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4月2日
エジプトのマリア
430年頃、パレスチナの修道院に53年間住んでいたゾジモという老修道士が、ヨルダン川の近くの規則のもっと厳しい修道院へ移ることに決めて、砂漠を歩いていた時、遠方に白髪の女性が見えた。ゾジモが近づ
いて行くと、老婆は後ずさりして、「私は、何も着ていませんから、あなたの上着を私に投げて、着させてください」と叫んだ。ゾジモが言われたとおりにすると、彼女は自分の経歴を話し始めた。
彼女は、エジプトで生まれて、名前はマリアといった。12歳の時アレキサンドリアに行き、売春婦として17年過ごしてから、ある時エルサレムヘ行く巡礼団に加わったが、信仰心からではなく好奇心からであった。ところがエルサレムに着いて、聖母マリアの絵の前に来た時、彼女はにわかに自分の罪深さを悟ったという。
そこでマリアはすぐにヨルダン川を渡って荒野に入り、49年間誰にも会わずに暮らした。この長い年月の問、マリアは日照りと寒気で苦しみ、もとの罪深い生活に戻ろうという強い誘惑に悩まされた。しかし常
に聖母に祈って誘惑に打ち勝つカを得ることができた。
マリアはゾジモに、自分が死ぬまで誰にもこういうことを話さないように約束させた。ゾジモは復活祭の前、聖木曜日に同じ場所で聖体を授けると約束して、その日が来た時、聖体の他にいちじくとなつめやしの実と豆を持って来た。しかしマリアは聖体を拝領した後、3つの豆しか受け取らなかった。彼女はゾジモに感謝して翌年また来るように頼んだ。
ゾジモが翌年来た時、いくら待ってもマリアの姿が現われなかったので、不安にかられてあたりを見回すと、マリアの死体を発見した。ゾジモは自分の上着をとり戻し、マリアをていねいに葬った。砂の上にマリアは、「罪人のマリアの体をここに埋めてください」と書いていた。ゾジモは、取り戻した上着を生涯大切に保存した。
4月3日
シクスト1世教皇
アレキサンドロ1世教皇の死後、トラヤヌス皇帝がローマ帝国を支配したが、教皇の後継者になる者は殉教するであろうということは、ほとんど確実なことであった。というのは、当時キリスト教信者たちは残酷な迫害を受けていたからである。シクスト1世はこれを知りながら教皇となり、最後にローマの支配者たちによって殺されるまで10年間その位に在った。
シクスト1世は、偉大な勇気を示した教皇であると同時に、教会の典礼に大きな関心を持っていた。ミサ聖祭において司祭が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ、天のいと高き所にホザンナ」と唱える時、教会の中の全信徒が共に唱えるべきであると主張したのはこの教皇である。
シクスト1世は、127年に殉教した。
4月3日
チチェスターのリチヤード司教
リチヤードは、1197年イギリスの質しい家で生まれた。パリに勉強に行った時も、同宿の3人の学生たちが1枚の上着と外套を共有していたので、2人が講義に出た時は、必ず1人が家に残っていた。
リチヤードは、後にオックスフォード大学の総長となり、次いで、カンタベリー大司教の秘書局長となった。1244年、チチェスターの大司教に任命されたが、時の王ヘンリー3世は、教皇のこの任命を承認せず、
チチェスター司教区の財産を没収した。しかし、最終的には、リチヤードは司教座の財産を所有することを許された。それでもリチヤードは、若い時の貧しさと、その当時の経験から、富に対する執着は持ったことがなかった。火事などで自分の財産が損なわれても、「悲しんではいけない。これは神の教えだ。私たちが貧しい人々に十分施していないことを教えてくださるのだから、もっと施しをしよう」と言った。
彼は、1253年に帰天した。
4月4日
セビリアのイシドロ司教
セビリアのイシドロは、その時代の最もすぐれた学者のひとりであったが、少年時代は勉強が大嫌いであった。彼は兄のレアンドロ司教によって教育され、猛烈な勉学の末、司祭となり、後に兄のあとを継いでセビリアの司教になった。イシドロ司教が最も力を尽くしたことは学校教育で、スペインじゅうに種々の学校を設立した。彼は、学生たちは法律、医学、ヘブライ語、ギリシャ語を、古典と共に学ぶべきだと考えていたので、7世紀のヨーロッパで知られていたすべての知識を集めた百科事典20巻を、自ら書いた。そのため何世紀もの間、イシドロは「中世紀ヨーロッパの教師」と呼ばれていた。
イシドロはまた、スペイン系ゴート人の改宗を熱望して、彼らのために教会で使用するミサ典書などを書き直し、司教として37年在任中、人々の回心のために、説教し続けた。彼の著作は、天地創造の時から彼の時代までの主なできごとの歴史のあらましと、聖書に記されている偉大な男性と女性の物語、ゴート人の歴史、修道院の新しい規則、天文学の本などを含んでいる。
イシドロは質しい人々に施すことを愛したので、彼の住居には物乞いや近隣の国々から来た貫しい人々が群がって、なかなか中に入ることができなかった。
