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7月1日
シメオン・サールス
シメオンは、29年間シナイの砂漠で苦行の生活を送っていたが、故郷のシリアのエメサヘ帰って浮浪者たちの世話をすることを決心した。彼の持論は、「真に謙遜になりたければ、屈辱を愛さなければならない」ということであった。それで彼は、わざと馬鹿者のように振るまったので、「サールス」(狂気)というあだ名をつけられた。誰もこういう人を尊敬しなかったが、シメオンが愛した貧しく哀れな人々は、自分たちのようにさげすまれている者として彼を歓迎した。彼が帰天したのは590年頃であった。
7月1日
シェヌート大修院長
コプトのキリスト信者たちはシェヌートを「エジプトの教会の父」と呼び、隠修士たちは皆、彼に畏敬の念を抱いていた。アレキサンドリアの聖チリロは、シェヌートを大いに称賛し、深く信頼して砂漠のすべての院長の総院長に任命した。シェヌートは非常にきびしかったが、そのきびしさが、4000人以上の修道土をひきよせた。彼は5世紀の中頃、118歳で帰天した。
7月2日
プロチェッソとマルティニアノ殉教者
ローマのあるカタコンブの中に、聖ペトロがモーセのように岩を打って、そこから水が流れ出る絵が描かれている。ペトロのそばには2人の兵士が立っているのが見える。この2人が洗礼を受けているのか、水を飲んでいるのかは、絵を見ただけではわからない。伝承によれば、この2人は、ペトロがローマで十字架につけられる前に入っていた牢獄の看守で、プロチェッソとマルチィニアノという名前であった。
この看守たちはペトロを逃がそうとしたが、ペトロは断って、泉をわかせて2人に洗礼を授けた。これを知ったローマの牢獄の長官パウリヌスが2人を剣でさし殺させた。その時、ルチアという女性が2人の死体を引き取ってアウレリア街道に埋葬したが、9世紀になってから、教皇パスカーリス1世が聖ペトロ大聖堂内の1つの祭壇の下に安置した。
7月3日
トマ使徒
イエズスの弟子トマは、新約聖書の中で「ディディモ」(双子)と呼ばれているが、キリスト信者の世界では「疑い深いトマ」として知られている。
トマは、真理を探し求めて、それを発見しても最初は信じることが困難であったが最後には誇りをもってそれを信じた弟子であった。ある時イエズスは弟子たちに言われた。「わたしは、あなたがたのために場所を用意しに行く。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。トマスは心を乱し、イエズスに言った。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」。イエズスは答えられた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通 らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。から、あなたがたは父を知る」(ヨハネ14:3~7)。
イエズスが復活後に弟子たちに現われた時、トマスは彼らといっしょにいなかったイエズスが生きておられるという彼らの言葉をトマスは信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った。
8日の後、イエズスが再び使徒たちに現われた時、トマスはそこにいて、イエズスの手と、わき腹にさわって、「わたしの主、わたしの神よ」と叫んだ。イエズスは、「見ないで信じる人は幸いである」とトマスをさとされた。
トマスが宣教師としてインドに行ったことは昔から伝えられていて、インドの信者たちは自分たちを「聖トマのキリスト信者」と呼ぶことが多い。彼の遺骸はマドラスの近くのミラポアの教会に葬られたと伝えられている。
7月4日
