との連絡があり、ハンドバック一つだけでその場所を避難し、役場が指定した避難所の方へ行きました。役場の言い方も、なんだかすぐに戻れるような言い方だったので、そんなに重大な事故だとは思いませんでした。ところが、あれから9か月経過したのですが、戻れる気配はありません。実は以前、横浜に住んでいました。10年前に主人が定年退職し、第三の人生をのんびり暮らしたいと思って、天候も安定した福島の原発近くに移ってきました。とても平和に暮らしていましたが、原発の影響で今は仮設住宅での暮らし。津波で家を完全に失ったらあきらめがつくけれど、まだ新しい建物だし、そこに帰れないのはほんとうに辛いですね」と語っておりました。確かにまだ使える建物なのに、放射能の影響でその場所に入れないのはどんな辛いことかなあと思いました。先が見えない所にも、現代の「荒れ野」を見たような気がします。
2011年3月11日からそろそろ一年が経過しようとしています。原発のために帰れなくて、今なお荒れ野の生活を強いされている方がたくさんいます。イエスの荒れ野が、今回の震災(原発の事故)と重なって見えてきます。
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