4月5日
ヴィンセンチオ・フェレル司祭
1350年スペインで生まれたヴィンセンチオの父はスペイン人であったが、母はイギリス人であった。18歳の時、ドミニコ会の修道院に入って司祭に叙階され、すぐれた説教で人々に神の愛を伝え始めた。その時代は教会にとって困難な時期で、長年の間、2人の聖職者が教皇と名乗って対立していた。そのひとりはヴィンセンチオの友人ペトロ・デ・ルナで、1394年にアヴィニョンに前代の対立教皇が建てた宮殿で教皇庁を設立し、自らベネディクト13世と称した。多年の間ヴィンセンチオはペトロと友情を保ったが、後にペトロの主張は偽りであると疑うようになった。ヴィンセンチオの嘆願にもかかわらず、対立教皇は辞職を拒絶した。しかたなくヴィンセンチオはカステイーリアのフェルディナンド王に頼んで、対立教皇の偽りの主張を拒絶するようにした。その結果、ベネディクト13世は退位した。
その前に、ペトロ・デ・ルナはヴィンセンチオを枢機卿に任命しようとしたが、彼は拒んだ。しかし、対立教皇の聴罪司祭としての務めは続けた。
1398年ヴィンセンチオはペトロの許を去って、説教師になることを決意した。これは聖ドミニコとアシジの聖フランシスコの模範に心を惹かれたからであり、その時からフランス中を巡って多数の人々に説教した。当時、紀元400年に世界の終末が来ると信じていた者が多かったので、ヴィンセンチオの最後の審判についての説教を皆非常に恐ろしく感じた。中には恐怖のあまり失神する者もあり、また涙を流して回心し、新しい生活を始める者もたくさんいた。彼の行く所には数千人もの人々がついてきたので、協力者のグループが彼の宣教の仕事を続けるようにした。その後ヴィンセンチオは、スイスとイタリアヘ行って多くの人々をキリスト信者にしたうえ、イギリスとオランダヘも出かけて説教した。スペインのグラナダでは8,000人のムーア人を改宗させたと言われている。
4月6日
エスキルのウイリアム修道士
ウイリアムは、1125年頃パリで生まれた。パリのサン・ジェネヴィエーヴ・ド・モン教会の参事会員として功績をあげ、後にデンマークのロスキルドの司教の依頼で、エスキロにある修道院の院長となった。
デンマークでは、彼がフランスで経験したことがおおいに役立った。ウイリアムは、パリのサン・ジェルメン・デ・プレの修道士たちによって教育されてから教会の参事会員となったのであるが、その当時の参事会員たちは不規則な生活を送っていて、ウイリアムの規則正しさを度々あざけり、非常に憎んだので、ウイリアムは辞職してパリから出ることになった。しかし幸いなことにエウジェニオ2世教皇がパリを訪問して、サン・ジェネヴィエーヴ・ド・モンの参事会員の不規律さを認め、もっと熱心な人々と交代させた時、ウイリアムは彼らの副会長となった。
このような過去の試練によって、ウイリアムはエスキロ修道院を刷新する最適な人物となっていった。ウイリアムは、まず2人の修道士を追い出し、残りの者を回心させるために努力した。彼の敵は、権力のある君主に上訴して、ウイリアムの熱意をくじこうとしたが、不成功に終った。
4月7日
ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭
近代教育の先駆者と呼ばれるヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サールは、1651年フランスのランスで生まれ、10歳で司祭を志して勉強を始め27歳の時叙階された。彼は貧しい少年たちの教育に身をささげることを
決心して、司教座聖堂参事会員の地位と自分の家族の遺産を放棄し、献身的な教師12人を選んで従順の誓願を立て、1684年、青少年の教育を目的とするキリスト教学校修士会(ラ・サール会)を創立した。会員は
ごく質素な衣食住に甘んじ、ほとんど無料で青少年の教育にあたったが、新しい教授法をとった結果、学校は非常によい評判をかち得て、各地から設立を要請された。
当時行なわれていたラテン語の読み書きを教える代わりに、まず母国語を教えることを実行した。しかし多くの人々はヨハネを誤解し、貧しい人々になぜ手仕事を教えず、学問をさせるのかと非難した。
1702年、彼の敵は彼を追い出そうとさえしたが、成功しなかった。イギリスのジェームス2世が退位させられた時、いっしょにフランスヘ逃げて来た人々の子供たちをヨハネは教育し、デイジョンには非行少年のための学校を設立した。今日、ラ・サール会の17,000人以上の会員が世界各国で教育事業に従事している。
4月8日
ペルペトゥオ司教
ペルペトゥオは、5世紀の中頃、フランスのトウール市の司教になった。彼は貧しい人々を後継者として自分の財産であった牧場や森、ぶどう園、家屋、庭園、水車、金や銀、そして衣服まで、彼らに施すことを生前から遺言していた。
