神は人間の親
年間第十七主日(ルカ11・1—13)
みことばの調べ 森一弘司教の主日の福音説教集
「祈りを教えてください」という弟子たちの求めに応じて、イエスは「父よ」という呼びかけで神に向かって祈ることを教えます。「神は人間の父であり、人間はその子どもである」という信仰は、旧約聖書の中にも度々出てまいりますが、その根拠に関しては発展がありました。
モーセの時代には、神がイスラエルの民を特別に選んだということに土台を置いておりました。「あなたたちの神である主にとって、あなたたちは子らである。(中略)天下のすべての国民のなかから、主があなたをえらんだのは、あなたが、かれに特別に属する民となるためであった」(申命記14・1—2)。
選びを根拠とした親と子の関係は、「養子縁組み」と同じです。それには、「神に特別に属する民となる」とあるように、イスラエルの人々には神に忠実であることが求められており、もし、人々が神に背を向けるようなことになれば、「養子」としての関係は崩れていくことになります。選びを土台とした神とのかかわりは、その内にもろさを抱えておりました。
罪深い人間にとって、常に、神への忠誠を生きることは、困難なことでした。事実、その後、イスラエルの人々は、偶像崇拝に走りました。当然、神の子としての資格を失うことになります。それをはっきりと思い知らされるのは、預言者たちの時代でした。そのころ、イスラエルは大国の侵略を受け、その勢力を弱めていきました。その極みがバビロンの補囚でした。人々は、そのような不幸は、神に背を向けて選ばれた民としての使命を放棄してしまった自分たちが招いたものであると考え、その罪を悔いました。
神から捨てられたと思い、異国の地にあって失意に沈み、苦しむ人々。預言者たちは、彼らに、天地創造の業を強調することによって、希望を与えようとしたのです。
天地創造によって人間に存在を与えた神は、「人間の親」と言うことができます。そこに誕生した人間と神のきずなは、選びによる「養子縁組み」のようなものとは異なります。揺らぐことのない確かさを指摘できます。人間の親と子のきずなが、子どもが罪を犯したからといってそれで切れてしまうほど、もろいものでないのと同じように、神と人間との関係も、人間が罪を犯したからといって、一方的に神が人間を見捨て、その関係を切ってしまうような弱いものではないということです。「女がその乳飲み子を、母がふところの子を忘れようか。よし、忘れる者があっても、私(神)は忘れない」(イザヤ49・15)。
私たちを創造された神が「父」としての限りない愛をもって私たちを包み導いておられることを信じて、それに人生のすべてを心からゆだねることのできる者は、幸いです。
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