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6月の聖者カレンダー

1.jpg61
ユステイノ殉教者
 
 ユステイノの両親はギリシャの異教徒でサマリアのフラビア・ネアポリスに住んでいた。ユステイノは長い間、哲学の勉強をしていたが、キリスト信者となり、キリストの教えを最高の哲学、最高の道徳としてこれを実践して、信仰は知的の思想と両立できることを示そうと試みた。それでユステイノをキリスト教徒の最初の偉大な哲学者と言うことができるのである。
 キリスト信者たちがローマ皇帝アントニウス・ピウスの迫害で苦しめられていた時、ユステイノも皇帝とその3人の養子たちの前に引き出されて、公に信仰を告白して、その真正なことを説明した。
 ユステイノによれば、世界にあるすべての真理は、ただひとつの源泉から出ている。これはすなわちキリストである。そしてキリストは三位 一体中の第2のペルソナ、つまりロゴス(みことば)であり、また神の英知として永遠から永遠に至るまで万物を主宰したもうのである。そして人間は、その理性において、この英知の要素、いわばひとつの真理の種子を持っているので、真理をわきまえることができる。このようなロゴスの種子を特に多く与えられた者が、ユダヤ人の預言者とか、ソタラテス、プラトンのような哲学者たちである。
 神のみことばを伝えるキリスト教は、永遠の真理そのものであり、すべての哲学や学問の完成である。素直な心で真理を探求する哲学者ならば、いつかキリストに到達するであろう。
 ユステイノは2度ローマに行ったが、彼が公に書いた護教書が役人たちの嫌疑をうけ、同時に、ユステイノと討論して負けた哲学者クレセンスが彼をざん言して訴えたので、ユステイノは165年頃、6人のキリスト信者たちと共に逮捕されて、ローマの総督ルステイクスの前に引き出された。総督は彼らに偶像に供えものをささげるように命じたが、ユステイノは、「正しい心の人間は、誰も偽りのために真理を捨てることはしない」と言って、仲間の信者たちといっしょに首を切られて殉教した。
 

6月2日
エラスモ司教殉教者
 
 一般に聖エルモという名で知られているエラスモ(次ページ左)は、シリア人でイタリアのカンパーニヤのフオルミアの司教であったと伝えられている。キリスト信者たちがディオクレチアヌス皇帝によって迫害されていた時、エラスモはレバノン山に逃げて、毎日からすが持って来た食物で命をつないでいた。しかし、まもなく捕えられてディオクレチアヌス皇帝の前に引き出され、鉛の付いた重いこん棒で打ちたたかれたが、容易に死ななかったので、コールタールの中で転がされ、火をつけられた。それにもかかわらずェラスモは生き続けた。そこで、今度は飢死させるつもりで、牢獄に入れられた。しかし幸いなことに、彼は逃げ出して、イリリクム(ダルマチア)のローマ地区で説教して多数の異教徒をキリスト教に改宗させたために、再び捕えられ て、今度は熱く焼かれた鉄の椅子の上にむりやり座らせるという残酷な刑罰に処せられた。彼がついに殉教したのは303年頃であった。彼の胃が切り開かれて、腸は巻きあげ機に巻かれた。 
 エラスモが水夫たちの守蕎の聖人になったのは、水夫たちが船おおを巻き上げるために同じような道具を使うからであった。時々嵐のあとで青い電光のようなものが現われるが、それは「セント・エルモの火」として知られている。


6月2日
ポティノ司教とその仲間たち
 
 今日記念されるポティノとその仲間は、177年にフランスのリヨンで殉教した聖人たちである。90蔵の司教であったポティノは、マルクス・アウレリウス皇帝の宣告で、47人の信徒と共に死刑に処せられた。司教 は野蛮な暴徒の手で命をうばわれたが、奴れいの少女ブランディナは息が絶えるまで体を苦しめられながら、「私はキリスト信者です」と言い続けていた。48人の殉教者は皆、同じようなひどい責め苦を受けたが、1人として教えを棄てる者はいなかった。
 

6月3日
ウガンダの殉教者
 
 ウガンダのムワンガ王は、自分の侍従兼王室長官としてヨセフ・ムサカ・バリクデンベという若いキリスト信者を任命した。ヨセフは、ムワンガ王が若者たちをみだらな行為に誘うので、王を嫌って、若者たちを保護しようと努めた。その頃、王は外国から来る訪問客たちが自分の悪行をイギリス政府に報告することを非常に恐れていた。1885年10月、王が英国聖公会の宣教師ジェームス・ハニングトン司教を殺すように役人たちに命じたので、ヨセフは、それに対して非常に反対した。翌月、ヨセフは生きながら火あぶりにされて殉教した。死ぬ 前にヨセフは言った。「神のために自分の命をささげるキリスト信者は死を恐れません。ムワンガ王は、理由なしに私を死刑に宣告しました。しかし、私は心から王様をゆるすと伝えてください」。
 6か月後、ムワンガ王はますます残酷になり、14歳の小姓がカトリックの教理を習っていることを見つけた時、教えていたデニス・セブグワゴを肉切り包丁で殺してしまった。次に、王は宮殿の近くに住んでいた全部のカトリックとプロテスタント信者たちを殺すように命じた。その後、小姓の頭をしていた人が自分の息子を含めて5.人の小姓たちに洗礼を授けた。翌日、王は再びキリスト信者たちを激しく怒ったが、誰も棄教する者は居なかったので、32人のカトリックとプロテスタント信者たちは火刑に処せられるためにナムゴンゴという所へ連れて行かれた。数人はその途中で殺されたが、マチア・カレンバという地方裁判官は次のように宣言した。「神は私を救われるのですが、神がどのように救われるのか、あなたがたは見られないでしょう。神は私の魂を連れて行かれ、私の体だけをあなたがたに残されるからです」。 
 彼の体は細かく切られ、死期が長引くようにと、道ばたに捨ておかれた。残りの殉教者たちはナムゴンゴで、葦のむしろに巻かれて横たえられ、生きながら焼き殺された。残りの殉教者たちは、静かに彼らの救い主に祈りながら帰天した。
 