彼が尊敬していた聖人は聖マルティノであった。マルティノは軍人で、マントを切り裂いて半分を貧者に与えた聖人である。その墓はトウールの大聖堂の中にあったが、ペルペトゥオはこの建物を再建して、多数の巡礼者たちが宿泊できるようにした。
ペルペトゥオは教区民に、教会の祝日を除く毎水曜日と毎金曜日に大斉を守るよう布告を出し、なお、年間の月曜日にも数度、大斉日を定めた。彼の影響は非常に大きかったので、その死後13世紀たってから、聖人の遺言書だと言って、次のような偽りの文書を作った者がいた。
「わが愛する兄弟、私の冠、私の喜びであるキリストの貧しい者たち、病人とやもめ、孤児たちよ。私はあなたたちを私のあと継ぎとして宣言します」。この遺言書はにせ物であったとはいえ、聖ペルペトゥオの精神がにじみ出ている文書である。
4月9日
ワルトルーディス
モンス(ベルギー)の守護者聖ワルトルーディスの家族は非常に聖なる家族で、彼女の両親も列聖され、彼女の3人の子供たちと夫も聖人の位にあげられた。
夫は貴族でダゴベルト王の廷臣であったが、子供たちが成長し、独立すると、妻と共に修道生活をすることを望んで、自分の創立した修道院に引きこもり、ワルトルーディスも、その近くに小さな家を建ててそこに住み、自分の持っていた財産は全部貧しい人々に施した。
ワルトルーディスは孤独の生活を愛したが、彼女の優れた知恵と信心を知る多くの人々が勧告を求めて彼女のもとに集まって来たので、必要性を感じ、シャトーリュという所に修道院を建てて聖母マリアにささげた。現在のモンスという町はそこを中心としてでき上がった町である。
ワルトルーディスが帰天したのは688年であったが、彼女はその愛徳のためばかりでなく、病気をいやす奇跡的な力を持っているということで有名になっていた。
4月10日
シャルトルのフルベルト司教
フルベルトは10世紀の中頃にイタリアの貧しい家庭で生まれた。しかし学生の頃見込まれた彼はランスに送られて勉強し、有名な哲学者で数学者のゲルベルト(後の教皇シルヴェストロ2世)の愛弟子となっていっしょにローマヘ行った。ゲルベルトの死後、シャルトルのオド司教はフルベルトを司教座聖堂の秘書局長に任命した。
フルベルトの精力と賢明さによって、シヤルトルはフランス中で最もすぐれた学問の中心地となり、ヨーロッパ各地から研学のために多くの学者が集まって来た。やがてフルベルトはそこの司教に任命されたが、
極めて謙遜な彼は自らを「非常に大きな教会の非常に小さな司教」と呼んだ。彼が叙階されてまもなくカテドラルが焼失してしまったが、フルベルトはそれを立派に再建し、今日に至るまでロマネスクの尖塔がそびえて見える。他の大部分は後世に再築されたものである。
フルベルトの学生たちは彼を敬愛した。彼の死後まもなく、1029年リエージュから来ていたアデルマンという学生(後のプレシアの司教)が次のように書いている。「なんという霊的解釈のすばらしさ、なんとい
う文学的センス、なんという優しい言葉で、フルベルト司教は哲学の深い秘密を解釈されたことでしょうか」。
4月11日
グスラク修道者
グスラクは若い時、イギリスのメルシア王エセルレッドの兵士として戦ったことがあった。24歳の時、彼は、世俗の生活を棄ててレプトンの修道院へ入った。そこには男子と女子の修道者がいて、エルフリダという修道女が院長であった。グスラクは、厳しい苦行をして、ぶどう酒や他の飲み物を拒絶したので、仲間の修道士たちから嫌われた。彼にとって、ここの生活はあまりにも安易すぎたので、2年後に、彼はウェランド川の川床にじめじめした場所を見つけて、昔の砂漠の聖人たちのような厳しい生活をすることになった。
グスラクが受けた誘惑も、砂漠の聖人たちと同じように激しいものであった。荒くれた男たちが森の中から出て来て、彼を打ちのめしたこともあった。また、野がらすさえも彼の所持品を盗んでいってしまった。しかし忍耐しているうちに、動物や鳥などとも友達のように親しくなった。
ある日、ウイルフリドという聖人が訪ねて来て、2羽のつばめがグスラクの肩に止まってから、彼のまわりを飛びまわるのを見て驚いた。その時グスラクは言った。「人間から離れて暮らすことを選ぶ人たちは、野生の動物の友だちとなり、天使たちも訪ねて来ます。人が年中訪ねて来る人たちの所には、めったに天使たちは来ません」。
彼は714年に帰天した。
4月12日
ヴェロナのゼーノ司教
ゼーノはアフリカで生まれたが、362年にイタリアのヴェロナの司教になった。アデイジェ川で魚釣りをするのが好きだったので、今日、彼のシンボルは魚である。常に清貧の生活を選び、・貧しい人々のために尽くしたために、ヴェロナの信者たちは、その模範に従って貧民に家を開放した。
その頃、ゴート族が侵入して来て信者たちを捕虜にしたが、ゼーノ司教は、彼らを買い戻したり、貧しくなった人々を極力助けるように信者たちに勧めた。
ゼーノ司教はすぐれた説教者で、93の説教が今でも残っているが、それはラテン語の説教の最も古い集成である。彼は修道女たちのために修道院を建てて、度々そこで説教した。彼が教会で説教する度に、非常に多数の人々が集まったので、もっと大きな教会を建てねばならなくなった。
