澤田豊成神父のそよかぜカレンダー
聖ペトロ 聖パウロ使徒
(使徒言行録15・1-35、ローマ3・21-26、ガラテヤ2・15-21)
6月29日に、教会は聖ペトロと聖パウロの2大使徒を祝います。2008年6月28日から一年間をかけて祝ってきた「パウロ年」も、2009年のこの日をもって、いったんその歩みを閉じます。「いったん」と記したのは、パウロの福音理解の豊かさとその重要性は、パウロ年が終わっても、変わることがないからです。
さて、教会は、通常、教会の礎となった使徒たちを個別に祝います。2人をまとめて祝うのは、聖フィリポと聖ヤコブ(5月3日)、聖シモンと聖ユダ(10月28日)の場合だけです。彼らは、名前を除いて、聖書に登場することがほとんどありません。それも理由の一つなのでしょう。しかし、ペトロとパウロは頻繁に聖書に登場する偉大な使徒です。当然、一人ずつ祝うのがふさわしいように思えます。それにもかかわらず、教会はこの2人の使徒を常に一緒に祝ってきました。それは、彼らが異なる務めを受けたとはいえ、ともに教会の成長と一致のために尽くしたからです。ペトロは、使徒たちの頭として、教会の礎としての務め、パウロは異邦人の使徒としての務めです。
パウロ自身、そのことに触れています。「ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されている」(ガラテヤ2・7)。「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけたのです」(2・8)。こうして、「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」(2・9)。ユダヤ人と異邦人へ分け隔てなく広がっていく教会、しかも唯一のキリストにおいて深く一致している教会。ペトロとパウロは、教会のこの普遍的広がりと多様性における一致を示す象徴的存在であると言えるでしょう。
しかし、この割礼と異邦人の救いの関係をどのように理解するかは、初代教会における大問題でした。最初、教会はユダヤ人だけに向けて宣教をしていました。ユダヤ人ですから、皆が割礼を受けていました。ところが、異邦人に福音が告げられるようになると、疑問と論争が生じました。異邦人の場合も、キリストの救いにあずかるために、割礼を受けて、律法を守らなければならないのだろうか。大半のユダヤ人キリスト者は、異邦人も律法を守らなければならないと考えていたようです。パウロの手紙には、そのように主張する人たちが多くの異邦人キリスト者たちを引きつけていた様子が示唆されています(ガラテヤ3・1-6、フィリピ3・2-3など)。使徒言行録でも、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教える人たちがいて、この人たちとパウロやバルナバとの間に激しい意見の対立と論争が生じたことが記されています(使徒言行録15・1-2)。事態は、この問題について協議するために、使徒たちと長老たちとが集まらなければならないところまで発展していきました(15・6)。
ユダヤ人にとって、律法や割礼は、唯一の神から与えられた大きな恵みでした。そして、この神こそがイエス・キリストを死者の中から復活させ、救いを実現してくださいました。同じ神から来るものだから、当然、どちらも必要不可欠なものに違いない。おそらく、ほとんどのユダヤ人キリスト者が無意識のうちにそのように考えていたのでしょう。
使徒言行録に記されているエルサレムの会議は、この問題を解決するにあたり、神が実際にどのようにはたらかれたかを述べ、それを根拠に結論を導き出していきます。ペトロは証言します。「神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れたことを証明なさったのです。……〔神は〕わたしたちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」(使徒言行録15・8-9)。神の神秘的な介入の事実が、皆を納得させたのです。逆に言えば、もしそれがなければ、多くのユダヤ人キリスト者は、異邦人にとっても律法や割礼が必要であると考えていたわけです。教会は、神のはたらきに導かれて、異邦人が割礼を受けなくともキリストの救いにあずかることができることを宣言します。救いは、ただ主イエスの恵みによるからです。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(15・11)。
一方で、パウロは手紙の中で述べています。「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2・21)。パウロにとっては、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされました」(ローマ3・23-24)。パウロは、必ずしも律法の価値を否定しているわけではないようです。いずれにせよ、律法が救いに必要なものであるとすれば、キリストは救いの唯一の源泉ではなくなってしまいます。だから、パウロは異邦人への割礼を認めるわけにいかないのです。
パウロの福音理解とエルサレム会議の決定は、真の意味で異邦人への宣教に扉を開きました。もし逆に、律法や割礼が異邦人にも必要であると宣言されていれば、異邦人は、結局、ユダヤ人とならなければ救われないことになってしまいます。しかし、今や異邦人が異邦人のままで、キリストの救いにあずかることが明確にされました。こうして、教会はその普遍的広がりへ向けて歩んでいくことになるのです。
教会は、現実の中を歩んでおり、常にその影響を受けています。信仰に関する事柄でも同じです。それは、ときとしてわたしたちの目をふさぎ、神の計画を識別することができなくしてしまいます。しかし、その中でも神ははたらいてくださり、わたしたちに真理を気づかせてくださいます。ペトロやパウロにはたらきかけて、教会を導いてくださったように。わたしたちも、この2人の偉大な聖人の模範にならい、神のはたらきかけと導きのうちにすべてを見つめていくことができるように、恵みを願うことにしましょう。
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