4.jpg6月4日
フランシスコ・カラチオロ司祭
 
 1588年イタリアのジェノアのヨハネ・アウグスチノ・アドルノという司祭が、厳しい生活をしながら司牧に従事する司祭の会を始めたいと望んで、アスカニオ・カラチオロという友人に手紙を送ったが、誤ってフランシスコ・カラチオロに配達された。フランシスコはその手紙を読んで全く共鳴して、神が故意に手紙を彼に送られたに違いないと思い、アドルノに助力を申し出たのであった。その会は「小さき聖職者修道会」と言って、その目的は祈り、聖体の永久礼拝、司牧、説教、博愛の事業などで、教会の改革を促進させることにあった。この会は教皇の望みによりスペインにも設立されたが、アドルノが亡くなった時、フランシスコが最初の総長として任命された。 
 フランシスコは22歳の時に重病にかかって死にかけたが、奇跡的に全快して司祭になる決心をした。司祭叙階後は、すべてを貧しい人々に施し、新しい修道会の会員として一生を神の栄光と人々の救いのために奉献して1608年44歳で帰天した。その最後の言葉は「さあ、天国へ行きましょう」の一語であった。
 

6月5日
ボニフアチオ司教殉教者
 
 ドイツのガイスマーのグデンベルク山の頂上に、大きな樫の木があって、異教徒たちは「雷神トール」の宿る神木として礼拝していた。そこヘボニフアチオが来てその木を切り倒すことを告げたので、多勢の異教徒は、彼が雷神に殺されるのを見ようとして集まった。ボニフアチオが斧を入れるやいなや、樫の木は4つに割れて、大地に倒れてしまった。驚いた異教徒の多くの人々は、それがきっかけでキリスト信者になった。彼は、樫の木で小聖堂を造って聖ペトロにささげた。
 ボニファチオは680年頃、イギリスのクレディトンで生まれ、ウインチェスターの近くの修道院付属の学校で教育を受けた。722年教皇グレゴリオ2世によってドイツの司教として叙階され、目ざましい活動を続けた。チューリンゲンのオードルフに修道院を建てた後、パパリアに移って、宣教修道院を設立した。735年には、最も有名なフルダ修道院が建てられて、ドイツの宗教、学問、芸術などの文化活動の中心地となった。747年教皇はボニフアチオをドイツの大司教に任命し、教皇使節としてゴールヘ送った。754年春、52人の宣教師と共にフリースランドに布教に行って働いたが、活動半ばにして教敵におそわれて殉教した。

6月6日
ノルベルト司教
 
 ノルベルトはドイツの貴族の家に生まれて、若い頃は世俗の楽しみを追い求めて暮らしていたが、ある日、ダマスコヘの途中における聖パウロと同じような経験をした‘聖パウロのようにイエズス・キリストの命令を聞いたのである。「悪事をやめて、よいことをしなさい。平和を探し求めて、それに従いなさい」と。  その瞬間からノルベルトは全く変わった人間になった。彼は修道院に引きこもり、1115年司祭に叙階されたが、彼の厳しい生活は、当時、規律のゆるんだ生活をしていた仲間の司祭たちの反感を買い、1118年フリツラーの教会会議で、許可なしに説教する偽善者として告訴された。 
 ノルベルトはフランスのラングドックのサン・ジルで教皇に会うために雪の中をはだしで歩いて行った。  彼は司教座聖堂参事会員の役職を辞し、持ち物を全部貧しい人々に施し、説教を続ける許可を教皇に願った。教皇ジェラシオ2世はフランス中どこでも説教することを許したので、まもなく彼はその時代の最も有名な説教家となった。1120年、ノルベルトはプレモントレ修道会を創立して、1134年ドイツのマグェブルクで帰天した。
 

7.jpg6月7日
メリアドク司教
 
 メリアドクは、イギリスのコーンウォールと北フランスで特に崇敬されているが、5世紀または6世紀にウェールズに住んでいた人である。彼はコーンウォールでいくつかの教会を建て、そのひとつは後に彼にささげられた。この地方でメリアドクは有名になり、その偉大な業を語る奇跡劇が今でも残っている。それから彼はブリタニーに行ったが、そこでも彼は追憶され、プローガスヌーにある16世紀の教会には彼の頭骸骨の一部と思われる遺物を納めた聖遺物箱がある。ステイバルという所には、彼のベルだと伝えられているものがあって、口の不自由な人や、偏頭痛でl、占む人の頭上に置くと、治されるとのことである。 
 メリアドクは金持ちであったが、隠修士になりたいと望んで自分の金を全部貧しい司祭たちに施し、土地は因っている人々にわけ与えた。彼の聖徳の評判が高くなったので、虚栄心の起こることを恐れたメリアドクは、世間から隠退したいと思って、絹や紫の衣の代わりにぼろをまとい、貧しい食物に甘んじて完全に清貧の生活を送った。 
 彼の親戚たちが、この新しい生活をやめて世間に帰らせようとした時、メリアドクはいっしょに来ていたロハンの貴族に向かって、自分は近所の盗賊たちを追い出す仕事をするほうがよいだろうと言った。彼が言ったことは本当であって、ブリタニーは大きな災害からまぬ がれた。
 メリアドクは、皆に賛成されてヴァンヌの司教に選挙されたが、彼は不本意であった。叙階後も相変わらず断食を続け、貧しい人々に施していた。死期が迫った時、彼は兄弟たちに接吻して次のように言った。「主よ、あなたのおん手の中に私の霊をゆだねます」と。
 