聖人の遺体は今日、イタリアの最も美しいロマネスクの教会のひとつ、ヴェロナのサン・ゼーノ・マジョーレ教会に安置されているが、大きな西のドアの近くに、悪魔を踏みつけているゼーノ司教の彫像が見られる。
4月13日
マルティノ1世教皇殉教者
マルティノ1世教皇は殉教の苦しみを受けた最後の教皇であった。彼はイタリアのウンブリアで生まれ、聖職者として早くから重要な職務について、教皇テオドロ1世の大使としてコンスタンティノープルに赴任した。
その頃、多数のキリスト信者たちが、キリストは神であるから、人間としての意志は持たないという異説を主張していた。649年に教皇に選任されたマルティノは、ラテラノ公会議を召集してこの説を排斥した。これは勇気のある行動であった。なぜならこの異説は東ローマ皇帝コンスタンティヌス2世が支持していたからである。皇帝は激怒して、病気の教皇をコンスタンティノープルヘ強制的に送って、3か月間、牢獄に入れた。その後、法廷で死刑の宣告を下した。
コンスタンティノープルの総大司教は瀕死の状態であったが、マルティノのために嘆願して、追放の刑に変えさせ、教皇はクリミア半島のケルソンに追放された。病気に苦しめられながらマルティノ教皇は多くの辱しめを忍んで656年に獄死をとげた。
4月14日
ティブルチオとヴァレリアノ
聖女セシリアの伝説によると、彼女が自分の意志ではなく、両親の決定に従ってヴアレリアノのいいなずけになった時、彼はまだ若い異教徒であった。セシリアは神に自分を全く奉献するため結婚生活はしない決心をしていた。結婚式の当日、セシリアがヴァレリアノにこのことを力強く話したので、彼は感動してキリスト信者となり、早速、自分の弟ティブルチオを改宗させてキリスト信者にした。
2人は心を合わせて教会のために働き始め、特に殉教者たちの遺骨を集めて葬式を行なったが、これは極めて危険なことであった。
にもかかわらず熱心に奉仕していた時、ついに2人とも捕えられて、異教の神々にいけにえをささげるように命じられた。しかし、彼らは拒否したため、ローマ市外に連れ出されて打ちたたかれ、最後に首をはねられて殉教した。
4月14日
カラドク
カラドクは、イギリスの南部ウエールズの宮廷で竪琴を弾く楽人として仕えていた。同時に王子の猟犬の世話をしていたが、ある日、彼の過失ではなかったが、1匹逃げてしまった。すると王子はおおいに怒って、カラドクの手足を切断すると脅した。彼はその時、言った。「もし、殿下が私の長い間の辛い奉仕をそのように軽く見られるのならば、私は、小さな奉仕に対して豊かに報いてくださって、猟犬よりも人間を大切にしてくださる王子さまに仕えます」と。
カラドクはすぐにランドフの司教の所に行って修道土となった。セント・ティロの修道院でしばらく過ごしてから、隠修士として淋しい所に住んだ。彼は、なお動物を愛して、どんな野獣でも手なずけることができた。しかし人間からは苦しめられることが多く、ある時はノルウェーの海賊に連れて行かれたこともあり、家畜を盗まれたこともあったが、絶望したことはなく、1124年に平和のうちに帰天した。
4月15日
バジリッサとアナスタジア
ローマに住んでいたこの2人の女性は、 聖ペトロと聖パウロの教えを受けてキリス ト信者になった。2人の使徒が殉教した時、 バジリッサとアナスタジアは、彼らの遺体 をひそかに発見して、キリスト教の儀式で 葬った。
ローマの役人たちはこれを知って、おお いに怒り、2人を捕えて牢獄に入れ、ネロ 皇帝の法廷につき出した。バジリッサもア ナスタジアも信仰を棄てなかったので、環 酷な責苦を安けて、最後に首を切られて殉教した。
4月15日
パテルノ
パテルノは、ブリタニーの信心深い家庭 で生まれた。父の名はパトランと言って、 ある日、自分の妻グェンの許可を得て、ア イルランドヘ行って隠修士となった。グェ ンは息子を善良で敬虔な信者に育て上げた。
パテルノは父のことを忘れず、成人した 時、自分も隠修士になるため、船に乗って ウェールズに行った。そこで彼は、ウェー ルズの偉大な聖人たちに出会って謙遜に教 えを願った。ある日、聖サムソンがパテル ノを呼んだ。その時、彼は片方の長靴をは いたところだったが、もうひとつの長靴を はくとおそくなると思って、はかずにその まま急いで呼び出しに答えた。
パテルノの召命は孤独の生活ではなく、 大きな修道院を創立することであった。彼 はカーディガンシヤで、ある場所を選んだ が、それは後に「偉大なパテルノの教会」 として知られた。120人以上の修道士が集 まって修道生活を送った。
パテルノは、その地方の異教徒の王たち を改宗させようとして、絶え間なく説教を 続けた。ある日、メルダンという悪王が、 パテルノが王の宝物をたくさん盗んだと訴 えた時、彼は自分の手を熱場の中に入れ、 そのまま何のやけどもせずに取り出して、 無罪を証明したと伝えられている。
4月16日
ベルナデッタ