ポルトガルのエリザベト王妃
エリザベトはわずか12歳の時にポルトガルのデニス王の王妃となった。デニスはよい人ではなかったが、王妃の慈善の仕事は妨げなかったので、エリザベトは旅行者のための宿舎や、病院、孤児院、回心した女性たちの家などを建てて、自ら病人たちの世話をした。デニス王が病気になって死にかけた時に、エリザベトは自分の受けたすべての残酷な仕打ちを赦し、最後まで看病した。王が1325年に死去し、エリザベトはフランシスコ会に入ることになった。コインブラに大きな修道院を創立して、そのそばの小屋にこもり、祈りと黙想のかたわら修道女たちの世話をした。
その当時は、戦国の世の中で、親類の間にも権力争いが絶えなかった。エリザベトの息子のアルフォンソ4世王は1336年に、養子のカステイリア王と不和になったので、エリザベトは病気にもかかわらず、平和的解決に努力した結果 、2人は仲直りした。しかし、エリザベトは心身を使い尽くして、コインブラに帰る前に帰天した。
7月5日
アントニオ・ザカリア司祭(バルナバ修道会の創立者)
アントニオ・ザカリアは1502年イタリアのクレモナで生まれ、パドアの大学で医学を学んで、25歳の時クレモナで医者の仕事を始めた。しかし肉身の病気ばかりでなく精神的に苦しむ人々に接した時、アントニオは、神学を学んで司祭となって彼らを助けたいと望んだ。
司祭に叙階された後、人々の救いのために働き始めて、1530年ミラノで同じ志を持つた数人の司祭と共に修道会を創立して、説教をしたり秘跡を授けたりしながら、貧しくきびしい生活を送った。
教皇クレメンス7世がその会に「聖パウロの聖職者会」という名を与えたが、アントニオは37歳で亡くなる前に、ミラノで聖バルナバ教会を会員のために購入したので今に至るまで「聖バルナバ修道会」と呼ばれている。
アントニオは次の言葉を好んだ。「神の命令は難しく、骨が折れるように見えるが、愛があれば容易になる。道はけわしく、進んで行く気力がない時でも、勇気をふるって進む時、栄光に達することができる」。
7月6日
ゴデルバ
ゴデルバは18歳の時フランの貴族ギステレスのベルトルフと結婚したが、ベルトルフの母はゴデルバを嫌って、すぐに離縁するように彼に勧めた。ゴデルバは、善業と祈りに励んだが、姑は彼女を小さな部屋にとじこめて、わずかばかりの食物を与えて苦しめたので、ゴデルバはついに逃げ出して自分の家に帰ってしまった。これを知ったトゥルネーの司教とフランダースの領主はベルトルフに、ゴデルバをひきとって親切に扱うようにと極力すすめた。
ベルトルフは、初めのうちはゴデルバを愛しているかのように見せかけたが、しだいに彼女を残酷に扱い始めた。1070年7月6日、彼はブルージュに出かけた。その夜、彼のやとった2人の男が、ゴデルバを城の裏口から誘い出して、彼女の首に縄を巻いて、池の中に投げこんだ。ゴデルバが殺されたのは、ベルトルフの命令によったことは明らかであったが、誰もその証拠をあげることはできなかった。
ゴデルバが聖女だったということを多くの人々が信じたのは、彼女が殺された場所で多くの奇跡が行なわれたことによるようである。
7月7日
エセルブルガ
イギリスの東アングルの王女であったエセルブルガは、幼い時から修道女になることを望んでいた。彼女の姉セクスブルガは、ケントのエルコンベルト王に嫌いで、非常に王を感化した。
福者ベーダによると、エルコンベルト王は国中に布告を出して、あらゆる偶像を破棄するように命じた最初の王であった。また、四句節の大斎を命じて守らせたとも伝えられている。
王女のエルコンゴタは叔母のエセルブルガと共にゴールに行って修道院に入った。まだ、イギリスには修道院が少ししかなかったからであった。
エセルブルガは、フェアムーティエの修道院長となって、12使徒にささげられた教会を建て始めたが、それが完成する前、665年に死去して、遺体は建てかけの教会の中に葬られた。