6月8日
ヨークのウイリアム司教
 
 ウイリアムは、イギリスのヨーク大聖堂の参事会員および会計係として功績をあげ、1142年にサースタン大司教の死後、カテドラルの参事会員の大部分によって大司教に選挙された。しかし、この時点でウイリアムの平和な生活は終わりを告げたのだった。ヨーク大司教区のシトー会の修道士たちが、ウイリアムは大司教の職につくために金を支払ったと主張した。また、他の人々は、彼がステフアノ王と親しい関係にあったおかげで選挙されたと言った。このような状況のもとでカンタベリーの大司教は、彼を大司教に叙階することは気が進まなかった。やがて、ウインチェスターの司教で、ステフアノ王の兄であったブロアのヘンリーが彼を叙階して、ヨークの大司教座につかせた。 
 その時、事態はまた悪くなった。というのは、彼に、大司教としての権威を象徴する祭服「バリウム」を送った教皇が、それが到着する直前に亡くなったので、教皇使節はパリウムをローマに持って帰ってしまったのであった。新しい教皇はシトー会員でウイリアムの反対者たちの味方であった。ウイリアムはローマに行って教皇に会ったが、教皇は彼を信頼せずに停職させた。これを聞いた友人たちのグループは、シトー会のファンテン修道院を激しく攻撃して、その農場に放火したので、事情はさらに険悪化した。そこの修道院長はヨーク大司教区でウイリアムの競争相手であった。 
 1147年にランスの会議でウイリアムは退位させられた。ウイリアムはブロアのへンリーのもとへ行き、ウインチェスターで修道士として数年問過ごした。教皇とファンテン修道院の院長が亡くなった後、彼はヨークに帰ることができた。ウイリアムが到着した時、多数の群衆がオース川の橋の上に集まったので、橋がつぶれてしまったが、幸いなことに誰もけがしなかった。これは将来のためのよい兆しでもあった。しかしウイリアムは生涯の終わりに近づいていて、1154年ヨークに帰った1か月後に死去した。
 

9.jpg6月9日
コルンバ司祭
 
 コルンバは、アイルランドのドニゴール州で生まれ、15年間アイルランドで宣教して、デリーとケルスとデュローに有名な修道院を設立した。563年にスコットランドのイオナ島へ航海して1つの修道院を建てたが、それは何世紀もたつうちに有名な所となり、イオナはケルト地方のキリスト教の中心地となった。またイギリスやスコットランド本土にも修道院ができたが、コルンバはその後34年間を宣教の仕事にささげた。597年6月8日、コルンバは詩編を写 していたが、「主を愛する者によいものが欠けることはない」という句のところで筆を止めて、残りは彼の従弟ベーティンが書くべきだと言った。その翌日、コルンバは帰天した。
 

6月10日
パリのランドリー司教
 
 650年にパリの司教に任命されたランドリーは、パリ市内にたくさんの貧しい病人たちがいて、病気の治療はおろか、入院するための病院すら十分でないのをみて、このような人々を世話するための病院が必要であることを認め、カテドラルの傍らに大きな病院を建てて、聖クリストフォロにささげた。  病院の需要は非常に大きく、どのベッドも病人や臨終の人、または死んだ人で占められるようになった。病院の名は後に、オテル・ディュ(Hotel-Dieu)という名に変えられ、今日でもノートル・ダム大聖堂の北にランドリーの創立した病院の近代的建物を見ることができる。
 

11.jpg6月11日
バルナバ使徒
 
 使徒行録はバルナバを「聖霊と信仰に満たされた善人」と書いている。バルナバの両親は彼をヨセフと呼んでいたが、彼が自分の全財産を売って、その金をエルサレムの使徒たちに与えた時、使徒たちは「慰めの息子」という意味のバルナバという名を彼に与えた。
 教会のかつての迫害者パウロがエルサレムに来た時、バルナバは信者たちに勧めてパウロを暖かく受け入れさせた。それから、バルナバは甥のヨハネ・マルコを助手として、パウロと共にキリスト教会の最初の宣教旅行に旅立った。3人はまずキプロス島に上陸したので、バルナバはキプロス教会の創立者として尊敬されている。
 バルナバは、かなりの決断力と勇気のある人物であった。彼がパウロと共に小アジアのリストラで説教した時には、2人は異教の神々と思われたこともあった。ある時、パウロは、ヨハネ・マルコと意見が合わなかった。バルナバは、パウロの非常に強い性格をも恐れずに、マルコに味方したのだった。「そこで、意見が激しく衝突し、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、パウロは新しい味方のシラスを連れて、教会を強めるために出かけた」(使徒行録15:39-40参照)。
 