マリア・ベルナデッタ・スビルーは1844 年フランスのルルドの貧しい家で生まれた。 父親は貧しい製粉業で、ベルナデッタを学校に入れることはできなかった。
1858年2月11日、ベルナデッタがガブ川の岸でたきぎを拾っていた時、聖母マリ アが出現された。彼女は聖母が出現された 洞窟を人々に示したが、多くの人々は信じ なかった。しかし、2月14日から3月4日 までベルナデッタは毎日聖母を見て、話を した。そのうちに、彼女の報告と、湧き出 した泉にひかれて群衆が集まって来た。3 月25日、マリアは出現の場所に聖堂を建て るようにとベルナデッタに命じられた。今 日、ルルドは世界で有名な巡礼地となり、 泉の水が病気を治すという奇跡がたまにみ られる。
ベルナデッタはカルメル会に入りたいと 望んだが、病身、特にぜん息のために果 た すことができなかった。1866年に、ヌヴェ ール愛徳およびキリスト教的教育修道会に 入った。1876年ルルドで大聖堂が祝別され た時も、彼女はルルドに帰らなかった。
ベルナデッタが帰天したのは1879年で 遺体はヌヴェールに安置されている。
4月17日
アンセト教皇殉教者
アニセトは、アントニウス・ピウス皇帝 の治世の終り頃に教皇に選出された。その 頃、イユズスの人間としての生涯は全く真 実なものではないという異説を主張する 人々が出て来た。また、キリスト教のユダ ヤ的背景も危険だから、全部取り除くべき であると彼らは言った。これに対して、ア ニセト教皇は全力を厚くして戦った。
アニセト教皇の治世の間に起きたもうひ とつの争いは、復活の大祝日の正しい日付 を定めるにあたってキリスト信者たちが起 こしたものであった。教皇はこのような問 題の解決をすることができず、心を悩ませ ながら、166年に帰天した。
殉教したという説もある。
4月17日
ステフアノ・ハーディング
ステフアノ・ハーディングはイギリスの ドーセットで生まれ、シャーボン修道院で 教育された。スコットランドとパリとロー マを訪れた後、ブルガンディのモレスムで 隠修士たちの仲間に入った。リーダーは聖 ロベルトと聖アルベリックであったが、こ の3人はモレスムを去って、もっと厳しい 修道院を設けるためにシトーに行った。20人の修道土が来て、ロベルトが大修道 院長になった。アルベリッタは院長、ステ フアノは副院長に任命されたが、後にロベ ルトがモレスムに帰った時、ステフアノが 院長、アルベリッタが大修道院長の地位 に ついた。1109年にアルベリックが亡くなっ た時、ステフアノが代わりとなって、1133 年までシトーの大修道院長として任務を果たし、翌年亡くなった。
ステフアノの極端に厳しい生活は、シト ー会の修道生活の基礎として自ら著わした 「愛徳憲章」の中によく記されている。し ばらくの間、彼の厳しさは多くの人々を反 抗させるように見えたが、クレルヴォーの 聖ベルナルドが来たことでシトー会の修道 生活は盛んになり、12世紀の末までに500 以上のシトー会修道院が創立された。
4月18日
アポロニオ殉教者
殉教者アポロニオが、ローマの役人たち の前に引き出された時、「私は、自分の命を 愛していますが、死も恐れません。もっとよいものが私を待っています。この地上で よい生活をした者には、永遠の生命が与えられるのです」と言った。これは185年の ことで、アポロニオを裁判にかけたのはロ ーマの総督ベレニスであった。
アポロニオは、元老院議長で、学者であ った。初めは、異教の哲学を学んだが、後 に旧約聖書とキリスト教の著作を読んで、 その影響を受けてキリスト信者となった。 彼の奴れいのひとりが彼をキリスト信者と して訴えたので総督の前に出され、もし棄教しなければ死刑にするとおどかされた。
アポロニオは、「誰でも死ななければなら ないが、ただ普通 の病気で死ぬよりは真の 信仰と真の神のために死ぬほうがずっと勝っている」と説いた。そして、キリスト教 の教義について道理のある説明もつけ加えて、全法廷の人々に話し、最後まで自分の 信仰を堅く守ったので、彼はまず足を折られ、次に首をはねられて殉教した。
4月19日
レオ9世教皇
レオ9世教皇は、聖人としての生活と軍 の司令官としての生活を統合して生きた人 であった。1002年に、フランスのアルサス で生まれ、コンラド2世皇帝がイタリアに 侵入した時は、助祭であった。聖職者ではあったが、軍隊に入って勇ましく戦った。
20年間、レオはトゥールの司教を務め、 規律のゆるんだ司祭たちを厳しく取り締ま り、修道院に正しい秩序をもたらした。彼 が教皇に選ばれたのは1048年であった。そ れまで、トゥール司教区の小さな範囲で行 なったことを、今や全教会にわたって実行 しようと思い立ち、改革するために西ヨー ロッパ中を旅し続けたので、巡礼の教皇と して知られるようになった。行く先々で、 教皇は司教と司祭たちを集めて会議を開き、 自分の指導に従わせた。
