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5月の聖者カレンダー

1.jpg 5月1日
ブルゴーニュのシジスムンド

 6世紀の初め頃、ブルゴーニュの国王であったグネバルドは、キリスト教信者とは言いながら、イユズス・キリストの神性を否認していた。彼の息子であと継ぎのシジスムンドはウィーンの司教の感化で真の信仰を受けいれて信者となった。しかし、キリスト教信者になったとはいえ、シジスムンドの怒りやすい気性と野蛮な行為は相変わらず異教徒のようであった。王位 についてから約1年後、彼の息子のシゲリクが自分の継母と仲が悪くなった。シジスムンド王は、継母、すなわち自分の2度目の妻の味方をして、王子シゲリクを憎んだ末に、役人に命じて彼をしめ殺させてしまった。
 シジスムンドの怒りがおさまって我に帰った時、彼は息子に対して行なったことを深く反省し、何とかして償いをしようと決心した。まず最初に行なったことは、こわれかけていた聖マウロの修道院を建て直し、修道士たちを連れて来て、昼も夜も賛美の声が絶えないようにしたことであった。  シジスムンド王は、貧しい人々を愛して、惜しげなく施しをし始めた。しかし、シゲリク王子を惨殺した罪に対して十分な償いを果 たしていないことを痛感して、大きな災難を受けて償いができるようにと祈っていた。
 シジスムンドの父のグネバルド王は、フランクのクロヴィス王の3人の王子の祖父を殺していた。それで、この3人は、シジスムンド王を攻撃して、かたき討ちを果 たし、同時にブルゴーニュも侵略することにきめた。この戦争でシジスムンドは負けたが、命だけは助かって、しばらくの間、聖マウロ修道院の近くで隠修士として住んだ。しかし、最後には捕えられ、オルレアンに連れて行かれて死刑に処せられ、その遺体は井戸の中に投げ入れられた。

2.jpg 5月2日
アタナジオ司教教会博士

 アレキサンドリアの司教としてのアタナジオの生活は、決して平和ではなかった。彼が司教に叙階されたのは328年で、その頃はアリウス派の異端が起こって、教会は分裂しそうになっていた。アタナジオの敵は、種々の犯罪、殺人の罪までも、彼が犯したと言いふらして皇帝を信用させ、そのため、何度も追放された。
 アタナジオが司教に叙階される少し前に、ニケアで第1回公会議が開かれて、教会は正しいキリスト教の教義を定めることができた。アタナジオはこの公会議とその教えを支えて、イユズスは真の神であり、全き人間であること、そして聖霊も神であることを、立派に書き残した。
 アレキサンドリアの司教としてアタナジオは砂漠の修道者や司祭を保護し、聖アントニオの伝記を書いた。修道生活を西方へ導入したのも彼であった。
 敵は教会に侵入して来て信者たちを傷つけたり、殺したりしたあげくアタナジオは6年間追放されたが、砂漠の司祭たちはアタナジオのために全力を斥くした。
 アタナジオは、イエズス・キリストの働きについて、次のように書いた。「腐敗したものを元通 りに新しくし、すべての人々の前でおん父のほまれを保ったことは、キリストの働きであった。キリストのみがすべてを再び造り直し、万人のためにおん父の使節となることが可能であった。イエズスは、人として生まれ、生きて、死去し、復活されて、迷った人々を連れ戻すようになさった。キリストは、『私は失われた者を探し求めて、救うために来た』と言って御自身の真のおん父を示されたのである」。
 アタナジオは、普通「アタナジオ信経」と言われているものは書かなかったが、それは、彼の考えと、その著作から取って作られたことはほとんど確実である。
 彼はアレキサンドリアで373年5月2日に帰天した。

3.jpg 5月3日
フィリポ使徒

 ガリラヤのベトサイダで生まれたフイリボは、使徒になるようにとイエズス御自身によって呼ばれた人であった。
 フイリボは、弟子たちのなかでも世間の常識をよく心得ていた人物と思われる。イエズスはわずか5つのパンと魚2匹で大群衆を養おうとされた時、わざとフイリボに向かって、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」と尋ねられた。こう言われたのは、フイリボを試みるためで、御自分では何をしようとしているか知っておられた、と福音史家ヨハネは記している。
 後に、イエズスが御自分と父なる神について難しい説明をされた時、フイリボは大胆に、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエズスは、「フイリボ、こんなに長い間いっしょにいるのに、わたしを分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われた(ヨハネ14・8〜9)。


5月3日
小ヤコボ使徒

 小ヤコボがこの名で呼ばれているのは、大ヤコボとして知られている使徒よりも重要でないという理由からではなく、同名の大ヤコボより若かったからである。彼は事実イエズスの親類であった。イエズスの昇天後、ヤコボはエルサレムの教会の頭となって働き、市民たちからも尊敬され、多くの信者をつくった。そのためフアリザイ人の怒りをかい、62年頃殉教した。