修道女たちはその教会を完成することを断念して、エセルブルガの遺骨を聖ステァノ殉教者の聖堂に葬った。
7月8日
プロコピオ殉教者
プロコピオは非常に厳しい苦行の生活を送っていたので、彼の同時代の教会歴史家エウゼビオは、「彼は死人のように衰えたが、神の言葉を読んで霊魂に大きな力を与えられ、体も回復した」と伝えている。プロコピオは、ほとんどパンと水だけで生きて、時々、1週間断食することもあった。
プロコピオはエルサレムで生まれ、スキトポリスで教会のために働いた。温和で謙遜であって、聖書をよく学び、シリア語にも堪能であった。 ある日、彼は数人の仲間と共にカイザリアヘの宣教に派遣された。その頃は、ちょうどドミチアヌス皇帝の迫害が始まった時で、カイザリアの総督はプロコピオに斬首の刑を宣告した。「私たちの最初の迫害の年に、プロコピオは、一番の早道で永遠の生命に旅立った。カイザリアにおける最初の殉教であった」と、エウゼビオは書き残している。
7月9日
ヴェロニカ・ジュリアーニ修道女
1660年イタリアのウルビノで生まれたヴェロニカ(本名はウルスラ)は、幼い時から修道院に入りたいと望んでいたが、父のフランシスコは大反対で、よい夫を選んで早く結婚させようと計画していた。ヴェロニカは、他の人々が自分の祈りに参加しない時は、不満を表に出すという欠点を持っていたが、ある日、まぼろしの中で自分の心が鉄で造られているのを見て、その時から非常に優しくなった。彼女は絶えずキリストの受難を黙想して、人々の救いのために祈った。
1677年彼女はウンブリアのクララ修道会に入ってヴェロニカという名前をとった。そこで彼女は修練長として36年過ごし、その後1727年に死去するまで院長として過ごして、修練女たちを世話し、修道院の雑事に献身しながら、祈りと黙想に励んだ。1697年の聖金曜日、ヴェロニカが主の苦しみを然想していると、十字架上のイエズスの5つの聖痕から強い光が出て、彼女の両手両足と脇腹を貫き、主と同じ5つの傷跡をしるした。しかし、こめ傷によって彼女は人々の好奇心や疑惑の的になり、非常に苦しんだ。チッタ・ディ・カステッロの司教は彼女を疑って長い間、ヴェロニカが人の前に出ることを禁じたが、ついに聖痕の真正さを認めて、前のように通 常の生活をすることを許した。
彼女の死後、遺体の検査がなされると、キリストの受難の聖痕と同じような傷が発見された。
7月10日
ルフイナとセクンダ殉教者
ローマの元老院議員アステリオにルフイナとセクンダという2人の娘がいた。彼は娘たちのためにアルメンタリオとヴェリノという許婚者を見つけたが、4人ともキリスト信者だったので非常によい縁組のように思われた。ところが、まもなくヴァレリアヌス皇帝が教会を迫害し始めて、アルメンタリオと、ヴェリノは、教えを棄ててしまった。しかし、2人の娘たちは、信仰を守って、エトルリアヘ逃げようとしたが、途中で捕えられて、ドナトウスという総督の前に引き出された。
ドナトゥスは、ルフイナを妹の見ている前でむち打たせ始めた。それを見た妹のセクンダは、「なぜ、私の姉だけをこういう目に合わせるのですか。どうぞ、私たち2人をいっしょにむち打ってください。私たちは、イエズス・キリストを神だと宣言します」と叫んだ。これを聞いた総督は、2人の首を斬らせた。
異教徒の女性ブラウチラが2人の遺体を黒い森と言われたヴィア・アウレリアというローマ市外の場所に葬った。その場所は後で白い森という名に変えられたが、それは聖女たちの遺骨があることにちなんでいる。聖女たちのためにローマにサンタ・ルフイナ・セクンダ教会が建てられた。
7月11日
ベネディクト修道院長
