そよかぜカレンダー

主の復活

(マルコ16章1〜8節)

澤田豊成神父のそよかぜカレンダー


 今回は、4月20日に祝われる「主の復活」について考えてみたいと思います。このテーマは、一昨年も、昨年も取り上げたものですが、今年も取り上げることにします。「主の復活」は、典礼暦の中心ですし、さまざまな視点から深めないと理解することのできない深く大きな神秘だからです。

 さて、今年はこの神秘を「復活のキリストに出会う」という視点で考えてみることにしましょう。聖書の箇所としては、マルコ福音書16章1〜8節を取り上げることにします。


 少し専門的な話になって申し訳ありませんが、復活に関するマルコ福音書の箇所には、いくつかの問題があります。まずは、16章9〜20節の問題です。現在の聖書研究では、一般的にこの箇所は、元来のマルコ福音書にはなかったもので、後代の付け加えであろうと考えられています。それは、写本によって、この箇所がなく、他の結びが載せられているものもあり、また内容も他の三つの福音書から取られたもののように思われるからです。ただし、誤解していただきたくないのは、これはマルコの手によるものかどうかという問題であり、そうであろうとなかろうと、この箇所が「聖書」、つまり「神の言葉」であることには変わりはないということです。

 さて、9〜20節が後代の付け加えだとすると、次に問題になるのは、現在の16章8節が元来のマルコ福音書の終わりであったのか、あるいは元来の結びがあって、後代の人が現在の9〜20節と差し換えたのかということです。後者の考えを支持する人は、その理由として、8節の表現が結びの言葉としてふさわしくないことを挙げます。後述するように、何か未解決のまま終わっているように思えるからです。しかし、写本上の問題やマルコ福音書全体のメッセージを総合して、私はマルコ福音書がこのような一見、唐突な形で終わっていたと考えています。以下の解釈は、こうした前提の上に立っていることをご理解ください。


 さて、マルコ福音書16章1〜8節は、イエスが十字架上で亡くなった後の、週の初めの日の朝の出来事を記しています。何人かの婦人がイエスの葬られた墓に行きますが、イエスの遺体は見あたらず、そこに座っている若者(その服や言動から神の使いであることがわかります)からイエスの復活を告げられるというものです。

 マルコの記述にはいくつかの特徴が見られます。まず第一に、だれも復活したイエスに出会っていないということです。婦人たちは墓に行き、若者に会いますが、イエスに出会ってはいません。若者は、婦人たちに「あの方は……ここにはおられない」と言っていますし(6節)、さらに「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と弟子たちに告げるように命じています(7節)。この言葉からも分かるように、復活したイエスに会う場所は墓のあった場所ではなく、その周辺でもなく、エルサレムでもなく、ガリラヤであるということです。弟子たちが復活したイエスに出会うためには、エルサレムにとどまって待つのではなく、復活したイエスの後を追って自分たちもガリラヤに行かなければならないということです。しかし、なぜエルサレムでなくガリラヤなのでしょうか。

 この疑問について考える前に、この箇所のもう一つの特徴を指摘しておきましょう。それは、若者から弟子たちへのメッセージを託されたにもかかわらず、「婦人たちは……だれにも何も言わなかった」(8節)ということです。メッセージが、宛てられた人たちに届く前に途中で止められてしまうのです。これをどのように解釈すればよいのでしょうか。実は、若者自身も指摘していることですが、このメッセージ、すなわちイエスが復活の後、先にガリラヤに行くことは、すでにイエス自身が弟子たちに告げていたことなのです(14章28節にはっきりと記されています)。弟子たちは、婦人たちから聞かなくても、そのことを知っていたわけです。婦人たちが何も告げなかったとマルコが記す理由は、どうやらこの点にありそうです。つまり、弟子たちは、婦人たちの言葉を聞いたからではなく、イエスご自身の言葉を思い起こし、その意味を理解し、イエスの言葉に信頼したからこそ、ガリラヤに行くのであるということを、マルコは強調したかったのでしょう。

 ところで、「ガリラヤ」はイエスが聖霊を受け、神の国の福音を宣べ始めたところです。ガリラヤは、十字架上で完成するイエスの救いのわざの「始まり」を象徴しています。だとすれば、ガリラヤに行くということは、行ってそこで終わりではなく、そこから新たな歩みが始まることを意味します。つまり、弟子たちがガリラヤに行くということは、復活のキリストと出会うことによって、新たな歩みを「始める」こと、イエスがガリラヤから始めた宣教活動を今度は弟子たちが始めることを意味するのです。

 人の言葉に頼るのではなく、イエスの言葉に耳を傾けること、その言葉に信頼して、ただ待つのではなく、歩み始めること、しかも十字架に向かう福音宣教の道を自分の道として歩み始めること。弟子たちにとって、「復活のキリストに出会う」とは、こうしたことすべてを含む深い体験だったのでしょう。

 私たちも、ガリラヤに先に行かれた復活のキリストに出会うように招かれています。ただ待つのではなく、人に頼るのでもなく、聖書や教会の教えの中に示されるイエスの言葉に耳を傾け、その言葉を自分への呼びかけとして理解し、信頼をもって答えることにしましょう。ガリラヤから始まったイエスの歩みを自らの歩みとし、力強くイエスの後についていきましょう。イエスの言葉に信頼して、先に歩まれるイエスに従うとき、確かに私たちは復活のキリストと出会っているのです。