レオ9世は、教皇庁の財政を堅固にする ために、南イタリアのある部分を領地に加 えようとしたが、これは失敗であった。ノルマン人たちがこの新しい領土に侵入して きた時、軍人教皇は自ら軍隊を軍いて彼らを防いだ。この行動は聖ペトロ・ダミアノ にさえも批判された。不幸なことにノルマ ン人たちが勝って、レオ教皇をチビテラで 捕えてヴェネベントの牢獄に入れた。教皇 を捕えた人々は、教皇の忠実な臣下だと言ってはいたが、数か月間教皇を釈放しなかった。
教皇は牢獄の中でギリシャ語を学び始め、 その頃、ローマから分離した東方教会の教 義をよりよく理解しようと試みた。しかし、 教皇の健康は衰え始めていた。
釈放された時、教皇はローマの聖ペトロ 大聖堂の中に台を用意させて死去した。そ れは1054年であった。
4月20日
モンテプルチアノのアグネス
アグネスは、1268年頃イタリアのトスカーナで生まれた。わずか9歳の時、アグネスは近くのモンテプルチアノの修道院に入ることを両親に頼んで、望みをとげた。数年後に新しい修道院がプロセナに開かれた時、そこの修道女たちはモンテプルチアノの修道院から誰か院長になる修道女を送るように依頼した。院長として赴任することに決まった修道女は、アグネスを自分の助 け手として連れていくことを条件とした。 アグネスが新修道院にいることが知れると多数の志願者が集まって来た。そして15歳の時、院長に選ばれたが、これは教皇の特 別な許可によるものであった。
聖女の苦行は非常に厳しくて、15年間パンと水で生き、石を枕として床の上に寝ていた。まぼろしの中で、天使たちが彼女に 聖体を授け、また、まぼろしの中で自分の腕に幼いイエズスを抱いたこともあると伝えられている。
モンテプルチアノの修道女たちが新しい修道院を創立した時、アグネスが院長となった。その修道院と共にアグネスの名も有名になった。自分の死期が近づいた時、そばで泣き悲しんでいる修道女たちにアグネスは言った。「私があなたがたをおき去りにしなかったことを皆さんは今にわかるでしょう。あなたがたは、私を永久に所有するのです。
4月21日
アンセルモ司教教会博士
イタリアのロンバルディアの地主の息子であったアンセルモは、15歳の時、ベネデイクト会に入りたいと望んだが、父が反対したため家にいて、世間的な快楽を追い、気ままな生活を送っていた。しかし、1059年ノルマンディのベッタで、イタリア人ランフランクが経営していた学校に入って勉強し、26蔵でベネディクト会の修道士として誓願を立てた。彼が、ランフランクのあとを継いで修道院長になった時、修道士たちはこの若者が長上になったことを嫌ったが、アンセルモは温和な態度の中にも厳しさを保って、徐々に信用を得るようになった。イギリスのカンタベリーの大司教に任命されたランフランクが1070年に死去し、アンセルモは後継者となるように依頼され、承諾したが、長い間赴任できなかった。それは、イギリス国王が教会の権利に不合理に干渉していたからであった。
アンセルモは、中世カトリック神学の基盤となったスコラ哲学を基碇づけ、大きな功績を残した。彼の有名な著書「なぜ神は人となりたもうたか?」は受肉について論じた。もし神が単に人間の罪を赦すだけならば、そのあわれみは正義と衝突したであろう。あわれみと正義を一致させるために、人間の不従順に勝る大きな犠牲(供えもの)が必要であった。これは人間がするべきもので、ただ神だけができる供えものであった。それゆえ人となられた神のみがそれをなさることができて、イエズスは十字架上で自らを犠牲にされたと論じた。1120年、教皇クレメンス11世は、アンセルモに教会博士の称号を贈った。
4月22日
ソテル教皇殉教者
2世紀の中頃、アニセト教皇の死後、そのあとを継いで教皇に選出されたのがソテルであった。ソテルの愛徳、特に信仰のために迫害されていた人々に対する親切な配慮は広く知られていた。
しかし、ソテル教皇はまちがったことを説く者には厳しい態度を示した。その頃、モンタニスト(キリストがわが身に宿ると唱え、異端としてしりぞけられた一派)といわれていた多くのキリスト信者たちが、まもなく天のエルサレムがフリジアの町、ペプザの近くに降下してくると言いふらしていた。モンタニストたちは、他のキリスト信者たちが不熱心なので十分に断食しないと非難して、配偶者が亡くなっても再婿するべきではないとか、彼らが十分に預言しないのは聖霊の賜物に欠けているからだとも言った。
モンタニストの運動は教会を分裂させ、信者たちは相互いに激しく争った。ソテル教皇は彼らの誤りを示す回勅を出し、リーダーたちを破門した。彼が殉教したのは、174年であった。
4月23日
ジョルジオ
ジョルジオについて、次のような伝説が伝えられている。ある日、小アジアのカバドキア(現在のトルコ)の騨士がリビアを通ってシレネという町に来た時、培地に恐ろしい竜が1匹いて、市民たちを恐怖におとし入れていた。町中の羊はこの怪物に食べられてしまったので、今度は人間の体を食物として与えねばならなかった。くじを引いたところ、当たったのは王女で、ジョルジオが通りかかった時に、犠牲になるところであった。