12.jpg 6月12日
レオ3世教皇
 
 レオ3世は、795年12月26日にハドリアノ1世教皇のあとを継いで教皇の位 についた。ハドリアノの2人の甥は、自分たちが教皇になりたいと望んでいたので、非常に怒って、799年、レオに危害を加えるために若い貴族の暴力団を作って機会を狙っていた。聖マルコの祝日に、レオ教皇が馬に乗って行列に参加していた時、乱暴な青年たちが彼を馬から引きずりおろして、その舌を切り、盲目にしようとした。教皇はスボレトの貴族の助けでエラスモの修道院に逃れて、そこで回復することができた。
 信者であった国王カール大帝は、レオ教皇がそのような攻撃を受けるような過失があったかどうかを調査するために、学識豊かな人々の委員会を作って調べたが、何も非難すべきことは発見できなかった。
 翌年レオ教皇は、ローマの聖ペトロ大聖堂でカールを神聖ローマ帝国皇帝として戴冠式を行なった。その時から、教皇と皇帝はカを合わせて神聖ローマ帝国内の争いを鎮圧し、サラセン人の侵入によって広められたイスラム教に対して戦った。教皇がローマとラヴェンナにおける教会を再建することができたのは、カール大帝の助力によるものであった。
 レオ教皇が帰天したのは816年で、カール大帝の死後2年目であった。
 

13.jpg6月13日
パドアのアントニオ司祭教会博士
 
 バドアのアントニオは、背が低くて、肥っていた。彼の像は、幼いイエズスを抱いて、百合の花を持っているものが多い。しかし、アントニオは、13世紀における最も力ある説教者のひとりで、そのすぐれた人格で罪人を回心させ、神に立ち帰らせたのだった。 アントニオは1195年ポルトガルで生まれ、初めアウグスチノ会に入って司祭となつたが、アフリカに布教に行きたいと望んで、長上の許可を得てフランシスコ会に入会し、殉教の覚悟でアフリカのモロッコに渡った。しかし、モロッコに着いた時に病気になり、帰国しなければならなくなった。ところが、彼が乗っていた船は台風に吹き流されてイタリアのシチリアに着き、アントニオはしばらくの間フオルリ市の近くに修道司祭として住んだ。 
 その後まもなく、同市で催された新司祭祝賀の席上、アントニオが長上から即席演ノ説を命ぜられた。彼のすばらしい才能はその時、発見され、それ以来巡回説教師に任ぜられ、イタリアやフランスを巡って福音を伝え、無数の人々を回心させた。彼は、モンペリエやトゥールーズの大学で教師として教えたことも時々あったが、その度にイタリアで宣教するように呼び戻された。
 アントニオは、1231年6月13日に、36歳の若さで帰天した。遺骸はパドアの聖堂に安置され、その墓で多くの奇跡が起こって、1年たたぬ うちにアントニオは列聖された。1232年に建て始められた大聖堂は、モロッコで働きたいと熱望した聖人にふさわしく、建物にはアラブのイスラム教寺院のような鐘楼とドーム(丸屋根)がある。
 

14.jpg 6月14日
メトディオ
 
 メトディオがシラクサで生まれた頃は、東方教会の人々がイユズスや諸聖人の絵画を破棄していた時代であったが、メトディオは美しいイコンを措いて信者たちを励まそうと努めた画家たちを、カを厚くして支持したのであった。
 メトディオは、若い時に皇帝の廷臣になるつもりでコンスタンティノープルに行ったが、聖人のようなひとりの修道士に出会って、その感化を受け、現世から退くことを決心したのだった。そして、キオス島に修道院を建てて一生止まるつもりであった。
 しかし、コンスタンティノープルの総大司教聖ニセフォロに呼ばれて、2人でイコンを破壊する人々に大反対したが、ニセフォロは退位 させられて追放の憂き目にあった。メトディオも逃亡しなければならなかった。  821年ニセフォロの復職を命じる教皇の手紙を持ってコンスタンティノープルヘ帰って来た。ところが皇帝はメトディオをむち打ちの刑に処して追放した。メトディオは7年間3人の盗賊と共に地下牢に入れられ、3人の中のひとりが死んだ時には、その死体は生存者といっしょに捨ておかれて、腐敗していった。
 842年、皇帝は死去し、皇后テオドラが幼い皇子の摂政として国を統治したが、幸いなことに彼女はイコンを守った人々を支持した。 
 843年にメトディオは、コンスタンティノープルの総大司教になった。まもなく彼は司教会議を召集してイコンの正当性を宣言した。東方教会では、年毎に「正統信仰の祝日」が守られて、この勝利を記念している。聖メトディオは847年6月14日に水腫症で亡くなった。
 

15.jpg6月15日
ヴィト殉教者
 
 ヴィトがどの時代に生きていたかは、はっきりとわからない。しかし、多分ディオクレチアヌス皇帝の治世であったであろう。伝説によれば、ヴィトはシチリア島で生まれ、7歳頃ひそかに洗礼を受けてキリスト信者となった。
 彼の教師と乳母が彼といっしょにシチリアを旅行していた時、彼の信心深さと奇跡を行なう力がローマの役人たちの目に止まって、彼らは何とかしてヴィトに教えを棄てさせようと試みた。そして種々な刑罰に処したが、結局それは奇跡を行なわせる機会となった。例えば、飢えたライオンの前に投げ入れられた時、ライオンは、いかにもなつかしそうにヴィトをなめるばかりだった。
 ヴィトの遺物は最初にパリヘ送られ、次にサクソニーに送られたが、それは病気を治す力があって、特にてんかんの患者がその前で祈ると治されたと伝えられている。
 彼はてんかん病患者やコリーア病(舞踏病)患者め守護の聖人である(コリーア病は今でも聖ヴィトのダンスと呼ばれている)。
 この聖人は、犬による中寺や柁にかまれる害から人々を避けさせると言われ、また、ダンサーや俳優の守護の聖人である。
 