ベネディクト会の創立者の聖ベネディクトは480年に、イタリア中部、ウンブリアのヌルシアで生まれ、若い時からローマに行って勉強した。20歳の頃、スビアコの山中の洞窟で隠修士の生活を始めたところ、 彼のきびしい生活を模倣するために多くの青少年が集まって来たので、12の家屋を建てて、1軒に12人ずつ住まわせた。しかし、529年、ベネディクトは、忠実な修道士のグループを連れて、ローマとナポリの中間にあるモンテ・カッシーノヘ移った。モンテ・カッシーノにはアポロの神殿が建っていたので、ベネディクトは直ちにそれをこわして、その跡に修道院を建てたが、それは教会で最も有名な修道院となった。ベネディクトの聖徳にひかれて集まって来た多くの修道士のために、彼は修道生活の規則を書いたが、これは後世まで修道生活の法典とされ、明快でしかも人々の心理にしっくり合うという点で、今日に至るまでその価値を失っていない。
ベネディクトは、547年、67歳の時、急激な熱病で倒れて、息を引きとった。
7月12日
ヴェロニカ
ヴェロニカの物語は福音書の中心ともいうべきイエズスの十字架の道に関係しているにもかかわらず、初代教会の歴史ではかなり後になってから現われた。十字架を背負ったイエズスが倒れた時、ヴェロニカが自分の持っていた白い麻布でイエズスの顔を拭いてあげると、布の上には聖なる面 影が写し出された。ある学者たちの意見によると、ヴェロニカという名は、「真の面 影」を意味するので、この名前は物語から出ていて、彼女の本当の名前ではないということである。「ヴェロニカのヴェール」はローマの聖ペトロ大聖堂の中に保存されている。
7月13日
ハインリヒ皇帝
ハインリヒはドイツのレーゲンスブルク市で、972年に生まれ、幼い時から同市の司教、聖ウォルフガングから王侯の義務、権限、謙遜、神への畏敬などを学んだ。1002年、いとこのドイツ皇帝オットー3世のあとを継いで皇帝となり、教会の改革に力を尽くした。
教会法を守らせるために、司教会議を召集したり、ドイツ全土のあちらこちらに聖堂や修道院を建て、多数の聖堂に多大の寄付をした。また、大きな仕事の1つは、ストラスプール、ヒルデスハイム、マグデブルグ、メールスブルクなどに司教区を再興したことであった。
ミアスブルグの司教区はスラブの侵入者たちにひどく荒らされたが、ハインリヒは彼らに聖なる戦いをいどみ、各兵士に戦争に行く前に聖体拝領をするように勧めた。その戦いは勝利を得て、教区は元通 りになった。
後に、バンベルクの新教区に立派なカテドラルを建てて、1024年にドイツのゲッティンゲンの近くで帰天した。
7月14日
カミロ・レリス司祭
1550年イタリアのナポリで生まれたカミロ・レリスは気の短い男であった。ローマの病院で労働者として働いたが、乱暴な行ないとばくちのために追い出されて兵士となった。当時ベネツイアはトルコと戦っていたが、カミロは5年間この戦争た参加した。その後、マンフレドニアのカプチン会の修道院に行って、そこの新しい建物を造る労働者の1人としてやとわれた。そしてある日、1人の修道士の説教を聞いて回心し、脆いて過去の罪探い生活の赦しを神に祈り求めた。
彼は足に怪我をして歩行困難であったが、フランシスコ会に入りたいと望み、2度断わられたので、ローマのサン・ジャコモ病院に帰ることを決心した。ここは、以前に追い出された病院であった。しかし彼は見違えるような人となり、毛のシャツを着て、病人のそばに昼夜付き添って、看護し、まもなく、病院の会計に任命された。
ここでカミロが気づいたことは、その病院が、病人たちのためにいかに不完全であるかということであった。彼は聴罪司祭、聖フイリッポ・ネリの勧めに従って、司祭となり、2人の同志と共に、「病人のしもべたち」という修道会を創立して、病院、または家庭で苦しむ病人を看護することになった。やがてカミロの評判が広まって、金持ちから寄付が集まってきたので、ナポリや他の町に自分の病院を開くことができ、疫病が 流行した時には、病人や死にかけている人々の苦しみを和らげるために、会員たちが献身した。