ジョルジオは、もし全市民がイエズスを神と認めて洗礼を受けるならば、竜を殺してやると約束した。市民たちは早速同意したので、聖人は自分の槍で竜をつき刺して殺した。竜の死骸を運ぶのに牛車が4台必要であった。その時15,000人以上の人々が洗礼を受けた。
聖ジョルジオの名にまつわる伝説があまりにも不可思議なので、ある懐疑者たちの中には、彼は存在しなかったと言う者さえいる。彼は3世紀の終りと4世紀の初め頃のローマの軍人で、皇帝の護衛兵たちの司令官に昇進したと伝えられている。
ある時、皇帝の前で異教の祭司たちが未来について予言するために動物のはらわたを出していた。蕎衛兵の中のキリスト信者たちは自分の額に十字架の印をしたので、皇帝は非常に怒って、彼らをむちで打たせ、追放するように命じた。そして、布告を出して、キリスト教の司祭たちに異教の神々に供え物をするように命じた。ジョルジオは、宮殿の門にこの布告がはられてあるのを見て、それを破り捨てたので、すぐに捕えられて牢獄に入れられ死刑になった。
この物語さえも大分誇張されている。しかし、ジョルジオが303年頃に殉教したことは確実だということができる。その場所はパレスチナのリダであったと言われている。
4月24日
イヴォ司教
イヴォはペルシャの司教として尊敬を受け、安楽に暮らしていたが、もっと規律正しく厳しい生活を望んで、3人の仲間といつしょにイギリスヘ来た。
彼らはハンティンドンシャの人里離れた淋しい泊地に住んで、そこで亡くなった。そこに泉が湧き出て、多くの奇跡が行なわれたので、彼らの存在は忘れられることはなかった。
4月25日
聖マルコ福音記者
新約聖書のマルコの福音は、実際に4つの福音の中で最初に書かれたものだと多くの学者たちは考えている。もしそうであれば、その著者マルコは特別 にすぐれた頭脳に恵まれた人であったに違いない。彼が最初に福音を書いた人であれば、彼こそ宗教的著作のこのすばらしい形式を発明したといわれるべきである。
古い伝承によると、マルコはイユズス自身の弟子ではなかったが、聖ペトロの代弁者であった。これは、マルコの福音善が他の3つの福音書のどれよりも、この偉大な使徒ペトロの思想を映していることを意味する。
「ペトロの手紙」の中で、筆者が「私の息子マルコ」と語る1節で、この伝承が支持されるのである。
一方、マルコは聖パウロの仲間でもあった。パウロとバルナバはマルコと共に働いたが、しばらくの間、パウロは仲間の宣教師を信用しなくなって、第2の旅に彼がいつしょに来ることを望まなかった。この理由でバルナバはパウロと別 れてマルコと共にキプロス島に行った。しかし、パウロとマルコは再び友人となったに違いない。というのは、パウロがローマで牢獄に入った時、マルコがそばにいて支えたからである。
マルコの福音は、イエズスが御自分に従う人々に対して持たれる要求を明らかに示している。マルコが言うことは、イエズスは苦しまれたから、その弟子たちも同じように苦しむであろうということである。イユズスはこれについて、はっきりと予言された。しかし、このような苦しみを耐え忍ぶことのできる者はまた、おおいに報いられるであろうということも明らかである。なぜならば、マルコは「よい知らせ」をもたらすからである(「福音」という言葉の意味はこれである)。
マルコは、福音書の冒頭に「神の子イエズス・キリストの福音の初め」と記している。
4月26日
アナクトレ教皇
アナクレトは、76年、聖ペトロ、聖リノに続く第3代目の後継者として教皇の位 について、ペトロと同じように殉教者となった。アナクレトはローマを25の小教区に区分し、91年頃、ドミチアヌス皇帝の時、殉教者となった。
4月26日
ペルミのステフアノ司教
ロシアの偉大な宣教師のひとりであったペルミのステフアノは、ウラル山脈の西方に住んでいたジリア人の地方で1345年に生まれ、若い時からこの人たちをキリスト教徒にしたいと熱望していた。宣教師になるために、ロストフの修道院で約20年間準備した後、彼は説教するため出発した。
まもなく、ステフアノが悟ったことは、典礼の言葉をジリア人の言葉に翻訳する必要があるということであった。しかし、当時のジリア人たちはアルファベットさえもなかったので、ステフアノは自分で作って教えた。1383年に、彼はペルミの最初の司教となり、1386年に帰天した。
4月27日
ジタ
召使いの保護者聖女ジタは、イタリアのルッカの近くのトスカーナ市の富裕な家へ12歳の時、召し使いとして送られた。彼女の両親は非常に貧しかったが、彼女に善悪を知るように育て、祈ることを教えた。自分の家は貧しいが、他にもっと貧しい人々がいることもジタはよく知っていた。主人はジタに十分に食べ物を与えたが、彼女はいつも与えられた食物の大部分を物乞いや、ルツカの町の貧しい人々に施していた。