16.jpg6月16日
シリクスとジュリタ殉教者
 
 4世紀の初め頃、ディオクレチアヌス皇帝がキリスト信者たちを激しく迫害していた時、ジュリタという金持ちで信仰の深い未亡人が、3歳になるシリクスという息子と暮らしていた。 
 キリスト信者として、自分の生まれ故郷のリコアニアのイコニウムに住むことは危険だと感じたジュリタは、シリクスと2人の召し使いを連れてセレウキアヘ逃げた。ところが、驚いたことには、そこの総督アレキサンデルがキリスト教徒を残酷に迫害していたので、4人はタルソヘ旅していった。しかし、不幸にもアレキサンデル総督がその町へ来ていて、4人の逃亡者たちを発見してしまった。
 ジュリタは裁判されることになり、息子を連れて法廷に出た。彼女は、自分がキリスト信者であるという事実以外は、自分については何も答えることを拒絶した。法官は、彼女に死刑を宣告して、拷問台に横たえて、体を打ちのめすことになった。
 番兵たちが息子のシリクスを母親から離して連れ去ろうとすると、彼は泣き出したので、総督アレキサンデルは、あやすつもりで彼を膝の上に抱き上げた。すると、シリクスは恐れて母親のところへ帰ろうとして、総督をけとばして、顔をひっかいた。総督は怒って立ち上がり、子供を階段から落として、子供の頭骸骨を折って殺してしまった。
 シリクスの母は涙を流さず、息子が殉教の冠を得たことを神に感謝した。しかし、それは総督をなお怒らせて、彼女の腹部をフックで引きさき、最後に首をはねて殺した。
 彼女とシリクスの体は、市外の死刑囚の体が積んであった所に捨てられたが、2人の召し使いが母子の亡きがらを探し出して、近くの野原に葬った。
 

17.jpg6月17日
ピサのライネリオ
 
 ライネリオは、若い時イタリアのピサで放らつな生活を送っていたが、ある日、伯母が紹介した聖ヴイト修道院の修道士に会った時から、すっかり回心して今までの生活を改め、両親が心配するほどの変わり方であった。まもなく、イエズスが地上の生活を送られた聖地への巡礼を望んで、ライネリオは出発した。巡礼の途中で夢を見たが、それは自分の財布が焼けつくように燃えるコールタールでいっぱいになっていてそれを消すことができたのは水だけであったという夢だった。この夢で教えられたことは、肉体的な欲望を消すことのできるものは酒ではなく、ただ水だけであるということであった。その時からライネリオは水だけを飲み、食事は日曜日と木曜日に限って食べることにした。そして、はだしで歩きまわった。ピサに帰った時、修道院に入って謙遜な生活を送ることを望んだが、彼は決して正式の修道者にはならず、司祭として叙階もされなかった。
 1160年、聖ヴィト修道院でライネリオは帰天し、ピサの守護の聖人となった。彼が亡くなってから20年後、建築家でまた彫刻家のボナノ・ピザノがピサのカテドラルの美しい入口を造り、24のパネルにキリストの生涯から選んだ場面 の画をつけて、それをサン・ラニュリの戸口と呼んだ。
 

6月18日
グレゴリオ・バルバリゴ司教
 
 グレゴリオ・バルバリゴがヴェネツイアで1625年に生まれた時は、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの信者たちが、すでに7年間も戦っていた時で、それはその後30年間も続いたのであった。 グレゴリオがまだ20代の初め頃に、ヴェネツイアの人々は彼を選んで自分たちの大使と共にミュンスターに送ったが、そこでは1648年、ウェストフアリア条約が調印されて、ヨーロッパに平和がもたらされたのであった。その会議に出席した教皇代理のフアビオ・キジはグレゴリオ・バルバリゴが特別 にすぐれた青年であることを認めて親しい友人となり、後に彼が教皇になった時、グレゴリオをベルガモの司教に任命した。そして、3年後にはグレゴリオを枢機卿として選び、1664年、パドアの司教に任命した。 
 グレゴリオが特に配慮したことは、司祭の養成の方法を改善することであった。そのためにすぐれた大学を創設し、図書絶や印刷所を作って、教父たちの著作にくわしく、聖書に明るい教師たちを任命した。彼はパドアの司教として33年間奉仕し、1697年帰天した。
 

6-19.jpg6月19日
ロムアルド大修道院長
 
 970年頃、ロムアルドが20歳の時、彼の父は自分の反対派のイタリアのラヴェンナ市民の1人とけんかして、相手を殺してしまった。これを知ったロムアルドは恐ろしくなって、ラヴェンナ市外の修道院へ逃げて行って修道土となった。
 3年後、ロムアルドは、ヴェネツイア市外にいたマリノという厳しい隠修士の弟子になった。その頃、ヴェネツイアの総督ペトロ・オルセロが自分の先任者を殺してその職についていたので、ロムアルドとマリノはカタロニアの修道院長に助けられて、ペトロ・オルセロに、回心して自分の血でかち得た地位 から退くようにと勧めた。
 やがて、皇帝はロムアルドを、最初に彼が逃げて来た修道院の院長に任命したが、2年後に、再び隠修士となった。最後の数年間はイタリアの各地にたくさんの修道院を建てたが、その中で最も有名なのは、カマルドリに建てられた修道院であった。彼はこの修道院を中心にベネディクト会会則に基づいて修道会を創立し、土地の名にちなんでカマルドール会と名づけた。彼は1027年6月19日に静かに息を引き取った。
 

