山内堅治神父のみことばの響き
宣教者としての気概
〈年間第14主日〉ルカ10・1~12、17~20
今日のみことばでイエスは72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ派遣します。派遣にあたりイエスは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と語ります。この表現からも分かるように、宣教へと旅立つにはそれ相当の覚悟を求められるのではないでしょうか。
一昨年、「ペトロ岐部と187殉教者」が列福されましたが、その中心的な人物はペトロ岐部。彼は数多くの苦難の末、ローマにたどり着き、司祭に叙階されます。ローマに残って司祭としての務めを十分に果たすことができましたが、彼は日本の同胞たちを思い、帰国を希望します。その当時の日本は厳しい迫害の時代で、司祭と分かればすぐにでも処刑されました。そうした状況を承知の上で彼は帰国への途につきます。まさに「狼の群れに小羊を送り込むような」状況です。ペトロ岐部はこのことに決して後悔せず、むしろ誇りに思い、殉教しました。宣教者としての気概を彼から感じます。
15年前、アイルランドのメイヌースで語学の勉強をしていた時のことです。この学校は神言修道会が経営していましたが、たくさんの宣教師たちが学んでいました。アフリカ、南米、アジアなどへすでに派遣された人たち、またこれから派遣されていく人たち。彼らと一緒に勉強しながら、宣教師たちの気概を実感しました。最近では司祭・修道者に限らず、信徒宣教者もいて、宣教活動の幅広さを感じました。そんなある日、アイルランド人の先生がアイルランドから他の国へ派遣されている宣教師について話してくれました。先生はカトリック信者ですが、先生が言うにはアイルランドからなんと約6000人の宣教師・宣教女がいろいろな国へ派遣されているとのことでした。それを聞きながら、日本にもコロンバン会やイエズス会の神父さんたちが数多く派遣されていることを思い、宣教者としての気概をよりいっそう実感しました。
善いサマリア人
〈年間第15主日〉ルカ10・25~37
有名な善いサマリア人のたとえです。さてここに登場する人物はまず祭司です。祭司の中でも特に有名なのは、永遠の大祭司メルキセデク。彼には王と祭司の務めがあり、いわば支配者的な立場です。また古代の宗教では、祭司は神の代わりに語るような人で、祭儀における奉仕、神のみことばへの奉仕がありました。祭司は神と人との仲介者とも言えます。
一方、レビ人はどうでしょうか。「レビ」は「親しむ、結び合わせる者」の意味があり、祭儀の務めをして、神と人とを結び合わせる役割を担っていました。神聖な務めを保持する祭司部族として顕著な地位を占め、祭司階級に位置する人たちでした。このことから、祭司、レビ人のいずれも、社会的に約束された人々です。一方サマリア人は「シケムに住む愚かな民」と称され、人々からとても軽蔑されていました。
こうした背景を頭に置きながら読んでいくと、ここで登場するサマリア人の対応がいかに寛大であるかが見えてきます。
祭司とレビ人は「たまたま」通ります。決して急いでいる雰囲気ではありません。それでも彼らは別の道を通ります。関わりたくない気持ちが彼らにはあったのでしょう。一方サマリア人は「旅をしていた」わけですから、ちゃんとした目的を持っています。その目的を変更してまでも、彼はこの傷ついている人に接していきます。しかも傷ついているのはユダヤ人でしょうから、彼にとってみれば無視してもおかしくない立場です。それを乗り越えてこのサマリア人は親切に対応していきます。自分の時間を費やしてまでも関わっていきます。ふだんはユダヤ人に馬鹿にされていたのでしょうが、それを気にせず、憐れみと思いやりの気持ちで対応していきます。
こうした対応から、私たちは他人の目や視線を気にすることなく、今、ほんとうに大事なのは何か、行動すべきことは何かを教えてくれます。
もてなしの心
〈年間第16主日〉ルカ10・38~42
日本の文化にはもてなしの心があります。茶室だと四季折々の花を壁際に置き、貴賓客の心を和ませるために掛け軸をかけ、庭園が眺められる位置に席を準備する。ちょっとした気遣いの中に思いやり、もてなしの心があります。また食事の前におしぼりを準備して、手をきれいにしたり、暑い季節になると窓際に風鈴をつけたり…。生活している人たちがとても快適に、心地よく生活できるように配慮していきます。
今日の聖書のことばでマリアとマルタの話が登場します。私たちの視点からはイエスのためにせわしく働くマルタとイエスの話をじっと聞いているマリアとを比較するならば、せわしく働き、もてなしているマルタに私たちは共観を覚えるのではないでしょうか。 「もてなす」はギリシア語で「ディアコネオー」が使われています。それは「仕える」「もてなす」「給仕する」の意味があります。せわしくもてなすマルタに対して、イエスは「マリアは良い方を選んだ」と語ります。宣教などで疲れ果てて家に入ってきたイエスの心情を考えるならば、マルタの方がとても親切に感じますが、イエスはマリアの方を評価していきます。
なぜイエスはマリアのほうを評価したのでしょうか。仕事を過小評価したのでしょうか。むしろ死を迎えるイエスを前にして、マリアはただひたすらイエスのことばに耳を傾けていく。どれくらいの寿命が残されているか分からない状況の中で、マリアは聞く態度を取っていきます。私たちもマルタのようにせわしく働くことを選ぶかもしれません。でも時にはイエスのことばに耳を傾け、その言葉から生活の糧を見出していく時も必要でしょう。
よく修道者たちが年の黙想を約1週間いたします。これは講話を聴いたり、ミサをささげたりもしますが、静かな中でイエスを顧みる時でもあります。活動から離れて、静かに自分自身を見つめるよい時です。慌しい時代だからこそ、静けさが欲しいものです。
自分に負い目のある人を皆赦す
〈年間第17主日〉ルカ11・1~13
「主の祈り」の有名な箇所ですが、今日読まれた箇所はルカ福音書から取られています。この箇所でとても心に残るのは「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(11・4)です。同じ内容がマタイ福音書ではどのように表現されているでしょうか。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6・12)となっています。この二つを比べてみて大きな違いがあるのは、「皆」という言葉です。ルカ福音書ではこのことばをあえて入れています。「皆」とすることで、どんな人に対しても赦す心が見えてきます。赦す対象に大きな広がりが感じられます。
赦すというと、罪のないキリストが十字架を担い、最後は十字架につけられていきます。十字架刑はその当時もっとも重い処刑方法でした。十字架上にあってイエスが語ることばはとても印象的です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。
また二人の犯罪人とともに十字架につけられたイエスは十字架を耐え忍び、人々を赦していきます。議員たちはあざ笑って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ23・35)、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・37)、また一人の盗賊は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23・39)。嘲笑や自分に都合の悪い裁きではあっても、イエスはそれを受け入れます。
イエスご自身がこうした忍耐をまず示されたので、「自分に負い目のある人を皆赦す」意味がもっと身近なものになるのではないでしょうか。
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