みことばの調べ

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罪人をやさしく受け入れる

四旬節第四主日(ルカ15・1—3、11—32)

みことばの調べ 森一弘司教の主日の福音説教集

 「弟は死んでいたのに生き返った。喜ぶのは当然ではないか」という父親と、「怒って家に入ろうとしない」兄。失われた家族の一人が戻ってきたことに対する、父と兄の反応は全く異なります。この違いは、イエスとファリサイ派の人々の神のとらえ方の違いを浮き上がらせるものでした。

 ファリサイ派の人々は、「神は聖なる方である。罪があるところにはおられない」と固く信じ、彼らなりに懸命に生きてきました。そんなかれらが罪人と交わるイエスの言動が理解できず、批判してしまったのは当然です。イエスは、その批判が神のとらえ方に基づくものであることを、冷静に見抜き、神の姿を明らかにしようとしてこのたとえ話をされたのです。

 ファリサイ派の人々の〈神理解〉はシナイ山ろくでの契約に影響されております。それは、イスラエルの人々と神とのかかわりを決定づけてしまったものでした。

 人々はモーセを仲介として神に忠誠を誓いました。その誓いによって神とイスラエルの民との間に契約が交わされました。この後、イスラエルの人々は、その契約に対する裏切り行為として罪を理解するようになっていったのです。神とのつながりを失うことを恐れた人々は、当然おきてを守ることを強調します。その流れの中にファリサイ派の人々がいたのです。

 しかし、おきてでは人間は救われないのです。パウロがローマ書で指摘するように、私たち人間には自分でも望まない罪に引きずられてしまう弱さがあります。存在の根っこから罪にむしばまれていると言っても言い過ぎではないでしょう。この弱さは、おきてを守るというようなことでは解決できない、もっともっと根の深いものです。「神は罪人に背を向けられる」という〈神理解〉にとどまり続けるならば、自らの力で罪を克服できない、人間の救いは永久に閉ざされてしまうことになります。

 神と人間とのかかわりを親と子のきずなで示したこのたとえ話は、「死に定められたこの体からだれが救ってくれるのでしょうか」と悲痛な叫びを上げ、律法の世界に締めつけられてきた人間に希望を与えるものです。たとえ子どもが非行を犯し、親の望まない道を進んでも、あきらめず、戻ってくることを待ち続ける親のように、神は人間を求め待ち続ける。このたとえ話は人間の極みない罪深さとそして神の極みない誠実さを啓示するものだったのです。人間の救いは、温かな神の愛の腕によって抱きしめられ、受容されることにあるのです。