20.jpg6月20日
マグデブルグのアダルベルト司教
 
 ロシアのキエフのオルガ女王は長い間、国を統治していたが70歳の時キリスト信者となり、ドイツのオットー大帝に頼んで自分の臣下たちを改宗させるために宣教師を派遣してくれるように頼んだ。オットー大帝は聖マクシミン修道院のアダルベルト修道土を選んで、勇気のある宣教師のグループを引き連れて行かせた。ところが、宣教し始めるやいなやオルガ女王の異教徒の王子シャトスラフが母親を退位 させ、キリスト信者たちを殺し始めた。その時、難を避けて、ドイツに帰ることのできたのはアダルベルトだけであった。
 オットー大帝はアダルベルトをウェイセンベルグの重要な修道院の院長に任命した。アダルベルトは、修道士のひとつの義務は教会の歴史を記録することだと信じていたので、修道土たちによって書かれた年代記が今日に至るまで残っている。
 オットー大帝はマグデブルグ市を創設し、キリスト教の中心地とするために新しい修道院を建て、教皇に勧めて大司教を置くことにした。968年に、アダルベルトが最初の大司教として任命され、981年に死去するまでカを斥くして宣教に献身した。
 

21.jpg6月21日
アロイジオ修道者
 
 1568年3月9日、イタリアのロンバルデイアの貴族の家に生まれたアロイジオ・ゴンザガは父の望みで兵士になるはずであった。しかし、アロイジオは当時の社会の暴力と不道徳を嫌ってイエズス会に入る決心をしていた。父は、アロイジオの望みには大反対で、アロイジオをフィレンツェのフランシスコ・デ・メディチ家の邸宅に小姓として仕えさせた。
 その後、重い腎臓病にかかって、彼は一生の間、普通の食事をすることができなくなったが、病気を口実にして長い時間を祈りのために費やした。オーストリアの皇后のところで廷臣として仕えた時も、自分の霊的務めを怠ることは決してなかった。
 ついにアロイジオの父は彼の願いを聞き入れて、1587年イタリアに帰ってイエズス会に修練者として入ることを許した。アロイジオは自分自身に厳しく、信仰を深めることに努め、長上の派遣するどんな場所でも忠実に働く模範的な修練者であった。1591年ローマ、およびイタリアの各地方に伝染病が流行した時、イエズス会では病院を開いて病人と瀕死の人々の世話をした。アロイジオは力を斥くして奉仕したが、ついに自分も病気にかかって、24歳の若さで神のみもとに帰った。
 

22.jpg6月22日
ヨハネ・フイツシャー司教殉教者とトマス・モア殉教者
 
 1504年ロチェスターの司教に任命されたヨハネ・フイツシヤーは、高い理想を持った人物であった。有名な人文字者エラスモの友人であった彼は、ケンブリッジ大学で神学を教え、1504年同大学の総長となった。へンリー7世が1509年に死去した時、フイツシヤーが葬儀の説教をした。
 彼が死刑に処せられたのは、ヘンリー8世が教会の頭になろうと主張したことに対しきっぱりと拒否したからであった。「私は誰の良心も非難しない。彼らの良心は彼らを救うであろう。そして私の良心は私を救わなければならない」と彼は言った。殉教したのは1535年6月22日であった。 
 イングランドの首相であったトマス・モアはヨハネ・フイツシヤーについて、「知恵と学問、そして高徳において、ロチェスターの司教のような人物は他にないだろう」と主張した。トマス・モアもへンリー8世を教会の頭として受け入れることはできなかった。また、王の離婚を支持するよりは、退職するほうを選んだ。トマスはロンドン塔の獄舎に15か月監禁された。ヨハネ・フイツシヤーの死後9日日に、彼は反逆罪で死刑の宣告を受けた。「私は、まず神の忠実なしもべとして、それから国王の忠実なしもべとして死んでいきます」と言って殉教した。1535年7月6日のことであった。
 

23.jpg6月23日
エテルドレダ
 
 イギリスの有名な聖女のエテルドレダ(聖オードレイとも呼ばれる)は2度結婚した。最初に結婚した夫は5年後に死亡した。2度目に結婚した時、彼女は夫に勧めて兄と妹のような関係を保ったが、12年目 に2人は別れることになった。その時、エテルドレダは一生の望みをかなえることが可能になったのだった。2つの結婚の中間時代にも、彼女はエリー島で5年間孤独の生活をしたが、672年に女子修道院と男子修道院を創立して、院長としてこの修道院2つを治めた。
 エテルドレダは、イースト・アングリアのアンナ王の王女として生まれたが、修道女となってからは良質の衣服は着用せず、ただ手織のものだけを着た。復活祭、聖霊降臨、公現の大祝日以外は毎日冷水で洗い、病気の時、または教会の大きな祝日を除いては1日にただ1度だけ食事をした。彼女が2つの修道院を創立後7年目に疫病で亡くなったのは679年であった。
 エテルドレダが亡くなった時、彼女の頸にひとつの腫瘍があった。それを彼女は、自分の虚栄心から、ある時、高価なネックレスをくびにかけたために神が天罰として私に示したものだと言っていた。16年後に彼女の棺を開いた時、その腫瘍はすっかり治っていた。それで、エテルドレダは、のどや頸の病気で苦しむ人々の守護の聖女として崇められるようになった。
 