カミロは1595年と1601年に、ハンガリーとクロアチアの戦争に、仲間の修道土たちを送って傷病兵の看護に当たらせた。「よい兵士は喜んで戦場で死ぬ 。病人のよいしもべは、病院で喜んで死ぬ」と、カミロは言った。彼の修道土たちは、自分たちの健康はかえりみなかった。1614年7月14日、カミロは長い病気の後帰天した。彼の創立した会は、現在「聖カミロ修道会」として全世界に広まっている。
7月15日
ボナヴェントゥーラ司教教会博士
教会において高い地位 についたボナヴェントゥーラは、すぐれた哲学者で、パリの大学で哲学を教えたが、同時に聖書の講義もした。1256年には35歳でフランシスコ会の総長に任ぜられ、後にアルバーノの司教および枢機卿に任命されたが、当時、フランシスコ会に対する敵意があったため、神学博士の学位 を長い間得ることができなかった。しかし彼は決して悲しまなかった。「創造の世界は神の印を私たちに与える。しかし、神を観想するためには、理性によってみがかれた信仰が必要である」と彼は信じていた。友人のアクィノの聖トマスが、どこで彼が偉大な知識を得たのかと尋ねた時、ボナヴェントウーラは十字架を指さして、「私は、ただ十字架につけられたイエズス・キリストを学ぶだけです」と答えた。彼が帰天したのは1274年であった。
7月16日
マググレナ・ボステル修道女
フランス革命が起こった時、ユリア・ボステルは、フランスの北部バルフレールで少女のための学校を開いていたが、自分の家の階段の下に秘密の少聖堂を作って、隠れて働く司祭たちがミサをささげられるようにした。1801年、教皇がナポレオンと条約を結んだ後に、ユリアは再び教育事業を始め、自分の生涯の仕事とすることを決心して、51歳の時同志の女性たちを集めて教育を目的とする修道会を創立し、少女たちに神を愛し、貧しい人々を助けるように教えるように努めた。1807年に修道誓願を立てて、ユリアという名を改めてマリア・マグダレナを名のった。そして3年間に200人の少女が教育された。
マリア・マグダレナ・ボステルと9人の仲間たちは、教室の隣の納屋に住んで非常に貧しく生活をしながら、裁縫や農業の手伝いなどで、学校経営の資金を得たのであった。幸いなことに1830年、古びた修道院に移ることができた。
1846年7月16日、カルメル山の聖母の祝日に、マリア・マグダレナ・ボステルは90歳で亡くなった。その時には、修道院はすでに改築され、修道会は、キリストの福音を広くのべ伝えていた。
7月17日
アレクシオ
アレクシオは、4世紀の末頃、ローマの富裕な貴族エウフレミアノの息子として生まれた。両親は、彼を結婚させようとしたが、神に一生をささげようと決心して、アレクシオは、ローマを去って、メソポタミアのエデッサに逃げ、自分の名は誰にも明かさず、物乞いをしながら暮らした。教会の近くの小さな小屋に住んで、極貧の身でありながら、自分が得た物を自分より貧しい者に分け与えた。
17年後にアレクシオは、両親の家に物乞いとして帰ったが、召し使いの仕事を与えられて、17年間、まだ名前を知られず、身を低くして働き、食物を恵まれて、自分の物であるはずの豪華な邸宅の階段の下で寝起きしたのであった。
アレクシオが亡くなったのは417年で、その時、貧しい衣服の中から彼の本名と経歴が記された1枚の紙が発見されて、早速キリスト教の荘厳な葬儀が行なわれた。1216年、ホノリオ3世教皇がアレクシオの遺体を発見して、ローマの聖ボニファチオ教会の祭壇の下に安置した。現在、この教会は、聖アレクシオと聖ボニフアチオの2人の聖人の名を持っている。
7月18日
パンボ修道士
