みことばの調べ

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神に向き合って誠実に生きること

四旬節第三主日(ルカ13・1—9)

みことばの調べ 森一弘司教の主日の福音説教集

 人生の最期に死を迎えなければならないということに関しては、すべての人は平等ですが、しかし、どのような時に、どのような場所で、どのような形で死を迎えるか、だれにも分かりません。人それぞれです。生まれてすぐ死に襲われる者もいれば、畳の上で大往生する者もいます。

 私たち人間には、長寿を神の祝福としてとらえ、突然の死、不慮の死を不幸なことととらえ、不幸な死に対して勝手な解釈を加えてしまう傾きがあります。「罰が当たったのだ」とか「罪の報いだ」とか「先祖のたたり」とか。

 きょうの福音書のテーマもここにあります。「ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それをかれらのいけにえに混ぜた」とあります。これは、恐らく、ピラトの兵士たちが、ガリラヤからの巡礼者たちに手をかけ殺害してしまったという事件を指していたのでしょう。殺された者たちにとっては、不慮の死です。シロアムの塔が崩壊し、その下敷きになって命を奪われてしまった十八人の人々にも同じことが言えます。

 人生の途上で突然襲ってくる死を喜んで受け入れる者はいません。だれもが避けたいと願っているものです。伝統的なユダヤ人の頭の中には、人生の不幸は神の裁きであり、それは罪が招いた結果であるという思い込みがありました。イエスは、人の不幸に対する教条的な思い込みから、人々を解放しようとしました。

 苦しみはこの世界の現実です。ありのままの現実の中で、人間に求められるのは生き方なのです。どのように生きていくか、その生き方が問われているのです。苦しみを与えながら、神は、あなただったらどうこたえるか、私たち一人ひとりの生き方を、試されているのです。「あなたがたも悔い改めなければ……」とイエスがここで悔い改めを強調したのもそのためです。

 悔い改めとは、神に背を向けて生きてきた生き方を、神の方に転換することです。イエスは、人生の表面的な幸・不幸よりも、神に目覚めて生きる方が、ずっとずっと大切な課題であることを訴えようとしているのです。

 身を結ばない木を切り倒そうとする主人に、待ってくださいと頼む園丁は、人間の救いのために必死になって自らをささげるイエスの姿と重なってきます。私たち人間の心の転換を求めて待ち続けるイエスの期待にこたえて、悔い改め、神に心を挙げて、この人生の一瞬一瞬を誠実に生きていくことが、私たちに求められているのです。