5月4日
ペラジア殉教者

 今日記念される、304年に亡くなった2人の聖人はディオクレチアヌス皇帝の迫害の時に遠く離れて住んでいたが、同じように殉教者となったのであった。異教徒の両親に育てられたペラジアは非常に美しく、ディオクレチアヌス皇帝の王子に求婚されたが断って、自分の乳母を訪問するという口実のもとにキリスト教の司教のもとに行って教えを受け、信者になった。
 これを知って怒りに燃えたのは王子ばかりではなかった。ペラジアの母も怒って王子と共に彼女を皇帝に訴えた。そうすれば刑罰の恐ろしさに信仰を棄てるだろうと思ったからであった。皇帝は自らペラジアを訊問したが、伝説によれば、彼もペラジアの美貌に見とれたということである。しかし、彼女の信仰はゆるがなかったので、特別 な刑罰が準備された。青銅で作られた雄牛の空洞の中に押しこめられて、死ぬ まで焼かれたのであった。司教が彼女の遺骨を葬ったと伝えられている。

4.jpg 5月4日
フロリアノ殉教者

 この事件がタルソで起きていた時、オーストリアの北部でフロリアノという軍人がローマ軍の士官としてディオクレチアヌス皇帝に仕えていた。皇帝は総督に命じてキリスト教徒を捜させたところ、フロリアノが自ら総督の所に行って自分もキリスト信者であることを告白した。彼は2度もむちで打たれたが、苦しみに負けず信仰を保った。最後に体の皮膚をはがれ、重い石を負わされて川の中へ投げこまれて殉教した。
 フロリアノの遺骨の一部は後にポーランドヘ送られて、オーストリアにおいてと同様に彼は崇敬されている。

5月5日
アルルのヒラリオ司教

 フランスの南東部アルルの司教ヒラリオは、愛徳にすぐれると共に司教としての権利を確保する熱烈な気性を持っていた。しかしあまりにも自分の権利を主張したために行き過ぎて、教皇に非難されたことも2度あった。しかし彼は自分を弁護したとはいえ、長上の権威に全く服従した。449年にヒラリオが亡くなった後、レオ大教皇は彼の伝記を書いた。
 ヒラリオの非常な熱烈さは、彼がまだ30歳ぐらいの若者であった時にアルルの司教に任命されたことが原因かもしれない。ヒラリオの先任者は、ホノラート司教で、彼はヒラリオの親戚 であったが、ヒラリオが少年の頃にレリンスの修道院長をしていた。その時、彼はヒラリオを修道院に迎え入れて息子のように愛して、教育したのであった。筈願の宣立前に、ヒラリオは自分の財産を全部貧しい人々に施した。426年ホノラートは司教に叙階された時、ヒラリオを自分の補佐として選んだ。司教に叙階された後も、ヒラリオは修道院にいるかのように祈りの時間を正しく守り、規則正しい生活をしていた。

5月6日
エドベルト司教

 リンディスフアーンの司教クトベルトが687年に死去した時、エドベルトがあとを継いで司教となった。エドベルトは聖書学者で、神のおきてを忠実に守り、愛徳にすぐれていた、とベーダが書いている。旧約聖書の教えに従って、毎年自分の家畜と、穀類、果 物と衣類の10分の1を貧しい人々に施したことも伝えられている。
 クトベルトの死後、11年目に彼の棺を開いたところ、身体は腐っていなかったのでエドベルトは聖人の遺体を入れるために新しい棺を作らせた。そして聖人の体を包んでいた衣服に接吻し、新しい衣服を取り替えた後、立派な墓を作った。その時、自分の墓のために下部に場所を残すように修道院の者に命じた。  エドベルトは、クトベルトに倣って善業に励み、毎年40日の黙想を2回行ない、神を礼拝するために美しい教会をいくつも建てた。彼はクトベルトのようにダーラムのカテドラルの中に安置されている。その理由は、この2人の遺体をスカンジナビアからの略奪者から守るために多年、諸所に移された後、そこに持ってきたからである。


5月6日
ペトロナクス大修道院長

 イギリスの修道者たちが略奪者の盗みに苦しめられように、モンテ・カッシーノ修道院は581年ロンバルディア人たちがイタリア各地を侵攻した時に非常に荒らされ、破壊されてしまい、ペトロナクスが717年に聖ベネディクトの墓参りをした時にはほとんど何も残っておらず、ただ23人の修道者がそこに住んでいた。
 ペトロナクスは、モンテ・カッシーノを昔のように再建しようと決心し、ザカリア教皇から聖ベネディクトの自筆の戒律を受け取った。教皇はパンとぶどう酒を計る修道院の古い器具も与えた。747年にペトロナクスが帰天する前に、モンテ・カッシーノ修道院は再建され、昔の活力がよみがえった。

5月7日
アルルのヒラリオ司教

 イギリスの東部のベバリーの教会は、国中で最も美しいカテドラルだと言われている。それを建てた人はベバリーのヨハネ司教であった。  ヨハネは、福音史家聖ヨハネにささげられた小さな教会のそばに修道院を建てて、721年に死去した時、ここに埋められた。ベーダによると、ベバリーのヨハネは病気を癒す賜物を与えられて、生まれてから一語も話せなかった口のきけない少年を癒して、アルファベットを教えたり、また、激しい苦しみのため3週間も動けなかった女性を治し、凍死の状態にあった数人の者も聖人の祈りで救われた。聖人の死後も、このような奇跡は墓のそばで続いたので、そこは有名な巡礼の場所となった。
 彼が列聖されたのは1037年であった。生まれた所はヨークシャーの小さな村で、ケントで修道司祭となり、後にヨークの司教になったが辞職して、最後の4年間は修道院で静かに余生を送った。