パンボは、4世紀の砂漠の師父たちの中で最も偉大な教師の1人であったが、読むことができなかった。隠修士になるために最初に出かけた時、仲間の修道土たちは、詩編を暗記するように教えた。その時、パンボは詩編39の第1節、「わたしの道を守ろう。舌で過ちを犯さぬ ように」を初めて聞いて、沈黙が彼の最も大きな徳の1つとなって、弟子たちにもこれを教えるようになった。ある時、総司教がパンボに、何か感心するようなことを言うように頼んだところ、彼は「もし、総司教が私の沈黙に感心されなければ、私の演説に感心されることはないでしょう」と言った。
パンボは、荒れ野の師父から習った次の勧めを決して忘れなかった。「あなた自身の正当さに信頼するな。過ぎ去ったことを悲しんではならない」。
パンボが稀におしゃべりした時に好んで言ったことは、「すべての人たちにあわれみを示しなさい。神は情け深い人を恵んでくださる。あわれみ深ければ、あなたは救われるであろう」。
ある日、ローマのメラニアという名の、後に列聖された女性がパンボの所に相談に来て、300ポンドの銀の贈り物を彼に差し出した。ところが彼はすぐに仲間の1人にそれを与えて、金に代えてリビアの貧しい人々に施すように依頼した。メラニアは、パンボから感謝の言葉を期待したが、彼が何も言わなかったので、「300ポンドの銀がどんなに大きな贈り物か御存知でしょうか」と尋ねた。パンボは、メラニアに言った。「あなたは神様のためにこの贈り物を持って来られたのだから、神様はその価値を知る必要はないのです。神様は、山の重さでも手で量 る方だから、あなたの銀の分量は確かに御承知です。もし、私のために持つてこられたのでしたら、私にその重さをおっしゃってもよろしいが、神様のためならば、黙っていらっしゃい」と。
7月19日
アルセニオ修道士
アルセニオは、世界中で最も有名な教師の1人であった。助祭としてローマに居た時、ダマソ教皇は皇帝の子供たちの教師として、彼を推薦した。アルセニオは金銭、召し使い、名誉、財宝などに恵まれて10年間過ごしたが、「すべてを捨てることによって救われる」という神の声を度々聞いて、エジプトのワディ・ナトルンの近くの砂漠の修道士たちの所へ行った。
アルセニオは、沈黙を熱望した。自分の言ったことを悔やんだことは度々あるが、言わなかったことを悔やんだことは決してないと言った。野蛮人の侵入でワディ・ナトルンを去らねばならなかった時も、メンフイスの近くのペトラという岩の上で数年間暮らしたが、少しも苦にはならなかった。彼は以前自分が持っていた富をさげすんでいた。親戚 の1人が財産の大部分を遺言で残した時、遺言書を破って捨てた。若い時の勝手気ままのぜいたくな生活のために罰を受けるのではないかと悩んでいたが、449年、砂漠で亡くなった時は、平和であった。仲間の修道士に残した財産は毛皮のコートと、しゅろの葉で作ったサンダルと、山羊皮のシャツだけであった。
7月20日
マルガリタおとめ殉教女
マルガリタは3世紀の未頃、小アジア(今のトルコ)のアンチオキアで生まれた。父は異教徒の祭司で、マルガリタがキリスト信者になった時、大いに怒って彼女を家から追い出した。しかし、乳母がマルガリタを引き取って世話をした。
ちょうどその頃着任したオリブリウスという知事がマルガリタの美貌にひかれて、自分の妻にしたいと思って、彼女に「おまえは自由の身か、それとも奴隷の身か」と尋ね、もし自由であるならば、自分の妻にしようと言った。マルガリタは、異教徒と結婚することは望まず、身に危険が降りかかることは十分承知しながら、彼の申し出を断った。
マルガリタの拒絶に激怒したオリブリウスは、彼女が信者であることを知って、ローマの役人の前に突き出し、信仰を棄てるように強制した。しかしマルガリタは拒んだので、残酷に苦しめられたあげく、暗い牢獄に投げこまれた。
伝説によると、牢獄の中で恐ろしい竜におそわれて、欧みこまれそうになったが、自分の持っていた十字架で竜の首をひっかいて、助かることができたと言われている。この物話は、マルガリタの精神的な苦痛を表わしているように思われる。竜は、キリストを捨てて自分の生命を救うという誘感を表わし、十字架は、マルガリタの強い信仰の象徴である。