24.jpg6月24日
洗礼者ヨハネ
 
 おとめマリアのいとこのエリザベトは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアと結婚した。2人は子供がほしかったが年老いていた。ザカリアが神殿にいた時に、天使が甥われて、エリザベトが男の子をみごもるだろうと約束した。天使は言った。  「彼は、ぶどう洒や強い洒を飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされている」。天使はこの2人の年とったユダヤ人の息子が多くの人々を神なる主のために準備するだろうと付け加えた。エリザベトは 子供をみごもった。近所の多くの人々は、その子供に父親の名をつけるようにと望んだが、彼女はヨハネという名にして、ザカリアもそれに賛成した。
 イユズスの到来のために人々を準備するためヨハネは荒野に行って、いなごと野蜜を食べて暮らした。身には、らくだの毛で作った衣をまとい、皮おびを腰にしめた。多くのユダヤ人が来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた。
 ヨハネは、悪人たちは切り倒されるだろうということを警告した。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げこまれる」。イエズスについては「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりもすぐれた方が来られる。私は、そのかたの履物のひもを解く値打ちもない。そのかたは、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言った  イエズスが来られた時、イエズスは川の中でご自分に洗礼を授けるようにとヨハネに言われた。ヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきであるのに」と断ったが、イエズスの望みに従った。
 洗礼者ヨハネについて、イエズスは言われた。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった」。洗礼者ヨハネがイエズスについて言った言葉は、「見よ、世の罪を取り除く小羊を」であって、彼は自分をイエズスと比べて、「あのかたは栄え、私は衰えねばならない」と主張した。
 

25.jpg6月25日
レツジョのプロスペロ司教
 
 イタリアのレッジョ・ネル・エミリア市を訪れる人々は、その市の最も有名な聖人のプロスペロ司教が大きなカテドラルで記念されておらず、市場の広場に建てられた小さな教会でひそかに記念されているのを見て驚くであろう。しかし、こういうことは、謙遜な聖プロスペロを悩ませることはない。彼は466年に亡くなったが、自分の栄誉に関しては何もかまわない人だったので、レツジョ市の城壁の外に教会を建て、自分の遺骸は、そこに埋めるように指図した。しかし、レッジョ市民たちは、プロスペロを守護の聖人として現在の場所に移した。プロスペロは22年間司教として信者たちを治め、神の中における彼らの父として、深く尊敬されたのであった。
 金持ちの青年がイエズスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた時、イエズスは「持ち物をみな売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と答えられた。イエズスの真の弟子であったプロスペロは、この命令を文字通 りにとって、自分の全財産を施したのであった。
 

6月26日
ヨハネとパウロ殉教者
 
 ヨハネとパウロという2人の兄弟が4世紀の中頃、コンスタンティヌス皇帝の皇女コンスタンチアの宮廷で仕えていたが、皇帝は彼らをガリカヌス将軍の所へ送って、敵軍と戦わせた。ところが、敵軍は非常に強力であったので、ガリカヌスの一部隊は征服されてしまった。ヨハネとパウロは、ガリカヌス将軍に向かって、もしあなたがキリスト信者になれば敵軍は敗北するだろうと言った。将軍が受洗するやいなや、敵は敗北した。 この2人の兄弟は360年頃までは幸福に暮らしていたが、ローマ皇帝ユリアヌスが即位 するに及んで他のキリスト信者たちと共に激しい迫害を受けることになった。2人は皇帝の異教的な態度を嫌って、再び彼に仕えることを拒絶し、死んでも信仰を守ることを勇敢に宣言した。皇帝はひどく怒って2人を死刑に処することとした。ただ彼らはこれまで人々のあいだに人望があり、その敬愛を一身にあつめていたので、もしも一般 信者と同様刑場で殺害すれば人心を刺激すると考え、自分の護衛兵の隊長を送り、ローマのチェリオ丘の2人の邸宅内でうち首にするように命じた。
 約35年後、パマチウスという富裕な元老院議貞が、この邸宅の場所に教会を建てた。1887年にこの聖堂の下を御受難会の修道者たちが発掘したところ、両聖人の家が昔のままの姿で現われ、その壁に描かれた十字架や羊などのキリスト教的記号や両手を上げて祈る男の姿なども発見された。
 

27.jpg6月27日
アレキサンドリアのチリロ司教教会博士
 
 チリロは380年頃アレキサンドリアの司教となった。チリロは、当時の異説や異教のまちがいを論破するために多くの本を書き、しばしば説教した。特にネストリウスの異端に対する反論はチリロの名を歴史に残すことになった。ネストリウスは、キリストの神性と人性とは、神のみことばによる位 格的結合ではなくて、キリストのうちに同居しているにすぎない。ちょうど正直な人のうちに神が宿っているようなものである。マリアも神の母でなく、人間キリストの生母にすぎないという異説を広めたのであった。教皇はネストリウスの異説を破門し、この問題の解決をチリロに一任すると書き送った。ネストリウスは怒って皇帝に訴えた。皇帝は調停のため司教会議を召集した。これが441年のエフェソ公会議で、チリロは教皇代理として出席した。この公会議でネストリウスの異説を信じる者は破門され、また聖母マリアは、神のおん母であることが決議された。 
 チリロはネストリウスの皇帝へのざん訴によって逮捕され、2か月後に釈放されたが、相変わらずネストリウスの異端と戦って、442年に死去した。教皇レオ13世はチリロに教会博士の称号を贈った。
 