5月8日
タレンテスのペトロ司教

 タレンテスのペトロほど成功した司教は他にないであろうが、また、彼ほど司教職につくことをいやがった者もないだろう。  ペトロの唯一の望みはシトー会の修道者になることであった。20歳の時にシトー会の修道院に入ったが、自分の両親と兄弟、姉妹にも修道院に入るように勧めた。そして、30歳になる前にタレンテスの丘の新しい修道院の院長となった。ここで、ペトロはサヴォイの領主アマデオと共に病院を建て、それは山を越えて来る旅人のための宿舎ともなった。この病院で召し使いたちといっしょに人々の世話をすることを、ペトロは非常に好んだが、1142年に、タレンテスの大司教に選挙された。シトー会は、ペトロの望むことは何でも更け入れることに決めた。
 ペトロの先任者は非常に無能力でしまりのない人だったので、退任させられたのであった。司教区は全く乱れていたので、ペトロはしぶしぶその刷新を始めて、自分の個人的感情に妨げられないように努力した。しかし、13年間、大司教として任務を果 たした後、逃げ出して、スイスのシトー会修道院にひそかに隠れた。
 しかし、1年たたないうちに発見されて、再び司教区に連れ戻された。そこで、アルプスの山路を旅する人々のための宿舎を作つたり、収穫の少ない農夫たちにパンやスープを与えたりして、奉仕した。
 また、当時の対立教皇のことについても、ペトロは真の教皇を支持し、偽教皇ヴィクトルがフレデリッタ・バルバロツサによって支えられている時でも、断固として信念を貫いた。なお、1174年に、ペトロは教皇の要請で、イギリスとフランスの王を和解させようとしたが、それは成功しなかった。自分の教区に帰る途中病気になり、フランスの東部ブザンソンの近くで亡くなった。

9.jpg 5月9日
パコミオ修院長

 310年頃、パコミオという若者(上図中央)が自分の望みに反してテーベの軍隊に入れられた。軍隊がテーベに到着した時、係の士官たちは、若者たちの不満の感情を知って彼らを監禁し、囚人としてナイル川を下って連れていった。その時、あわれな囚人の状態を見て、あるキリスト信者たちが食物を与えた。
 パコミオは、この親切な行為に感激してキリスト信者たちの信仰について尋ね、後で軍隊から解放された時、洗礼を受けて信者となった。そして、砂漠の師父バレモンの弟子となった。バレモンは復活祭の日でも食物の中に酒や油を決して入れず、キリストの苦しみの意義の理解を失わぬ ようにした。彼はパコミオに命じて、はだしで茨を拾わせたが、パコミオはキリストの足につき刺さった釘を思い出して耐え忍んだ。
 最後にパコミオはナイル川の岸めタペニシに修道院を創立して、バレモンがそれを助けた。パコミオの特別 な仕事は、修道土と修道女たちを集めて聖なる規則のもとに生活させることであって、ナイル川の向こう岸に6つの男子修道院と、1つの女子修道院を建てた。彼が帰天する前には、1000人の修道土が集まっていた。彼らは聖書を暗記し、仕事をし、祈りのために集まっていた。346年頃、パコミオは亡くなった。

5月10日
フィレンツェのアントニノ大司教

 フィレンツェのアントニノ(次ページ)は、フィレンツェのサン・マルコ修道院の美しい回廊で今日でもよく記憶されている。それは、聖人の存命中にミケランジェロが設計した広いアーチや美しいイオニア式の柱頭を持つ回廊で、1436年にアントニノがメディチ家のコシモに資金を出させて修復したものである。回廊には、有名な画家によってアントニノの生涯のできごとが描かれている。画家フラ・アンジェリコの傑作のサン・マルコの壁画は彼のインスピレーションによって描かれたものが多い。
 アントニノの父ニコロ・ピエロツチは有名な法律家で、フィレンツェの公証人であった。父は息子をアントニオと呼んだ。しかし、息子は小さくておとなしかったので、人々は彼をアントニノ(小さいアントニオ)と常に呼んでいた。
 彼は40年間、イタリア各地のドミニコ会修道院で奉仕したが、その間に教皇庁から依頼されて公会議に参加し、教会法の学者として有名になった。
 教皇ェウゼニオ4世は、フィレンツェの大司教として彼を選び、1446年に叙階した。1448年疫病が流行した時、アントニノは危険をかえりみずに苦しむ人々を助け、1453年の地震の時も擢災者を助けた。1459年、アントニノは全市民に惜しまれながら帰天した。

5月11日
レステルプのウォルター大修院長

 レステルプのウォルターは、フランスのレステルプの修院長として、1070年彼が死ぬ まで38年間務めた。1062年に盲目になったが、仲間の修道土たちは彼に院長職を続けるように願った。彼の判断力は非常にすぐれていたので、教皇ヴィクトル2世は、罪を十分に悔やんでいないと思われた者を破門にする権力を与えた。
 しかし、彼は温和な人であった。ある金曜日に、料理人が昼食のために肉を料理したが、キリストが十字架にはりつけられた日には、肉食をしてはいけないという規則を思い出して、修道土たちは非常に恐れおののいた。その時、ウォルターは、彼らは許されるだろうと告げて安心させ、自分がそれを信じていることを示すために、座って肉を食べ始めた。それを見た修道土たちはすっかり安心した。