マルガリタは最後までかたく信仰を守り、首を斬られて殉教した。アンチオキアのある未亡人が、彼女の遺体をていねいに葬った。イタリアでは、彼女は聖マリナとして知られて、聖画には竜といっしょに描かれていることが多い。
7月21日
プリンディジのラウレンチオ司祭教会博士
ラウレンチオは1559年イタリア南部のプリンディジで生まれ、16歳の時カプチン会修道院に入り、パドアで司祭となった。当時は、16世紀の宗教改革の時代であったので、ラウレンチオは中央ヨーロッパを説教して回り、カトリック教会の立て直しに全力を尽くした。その頃トルコ軍がハンガリアに侵入し、国全体を占領しようとしていたので、ルドルフ2世王はラウレンチオに頼んでドイツの領主たちにトルコ軍を追い出すように嘆願させた。ラウレンチオは、自らキリスト教の軍隊のリーダーとなって、トルコ軍を恐れる兵士たちを励まし、十字架を手にして先頭に立った。その結果 、トルコ軍は完敗して追い出された。
ラウレンチオは、平和をもたらす人としても成功した。というのは、1617年、スペインとサヴォアとの紛争に際しては講和を仲介し、1619年には、弾圧されたナポリ人の訴えをリスボンに居たスペイン王に伝えた。この旅行はラウレンチオを非常に疲労させ、彼は同年50歳の誕生日に帰天した。
7月22日
マリア・マグダラ
イエズスの空の墓について知った最初の女性の1人が、マグダラのマリアであった。その後、復活のイエズスに最初に会うことを許されたのも彼女であった。復活の日に、マリアは墓の外に立って泣いていた。振り 向くと、涙の中で、彼女が園丁だと思った人を見た。その人は、なぜ泣いているのかと尋ねたので、マリアは答えた。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引きとります」。
この男はイエズスであった。イエズスが「マリア」と言われると、マリアは、イエズスに向かって、ヘブライ語で「先生」という意味の「ラボニ」と答えた。イエズスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われ、彼女に弟子たちの所へ行って、このことを知らせなさいと命じられた。そして、マリアはその通 りにしたのである。
イエズスが十字架に釘づけられた時、マリア・マググレナは見守っていたと記録されている。彼女は、イエズスが死なれ、そして復活されるのを見たのである。復活の主を見た時の彼女の心情は、マタイが「恐れと、大きな喜び」と表現しているように、極めて人間的で、同時に感動的である。
7月23日
スウェーデンのブリジッタ修道女
ブリジッタは、スウェーデンのマグヌス2世王の王妃の女官となった。その頃の宮廷生活の華美で軽薄なありさまをブリジッタは遠慮なく指摘したので、彼女の感化でマグヌス王は自分の生活を改善した。ブリジッタが宮廷を去った後に、夫が亡くなったが、彼女はその時から4年間シトー会修道院で厳しい生活を送り、その後、スウェーデンのヴァズテナに修道会を創立した。その時、マグヌス王は彼女に多大の寄付をして助けた。
1390年にブリジッタはローマヘ移って不幸な人々を助けたり、スウェェデンの留学生や巡礼者のために宿泊所を設けたりした。ウルバノ5世教皇もヴァズテナの修道院を支浸し、彼女が教皇の短所と思ったことを正直に告げたにもかかわらず、1370年に補助金を与えた。
1372年にブリジッタは死去し、1391年に聖人の位に上げられた。
7月24日
クリステイーナ