28.jpg6月28日
リヨンのイレネオ司教殉教者
 
 スミルナで生まれたイレネオが、常に薫りとしていたことは、155年に殉教したスミルナの司教ポリカルポと親しくしていたため、自分の信仰は使徒たちから伝えられたということであった。ポリカルポは殉教した時に次の遺言をした。「恩師ヨハネから受けた信仰は、すべて私の弟子イレネオに伝えたから、もう思い残すことはない」と(イレネオは、友人に「自分はポリカルポの姿と声、そして彼が聖ヨハネから習ったと言った言葉を完全に記憶している」と告げたことがあった。「私たちが子供の時に習ったことは、私たちの魂の一部分である」と書いて、ポリカルポの教えを「紙の上ではなく、私の心の中に書き記す」ということを強調した。
 イレネオは小アジアを出て、ゴールヘ旅した。ローマヘも度々行った。177年にローマ皇帝マルクス・アウレリウスが、キリスト教弾圧の命令をだしたが、リヨン市でも大迫害が起こり、多数の信者と共に捕えられたポティノ司教が90歳で殉教した時もローマにいたが、ゴールが平和になった時、イレネオはポティノのあとを継いで、リヨンの司教となった。トゥールの聖グレゴリオは、イレネオの宣教の努力によって短い期間にゴール全体がキリスト教になったと言ったが、それはあながち誇張ではなかった。
 イレネオは使徒たちとの関係を特に大切にしていたので、彼の主張は、真理を最も堅く信じる確実な方法は、使徒たちから伝えられた教義に忠実であることだった。イレネオの不屈の活動によってリヨン市の教会は盛んになったが、政権の交替で再度迫害を受けることになった。皇帝セプチミウス・セヴェルスは全国に禁教令を出した。イレネオ司教も200年頃、リヨン市の信者たちと共に捕えられて殉教したのであった。
 

29.jpg6月29日
使徒ペトロと使徒パウロ
 
 ペトロはイエズスの弟子たちの中では最も短気で熱血な人であったが、また多くの点で彼らのリーダーでもあった。彼がガリラヤで漁師をしていた時、イエズスが「人をすなどる者としよう」と約束された。彼は結婚していて、アンドレアという弟がいた。アンドレアも漁師でイエズスに従うように召された。
 ペトロの名は初めシモンであったが、イエズスが、岩という意味のペトロという名に変えられた。イエズスが弟子たちに向かつて、御自分を何者だと思うのかと尋ねられた時、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。イユズスは言われた、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。よみの力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:16-19)。この権力が他の使徒たちに与えられたのは、後になってからであった。
29_2.jpg ペトロは時々イエズスの期待を裏切った。彼が主と共に死ぬ と約束しておきながら、3度も人々に自分はイユズスを知らないと言ったことがその例である。しかし使徒たちの中で、復活されたイユズスを最初に見たのはペトロであった。そして、イエズスは、彼に、キリストに従う信者の群れを牧するようにと命じられた。ペトロの2通 の手紙は新約聖書の中に入れられ、人々の心の指針となっている。
 彼は教皇職在位33年、ローマのネロ皇帝の迫害の時、逆さに十字架につけられて壮烈な殉教をとげた。バチカンの大聖堂の中にペトロの墓が保存されている。
 ローマ市民は十字架刑には処せられず、首を切られるという特権を持っていたが、伝説によるとパウロもローマで殉教したと言われている。パウロは、小アジア、キリキアのタルソに生まれ、はじめサウロと名づけられた。彼はもって生まれた火のような激情とユダヤの律法を尊重する念からキリスト信者たちを猛烈に嫌って、ステファノを石殺しにするように人々をそそのかし、できるだけ多くの信者たちを殺すようにカをつくした。しかし、ある日、彼はダマスコヘ行く途中、イエズスの声を聞いて、すつかり回心した。その時からパウロは新しい信仰に生きて、諸地方に宣教し、自分が創立した諸教会あてに手紙を送って教えを説いた。彼は、ユダヤ人ではない人々に対して宣教し、非常な苦難に遭ったが、決して信仰はゆるがなかった。そして最高の賜物は愛であることを説いた。
 

30.jpg6月30日
リモージュのマルチアリス司教
 
 教会の初期からマルチアリスはゴール地方で最も力強い使徒、リモージュの司教区を創設した人として尊敬されてきた。リモージュ市はこの聖人の墓を中心として大きくなり、初代の使徒たちと匹敵する者として崇敬された。今日では、リモージュのカテドラルの北側に聖マルチアリスと聖ステフアノを並べて描いたゴシックの大きな扉が付いている。
 3世紀の中頃より少し前に、ローマからゴールヘ7人の宣教師が送られ、トゥール、ナルポン、パリ、トゥールーズ、アルス、オヴェルニュ、リモージュの各地で働いたと伝えられている。各自がその地方の司教区を作ったのであった。この7人はいずれも聖人の位 にあげられた。  マルチアリスは、聖ペトロの杖をアキテーヌに持って来て、ローマの地方総督の息子にその杖を当てて死からよみがえらせたという伝説がある。
 彼はアキテーヌ地方の多数の人々をキリスト信者にしたが、その中にバレリアといって、異教徒の婚約者を捨て去った少女がいた。婚約者はおおいに怒ってバレリアの頭を切りおとした。ところが、彼女は自分の頭を腕に抱えてマルチアリスのそばに行って、その足もとに倒れて亡くなった。リモージュのカテドラルには、自分の頭を抱えたバレリアの彫像が今日でも残っている。リモージュのマルチアリスがあまり有名になったので、彼はイユズスが異邦人の所へ送られた72人の弟子たちの1人に違いないと言った歴史家たちもいた。また、ある伝説によると、福音書に書いてあるように、5つの魚と2つのパンを持って来た若者はマルチアリスであって、それをイエズスが受け取られて奇跡を行ない、群衆を養われたのだと伝えられている。
 このような伝説はあってもマルチアリスが、3世紀のフランスにおける最もすぐれた宣教師の1人であったことは、歴史上の事実である。