5月11日
ベルガモのアルベルト

 イタリアのベルガモのアルベルトは、レステルプのウォルターと同じように、度々非難された。しかしアルベルトの場合は、彼が貧しい人々に金鎮を施すことを好まなかった彼の妻と親類から責められたのであった。
 アルベルトは農夫であったが、ドミニコ会の第三会員となって一般 社会で暮らしていた。
 サン・チャゴ・デ・コンボステラヘ8回も巡礼したが、その費用は働いてまかなった。また、エルサレムへも行き、ローマヘは度々出かけた。  最後に、アルベルトはクレモナに住み1279年に帰天した。
 死後、多くの奇跡が彼の取り次ぎで起こり、貧しい人々に対する愛徳はいつまでも伝えられた。

12.jpg 5月12日
ネレオとアキレオ殉教者

 ネレオとアキレオ(上の画の中でドミテラと共に描かれている2人)は、実の兄弟で、1世紀の中頃、ローマの軍隊に入り、市内を警備していたが、キリスト信者となつてから軍隊を出ることを決心して逃げ出した。しかし、まもなく発見されてテラチナ島へ追放され、トラヤヌス皇帝の時に首をはねられて殉教した。
 この2人が葬られた納骨堂はヴィア・アルデアティナにあって、後にドミチラの墓地となり、教会がその上に建てられた。
 4世紀の終り頃、教皇ダマソがこの2人を記念して墓石の上に次の言葉を記した。「殉教者ネレオとアキレオは軍隊に入り、暴君の意志に従って、残酷な命令を恐れながら実行していた。しかし、信仰の奇跡が起こって、彼らは改宗し、にわかに野蛮な行為をやめて、悪いリーダーのもとから逃げ出し、窟と軍服、血のついた槍を後に残して行った。キリストヘの信仰を宣言して、その勝利を喜んで証明した。ねがわくは、キリストの栄光によって、いかに偉大な行為がみちびき出されるかをダマソの言葉から理解するように望む」。


5月12日
コースウェイのドミニコ隠修士

 英語のコースウェイ(Causeway)は今日祝うドミニコが、スペインのコンボステラヘの巡礼の道を作ったことからこの名がつけられている。
 世間の目には、この聖ドミニコの謙遜な生涯は全く重要なものでなかった。  ドミニコはバスク人で、ベネディクト会に入りたいと望んで何度も願ったが聞き入れられず、しかたなく隠修士として暮らした。後に、コンボステラの聖ヤコボ教会へ行く巡礼者たちが通 るひとつの道のそばに自分の小舎を移したが、巡礼者たちの苦労を和らげるために、道路を作り、橋をかけ、宿泊所を建てることを計画して、この有益な仕事に身をささげた。  
  ドミニコは12世紀に亡くなった。

5月13日
アンドレア・ウベール・フルネ

 フランス革命の時、ポアティエの教区司祭であったアンドレア・ウベール・フルネはスペインに追放されたが、5年後にフランスにひそかに帰ってきて、小教区を再び司牧し始めた。しかし、この仕事は当時の法律に反していたので、度々役人に発見されそうになって、苦しまねばならなかった。
 ある日、アンドレアが、信者の家を訪問した時、ひとりの役人が急に入ってきたので、彼はベッドの中に飛びこんだ。その家の主婦は彼にシーツをかぶせ、ベッドの周囲にろうそくをつけて、ひざまずいて祈った。役人は誰かが死んだと思って、家から出て行った。また、ある時は、ひとりの信者がアンドレアを、司祭としてではなく、怠け者の召し使いとして取り扱って、役人たちが現われた時、彼の頭をなぐった。
 アンドレアは、ある日、実際に役人につかまって、牢屋へ行くため車に乗せられたところ、自分はキリストが処刑される時歩かれたように歩いて行くと言い張った。
 アンドレアは、若い頃、司祭に叙階されることは望んでいなかった。大学で法律と哲学を勉強していた時、彼は怠け者で、遊んでばかりいたが、彼の両親が、非常に貧しい村の教会の主任司祭であった伯父のところへ彼を送った時、すっかり目ざめて心を改め、自分の真の召命に従う決心をしたのだった。
 ナポレオンがフランスで教会を再び開く許可を与えた時、アンドレアは正式に小教区の主任司祭となった。そして、アグネス・ビシェという聖徳の高い女性の助けで、「十字架の娘たち」という名の修道女会を創立した。
 1834年アンドレアが帰天するまでに、60以上の修道院がフランスの西部ポアトーにできて、病人の看蕎と少年のキリスト教的教育のために斥くした。