最初、ジタの仲間の召使いたちはジタの信心と親切をあざ笑った。しかし、彼女は少しも気にしなかったので、ついに皆がジタをほめるようになった。それとは反対に、主人はジタがたくさん貧しい人々に与えることを度々怒っていた。
その地方の飢饉の時、ジタは家族のための豆をたくさんひそかに施してしまった。主人が台所の戸棚を調べに来た時、奇跡的に豆はもと通 りの分量になっていた。また、非常に寒いクリスマスの夜、教会へ行った時、主人は自分の外套をジタに貸して、必ず持って帰るようにと言った。しかしジタは、教会の外でみすぼらしいひとりの老人を見て、ほおっておけず、外套を貸し、ミサが終ったら返してくれるよう言い渡して聖堂に入った。ところがミサの後、老人はその外套と共に姿を消してしまった。主人がそれを知って非常に怒っていたところへ、老人が戸口に現われて外套を返した。そこにいた人々は、その老人は確かに天使だったに違いないと言い始めた。それでルツカの聖フレディア教会の入口は、天使の入口と名づけられている。
やがて、ジタは主人の家族に厚く信用されて、主人が激しく怒った時でも彼を静めることができた。ジタには自由時間が与えられたので、彼女は病人の世話をしたり、牢獄の囚人たちを見舞いに行ったりした。最後の病気の時には、主人の家族はぜいたくな食物を与えようとしたが、ジタはそれを断り、1278年4月27日に60歳で帰天した。
4月28日
ヴィタリス殉教者
ヴィタリスという聖人は2世紀に2人いたが、今日記念されるのはミラノに住んでいた金持ちである。彼は結婚して子供が2人あった。
ある時、彼と同じようにキリスト教徒であった友人が死刑にされた時、ヴィタリスは傍らに立って息をひきとる最後まで信仰を棄てないようにと励ました。これを見た役人たちは非常に怒ってヴィタリスを捕えて、拷問台の上に横たえ、次に生きたまま地中に埋めた。
ヴィタリスの妻も意地の悪い異教徒に責められ、傷つけられて殉教した。これはマルクス・アウレリウス皇帝の治世に、ミラノで起きた事であった。
4月28日
ペトロ・シャネル殉教者
ペトロ・シャネルは、1803年フランスのべリーで農夫の息子として生まれた。司祭になりたいと望んでいたが、勉強を始めるまで羊伺いをしていた。
叙階されたのは27歳の時で、その後10年間田舎の教会で働いてから、1831年にマリスト会という宣教会に入会した。この会は1822年リヨンで創立された会で、ペトロは入会すると数年間、ヘブリデズのフトウナ島に送られた。
ここで、ペトロは島の支配者に初めのうちは信用されたが、彼の息子に洗礼を授けたことが発見されるやいなや、非常に憎まれるようになり、ついに捕えられて、こん棒で打たれて殉教した。
時に1841年であった。
4月29日
シエナのカタリナ
シエナのカタリナは、度々イエズスのまぼろしを見たり、神秘的な恍惚状態を経験したが、同時に、彼女は全く現実的な女性でもあった。カタリナの生まれた14世紀のイタリアは、教皇党と反教皇党との対立による果 てしない内乱、ペストの流行、教皇のローマから南フランスのアヴィニョンヘの70年間の流詞などで最大の難局に直面 していた。こうした混乱の中で、神に選ばれて教会のために厚くした者は、世の中の知恵者でもなく、強い者でもない、ひとりのか弱い女性カタリナであった。
カタリナは1347年シエナの染物屋の娘として生まれ、18歳の時ドミニコ会の第三会員となり、家事を手伝いながら暇を見ては貧者や病人を見舞って、できるだけの捷助をした。しかし彼女は、教会の大きな問題を解決するために神の道具として働き、大きな功績を残した。そのひとつはグレゴリオ11世教皇がカタリナの切実な勧めに従って、ついにアヴィニョンからロ−マヘ帰還したことであった。真の教皇と対立教皇の争いの時には、カタリナはウルバノ6世教皇を支持し、忠実に仕えた。彼女が帰天したのは1380年33歳の時であった。
4月30日
ピオ5世教皇
1565年にピオ4世教皇が亡くなった時、最適任者としてそのあとを継いで教皇となったのは、アントニオ・ミカエル・ギスリエリで、彼は1556年に司教に任命されるまで、ドミニコ会の学校で哲学と神学を教えていた。
ピオ5世として教皇の座についた時、教皇登位を祝う代わりに、その費用を全部ローマ市内の貧しい人々や、経営困難の修道院に送った。司教や司祭は信者たちから遠く離れて住むべきではないとして、司教区と小教区に住まわせ、ローマ市街における闘牛や動物いじめを禁止し、日曜日を聖日として守るように勧め、月に1度、特別 な法廷を開いて、不正に扱われている者を招いて、その言い分を聞くようにした。
1571年、トルコ軍が東欧のキリスト教国を侵略し、大艦隊を連ねてイタリアヘ向かってきた。ピオ5世はヴェネツイアとスペインの君主と協議して連合軍を組織し、敵を迎え撃つことにした。同年10月レバントの戦いでトルコ軍は撃滅された。ピオ5世は教皇としてわずか6年しか在位 しなかったが、偉大な業蹟を残したのであった。
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