14.jpg 5月14日
マチア使徒

 イスカリオテのユダがイエズスを裏切った後、他の11人の使徒たちは、使徒の数を再び12人にしようと決めた。2人の候補者がいた。ヨゼフ・バルサバという名の信仰の深い義人と、もうひとりはマチアであった。イエズスの弟子たちは集まって祈ってから、新しい使徒を選ぶためにくじを引いた。するとマチアにくじが当たったので、彼が11人の使徒たちの仲間に加えられることになった。
 マチアがひとつの福音書を書いたという説が初代教会で広まったこともあったが、これは全く消滅した。確実に私たちがマチアについて知っていることは、聖ペトロが言ったように、「彼は、主イエズスが、私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつもいっしょにいた人々のひとりであり、キリストの復活の証人である」ということである。

15.jpg 5月15日
イシドロ農夫

 1070年スペインのマドリッドの貧しい農家で生まれたイシドロは、ヨハネ・デ・ベルガスという富裕な地主の大きな農場にやとわれて、非常によく働いたので、主人は彼を自分の弟として取り扱うようになった。毎日、教会の中で祈ることを許されたが、イシドロは決して仕事のじゃまにならないように注意した。彼が祈っている問に、天使や天国の聖人たちが来て仕事を助けるのだと言う人々がたくさんいた。しかし、イシドロは、「私は、いつも独りで働いています。ただ、神様にだけ、助けを願っているのです」と言った。
 イシドロは常に貧しい生活をしていたが、できるだけ貧しい人々に施していた。ある冬の日に、小麦を粉にするために水車小屋に運んで行く途中で、何も鳥の食べものがないのを見て、小麦の半分を与えた。ところが、製粉場に着くまでに小麦を入れた袋が、奇跡的にいっぱいになっていたと伝えられている。

5月16日
プレンダン修道院長

 プレンダンは、獣皮で張られた網代舟に乗ってアイルランドからスコットランドへ、そして、イングランドとウェールズに行った。彼の有名な旅行は「ナビガチオ」(航海)という物語に記されていて、それによると、彼はグリーンランド、または北アメリカまで行った。
 プレンダンはアイルランドの西岸のトラリーで生まれ、イタという聖女に教育された。イタはプレンダンに、神が真に愛される3つのことを教えた。それは、清い心からでる真の信仰と、素朴な修道生活、およびキリスト教的博愛から出る慈愛のわざであった。そして、神の嫌われる3つのことも同時に教えた。1は、しかめっつら(苦しい顔)をすること、2は、がんこな悪い行為,3は金銃をあまり信頼すること、であった。プレンダンが創立した修道院の中で最も有名なのはクロンフェルト修道院で、宣教の中心であった。プレンダンは、そこで3000人の修道者を養成したと言われている。彼が帰天したのは578年であった。

17.jpg 5月17日
パスカーリス・パイロン司祭

 パスカーリス・パイロンは、7歳から24歳まで羊伺いをしていた。彼の両親は貧しく、羊の群れだけが唯一の貴重な財産であった。
 パスカーリスは学校に行くことができなかったので、自分で読み書きを勉強した。教科書は祈祷書で、その中に聖母の聖務日祷が含まれていた。  彼は良心的な羊網いであったが、早くから修道院に入りたいと望み、19歳の時に初めて入会を願ったが断られ、1564年24歳の時、やっと許されてフランシスコ会に入り、やっと望みを達することができた。
 修道院では、規則をよく守り、長上には従順であり、毎日厳しい苦行をしながら、貧しい人々や病人に対する愛においても特にすぐれていた。  毎日、聖体の前で長い時間を過ごしていた彼の聖体に対する特別 な信心の模範は後世まで伝わり、レオ13世教皇は、1897年パスカーリスを国際聖体大会の守護の聖人として選んだ。

18.jpg 5月18日
ヴェナンチオ殉教者

 今日祝われるヴェナンチオについては、はとんど何も知られていない。伝説によると、彼は257年イタリアのカメリノで、17歳で殉教した。迫害者たちは初めに彼をむち打ち、炎の燃えているたいまつで彼の体を焼き、歯を打ちくだいた。次にライオンの群れの中に投げこんだが、ライオンはただ彼の足をなめただけであった。それから高い崖の上から落とされた後、最後に首を切られて殉教した。

19-1.jpg 5月19日
ダンスタン大司教

 カンタベリー大司教の甥であったダンスタンは、アセルスタン王の宮廷で幸福な青年時代を過ごし、後、修道院に入って、グラストンベリーの修道院長となった。当時は、バイキングの侵入の結果 、イギリスにおける修道生活はほとんど消滅していたので、ダンスタンはカを厚くしてそれを回復させて、諸所に修道院を創立して、新しい規則を作った。そして、ウインチェスター、サリー、ドーセットなどにも修道士を集めた。
 しばらく追放された後、エドガー王はダンスタンを呼び帰して、960年にカンタベリーの大司教に任命した。彼は、市の東部に3つの教会を建てて、聖母マリア、聖ペトロと聖パウロ、聖パンクラチオにささげた。
 ダンスタンは、また金属細工などにも才能があったので、教会芸術の復興を励まし、写 本に自ら画を描くなどしたが、竪琴を弾くことが好きで、美しい聖歌も作った。

20.jpg5月20日
シエナのベルナルディーノ司祭

 イタリアのマッサ市の市長の息子であったベルナルディーノは7歳の時に孤児となり、伯母に引き取られて育てられた。17歳の時、聖母の信ノー会に入会し、3年後、恐ろしい疫病のために多数の病人が死亡したシエナのラ・スカラ病院の主任となって病人を世話した。
 疫病がおさまった後、ベルナルディーノはフランシスコ会に入ることを決心して、1303年コロンバーヨの修道院のメンバーになった。入会がおくれたのは、伯母の最後の病気の時、彼女を看護したからであった。
 彼はこの修道院で12年過ごしたが、説教師となる召命を受けて、初めはミラノで説教したところ、たくさんの人々が集まって来た。やがて、ほとんビイタリア全国を徒歩で旅行して、1度に3時間位 説教することもあった。ベルナルディーノのとった方法は、まず、罪悪を避けるように強く説教した後に、IHSというイエズスのみ名のサインが書かれたプラカードを高く掲げ、この文字で表わされているお方に向かって祈るように勧めていた。(IHSはイエズスの名の略語であるが、人類の救い主イエズスを意味にとることもできる。)
 ある時、トランプのカードを作って商売していた男が来て、ベルナルディーノが、とばくに反対する説教を上手にしたので、商売ができなくなったと不平を言った。ベルナルディーノはシエナとフェララ、ウルビノの司教になるように乞われたが、それをみな断って、相変わらず説教師の生活を続けた。しかし、1430年に、自分の修道会の総長代理となって、会の刷新に厚くし、会員の数は300人から4000人に増加した。1442年に再び宣教の仕事をするために総長代理を辞職し、2年後、ナポリに説教に行く途中で帰天した。

221.jpg 5月21日
アンドレア・ボボラ司祭殉教者

 アンドレア・ボボラは、ポーランドの貴族の家に生まれ、1611年20歳の時イユズス会に入った。初めはリトアニアのビルナの小教区司祭として働いたが、1630年にポプリンスクのイユズス会修道院長になった。その時は、恐ろしい伝染病が流行していたが、自分が伝染するのも恐れずに源死の病人を介抱し、死者のための世話をして、多くの人々を感動させた。
 1630年、アンドレアはリトアニアの宣教師として旅立ち、20年以上働いて多数の男女を回心させたので、彼の敵は「アンドレアは霊魂の盗賊だ」と言った。その当時の宗教分裂の状態はポーランドに侵入して、キリスト信者たちを苦しめていたロシア人、コサック人、トルコ人たちによって、非常に悪くなっていた。1652年、アンドレアは、ピンスリの修道院の責任者と逃亡して来たイユズス会員に宿を与えた。そこに彼は5年間留まったが、コサック兵が市内に侵入して来た時に捕えられ、剣で殺されて殉教した。

22.jpg 5月22日
ウミリタ修道女

 ウミリタは、1226年イタリアのフアエンツアで富裕な両親の娘として生まれて、ロザンナと名づけられた。彼女は幼時から、修道院に入って十字架上のイエズスのそばに立っていた聖ヨハネと聖母マリアに倣いたいと望んでいた。しかし、彼女の両親はむりやりにフアエンツアの貴族ウゴレツトと結婚させた。彼は軽薄でずぼらな人で、自分の妻の信心をあざけった。彼女の大きな悲しみは、生まれた2人の息子が洗礼を受けた後、まもなく亡くなったことであった。
 結婚してから9年目に、ウゴレツトは重病にかかって、やっと死をまぬ がれたが、この時から見違えるようにまじめになった。そして、妻のロザンナに修道院に入ることを許し、自分も同じ道を選んで、フアエンツアの聖ペルペトゥアという男女の修道院に入り、ウゴレツトは助修士となり、ロザンナも修道女となって、ウミリタという修道名をつけた。
 まもなく、彼女はもっと厳しい生活を望んだので、親戚のひとりが聖アポリナリス教会の壁にそってひとつの修室を彼女のために作った。壁にひとつの穴をあけて、教会の中の祈りに加わることができるようにした。毎日の食事としては、パンと水だけを摂取し、時々、少しばかりの草の葉を食べた。寝る時には頭を壁に寄りかけて、ひざの上にうつ伏して眠った。
 このような生活を12年続けた後、バロンブローザン会の総長から、同会最初の女子修道院の院長になるように要請されて、フアエンツアに修道院を建てるのを助けて院長となり、次にフィレンツェに建てられた修道院の院長となった。ウミリタは、英雄的な断食と非常に厳しい苦行の生活にもかかわらず80歳まで生きて、安らかに帰天した。

23.jpg 5月23日
デシデリオ司教殉教者

 デシデリオは、6世紀の中頃にゴールのオータンで生まれて、後にウィーンの司教になった。当時は、教会の聖職者たちの規律がゆるんでいたので、それを改めさせるためにデシデリオはカを斥くした。そのうえ、宮廷でも不品行なことが行なわれていることを知って、ブルンヒルディス女王と廷臣たちを非難したので、女王は非常に怒って、グレゴリオ大教皇にデシデリオが異教徒の著作にあまり興味を持ち過ぎると言って訴えた。しかし実際はラテン語文法を教える時に使っているだけであった。
 デシデリオ司教は数年間追放されたが、グレゴリオ大教皇が彼の無実を認めて、ウィーンの司教区に呼び戻した。その頃、ブルゴーニュの王で、ブルンヒルディス女王の孫に当たるティエリー王が不品行であったので、デシデリオは、王を非難した。ところが、王はデシデリオ司教がユスタという女性と不倫の関係を結んでいると偽りの訴えをしたので、司教は捕えられて牢獄に連れて行かれることになり、その途中で3人の男が司教に飛びかかって、残酷なやり方で殺害した。

5月24日
スコットランド王デーヴィド1世

 スコットランドのデーヴィド1世は、スコットランドの女王聖マルガリタの息子で、1080年に生まれた。1113年に、ノーサンプトンの伯爵の未亡人のマチルダと結婚した。その後、イングランド王ステフアノと長い間戦ったが、結局は敗北した。
 1112年スコットランドの王となって、正義と公平無私の精神で国を治めていたが、前に自分の宮殿で執事として仕えていたリボーのエイルレッドがその頃シトー会の修道士となっていたので、彼からシトー会の精神を教えられた。それで、デーヴイドが王位 についた時からスコットランドの修道院が盛んになり始め、同時に多くの救算施設やらい病院、その他の病院が設立された。
 デーヴィドの保護のもとに建てられた修道院は精神的にすばらしいものであったばかりでなく、建築上からも非常にすぐれていた。1138年に創立したジェドバーグ修道院には、フランスのボーベから修道士たちを連れて来て住まわせた。
 デーヴィド王が帰天したのは1153年5月24日であった。

25.jpg5月25日
マググレナ・ソフィア・バラ修道女

 マグナレナ・ソフィア・バラはフランス革命が起こる10年前にフランスのブルゴーニュのジョアニーで生まれた。父はぶどう作りの農夫で、酒樽造りの仕事もしていた。神学生の兄のルイがマググレナの教育を引き受けて彼女にラテン語やギリシャ語、数学、科学、歴史などを教え、後にはパリヘ連れて行って神学と哲学の勉強もさせた。
 その頃フランスの司祭のあるグループが女子教育のために修道女会を設立したいと望んで、そのリーダーであったヴァラン神父がマググレナと3人の仲間を受け入れて、1800年に聖心会が誕生した。
 この修道会は女子教育を通じてイエズスの聖心の愛を世に広めることを目的として、1801年に最初の学校がアミアンで始められた。
 マググレナは23歳の若さで院長に選ばれ、その後63年間、院長および総長としての重責を負うことになった。彼女の指導のもとに聖心会はフランスの他に、ヨーロッパ各国、アメリカにも100以上の学校を設立した。1865年5月25日にマググレナは85歳で帰天した。

26.jpg 5月26日
フイリボ・ネリ司祭

 フイリボ・ネリは1515年イタリアのフィレンツェで生まれ、熱心な信者として教会のために働いていたが、聴罪司祭に勧められて36歳で司祭になった。彼がサン・ジロラモ・デ・ラ・カリタの教会で他の司祭たちと共に住んでいた時、教会の高位 聖職者たちも含む大勢の人々が、彼に告解したり、勧めを受けるために訪ねて来た。1564年に、サン・ジョバンニ教会の主任となって、5人の若い司祭たちと司祭活動を続け、いっしょに祈るようになり、徐々にオラトリオ修道会の基礎が築かれていった。この会では、毎日、祈りと説教、霊的会話、典礼、音楽、などが行なわれて、聖人の死後もますます盛んになった。1575年に正式に認可されたこの修道会は、聖職者の養成や青少年の教育、司牧、教会音楽などに大きな貢献をした。

27.jpg 5月27日
カンタベリーのアウグスチノ司教

 596年教皇グレゴリオ1世はローマのベネディクト会聖アンドレア修道院の院長のアウグスチノと40人の修道士をイギリスに宣教師として送った。彼らが南フランスに立ち寄った時、残虐なアングロ・サクソン族が迫害するということを聞いて、そこから引き返そうとした。これを知った教皇は手紙を送って「すでに良いことを始めたのだから万難を排してこれを全うするように」と激励し、なお、フランス人の司祭たちに彼らを助けるように依頼した。
 597年にアウグスチノと修道土たちはイギリスに上陸して、エセルパート王に歓迎された。王妃は、パリの王の娘で、すでにキリスト信者であったが、まもなくエセルパート王も洗礼を受けた。アウグスチノは全イギリスの大司教に任命されて、カンタベリーに司教座を設け、次にロンドンとロチェスターにも設置して、多くの人々を信仰へと導いた。しかし、ウェールズや南西地方の司教たちは、彼らケルト民族の習慣に固執してアウグスチノの教えに従わなかった。あらゆるかん難辛苦を忍んで布教したアウグスチノは、ついに607年、生前彼が望んだようにイギリスの土となった。

28.jpg5月28日
パリのジェルマノ司教

 パリで最も古く、そして最も大きい中世紀のサン・ジェルマン・デ・プレ修道院はこの聖人の生存中に、チルデベルト1世王によって558年に建てられたものである。ジェルマノはそれを聖ヴインセンチオと聖十字架に奉献した。
 576年5月28日にジェルマノが80歳で死去した時、この修道院内の立派な墓に葬られたが、それはフランスの革命者たちによって破壊され、彼が列聖された年に彼の名をとって再建された。
 ジェルマノは496年フランスのオータンの近くで生まれて、530年に司祭となり、10年後にオータンの聖シンホリエン修道院の院長に選ばれたが、彼がパリに滞在していた時に早速パリの司教に任命され、同時にチルデベルト王付き司祭長となった。
 ジェルマノは高位についても、従来の厳しい生活を続け、貧しい人々が集まって来ても、決して彼らを退けるようなことはしなかった。576年に彼が帰天した時、有名な詩人のヴェナンチオ・フオルトウナートが彼の生涯をほめたたえる文章を書いた。それは信じ難いような多くの奇跡や伝説を含んでいるが、このような力強く崇高な聖人を与えてくださった神に感謝する彼の心情がにじみ出ている傑作である。

5月29日
ヨアキム修道者

 ヨアキムはイタリアの修道院長であった。若い時は非常に虚栄心が強かったが、厳しい生活によってこの欠点を直したと言われている。この聖人について次のような話が伝えられている。
 ある年の聖金曜日、コンスタンス皇后がヨアキムをパレルモの宮殿に呼びよせて、罪を告白しようとした。皇后は祈祷室には不似合いな大きな玉 座を作ってその上に座り、ヨアキムのためには、低い腰かけを準備した。すると、ヨアキムは言った。「私は今キリストの代理者で、あなたは痛悔女マリア・マググレナです。玉 座から下りて、床の上に座って、私にあなたの罪を正直に告白しなければ、私はあなたのおっしゃることは聞きません」。皇后は、修道院長の権威に謙遜に服従したということである。


5月29日
テオドシア殉教者

 テオドシアは、8世紀の中頃コンスタンティノープルに住んでいた。当時の皇帝はイユズスと聖母マリア、および聖人たちの絵を全部破棄していた。テオドシアがキリスト教の絵を非常に大切にしていることを知った皇帝は、ひとりの役人を送って、その絵を破り捨てさせようとした。彼が梯子に登って、その絵を取ろうとした瞬間、テオドシアは、梯子を激しくゆさぶったので、役人は落下して死んでしまった。
 テオドシアは、これだけでは満足せず、聖画の破棄を支持していた異端者のコンスタンティノープルの大司教の宮殿に石を投げるために、女性のグループを引き連れて出かけた。役人たちは、非常に怒って彼女たちを捕えて罰したが、特にテオドシアは残酷な刑罰を受けて、殺された。

30.jpg5月30日
ジャンヌ・ダルクおとめ

 イングランドとブルゴーニュがいっしょになってフランスと戦争を始めた時、ジャンヌはわずか13蔵であったが、フランスを救えという神からの啓示を受けたと信じた。しかし、フランス軍の司令官は彼女の言葉を信じなかったので、フランス軍がオルレアンの近くで敗北するだろうということを彼女は予言した。1429年2月に、この予言のとおりフランス軍は敗北した。
 神学者たちは、ジャンヌが神の啓示を受けたことを認めた結果 、彼女はイギリス軍を攻撃するためにフランス軍を率いる許可を得た。そこで、ジャンヌは白い軍服を着て、イユズスとマリアのみ名と聖三位 一体のシンボルのついた軍こ旗を持って、さっそうと馬にまたがり、精鋭部隊を率いてオルレアンに進撃し、イギリス軍を追い出した。そしてパティで第2の勝利、トロイで第3の勝利を得て、1429年7月17日、皇太子をシャルル7世として王位 につかせた。1430年5月24日、ブルゴーニュの軍隊がコンビエーニュの近くでジャンヌを捕えてイギリス軍に売り涯した。魔術と異端の罪名のもとにジャンヌは、ルーアンの市場で燃えさかる炎の中で、「イエズス、マリア」のみ名を呼びながら息絶えた。

5月31日
ペトロニラおとめ

 ローマのドミティラの墓地に、ペトロニラが殺されるところを描いた4世紀頃の壁画が保存されている。彼女はフラクスという貴族と結婚することを拒絶して、イエズスに自分を奉献したのであった。ペトロニラは聖ペトロの娘であったという伝説があるが、これは彼女の名前から出て来たものらしく、ほとんどの学者は否定している。しかし、3世紀の中頃ペトロニラという若い女性がキリスト教の信仰をかたく守ったために殉教したことは事実である。


5月31日
カンチオ、カンチアノ、カンチアネラ

 カンチオ、カンチアノという2人の兄弟と、その妹のカンチアネラは、ローマ貴族のアニチイ家で生まれたが、両親が亡くなった後、プロトウスというキリスト信者がこの3人の世話を引き受けた。
 プロトウスは3人をキリスト信者として教育した。ディオクレチアヌス皇帝の時に迫害が始まったので、プロトウスは3人の孤児を連れて逃げることに決めて、ローマを出る前に家と財産を売り、旅費の他は全部の金銭を貧しい人々に施した。
 彼らはアクイレアという町まで逃げたが、追跡して来た兵たちに捕えられた。4人はキリスト教を信じ続けるならば死刑になることは知っていたが、誰も異教の神々に供え物をしなかったので、死刑の宣告を受けて、304年5月31日、カンチオとカンチアノとカンチアネラの3人、および彼らの保護者プロトウスは首を切られて殉教した。