「驚くべきクリステイーナ」と言われた。この聖女は、1150年、ベルギーのリエージュ市の近くで生まれた。15歳の時に両親を亡くして、姉2人と共に孤児であった。ある日、クリステイーナは発作を起こして意 識を失い、全く死んだように見えた。死者のミサがささげられている間に、彼女は開いていた棺の中から立ち上がって、教会の屋根の上まで鳥のように飛んでいったという。その時、逃げ出さなかったのは彼女の姉だけであった。クリステイーナは司祭の命令でまた飛び降りてきた。
この時からクリステイーナはキリスト教会の奇人として行動し始めた。常にぼろ布をまとい、食物は施してもらった。人間の臭気を嫌って度々大きなかまどの中へ逃げこんだ。ある時、ワレンという場所の教会で大きな泉の中に入って、水中で座りこんだこともあった。しかし彼女の行為は徐々に正常になり、多くの人々がよい勧めを受けに来た。晩年には、サン・トロンドの修道院に住んでよい模範を示し、また人々を助けたと伝えられている。
7月25日
クリストフォロ殉教者
イタリアのレッジョ・ネル・エミリア市を訪れる人々は、その市の最も有名な聖人のプロスペロ司教が大きなカテドラルで記念されておらず、市場の広場に建てられた小さな教会でひそかに記念されているのを見て驚くであろう。しかし、こういうことは、謙遜な聖プロスペロを悩ませることはない。彼は466年に亡くなったが、自分の栄誉に関しては何もかまわない人だったので、レツジョ市の城壁の外に教会を建て、自分の遺骸は、そこに埋めるように指図した。しかし、レッジョ市民たちは、プロスペロを守護の聖人として現在の場所に移した。プロスペロは22年間司教として信者たちを治め、神の中における彼らの父として、深く尊敬されたのであった。
金持ちの青年がイエズスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた時、イエズスは「持ち物をみな売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と答えられた。イエズスの真の弟子であったプロスペロは、この命令を文字通 りにとって、自分の全財産を施したのであった。
7月26日
ヨアキムとアンナ
聖母マリアの両親について聖書は何も記さないが、キリスト教の伝承は彼らの名がヨアキムとアンナであったことと、その生涯の物語を伝えている。
ヨアキムはナザレトで生まれて、若い時にアンナと結婚した。長年の間、子供に恵まれなかったので、人々からさげすまれて、ついに彼は荒れ野に行って40日間断食して祈った。
アンナの父はアカルという名前のユダヤの遊牧民で、ナザレトヘ妻を連れて来て、そこで娘が生まれたと言われている。アンナも少なくとも1人の子供が与えられるように祈っていた。
ある日、月桂樹の下で祈っていた時、天使が現われて彼女の祈りが聞き入れられたことを告げた。アンナに、全世界で賛美される子供が与えられるというのであった。「私の神は生きておられるのですから、私のやどす子供は、男であっても女であっても、一生涯、私の神への贈り物として、清らかに神に仕えるでしよう」 と彼女は答えた。
アンナは、40歳頃におとめマリアの母となった。伝承によれば、ヨアキムとアンナはマリアの子イエズスの誕生まで生きながらえ、聖なる孫がエルサレムの神殿で奉献された直後に亡くなったと言われている。
ヨアキムとアンナの物語は福音書の中に出ていないので、初期の偽福音書の文書の中で、ヨアキムは度々、ヘリとか、またはサドク、ヨハキル、エリアチム、クレオパスなどの名を与えられている。
7月27日
パンタレオン医師
パンタレオンは3世紀にローマの貴族の家に生まれた。医学を学んで医者となったが、非常に評判がよかったので、時の皇帝マクシミアヌスは彼を宮廷づきの医師とした。彼はキリスト信者であったが、ふしだらな宮廷生活を送っているうちに信仰を失つてしまった。しかし、ヘルモラオスという仲間の信者が、パンタレオンに自分が棄てた信仰を思い出させた。その瞬間に彼は回心して信仰を取り戻し、貧しい病人たちを無料で治療し、自分の財産は全部施した。仲間の医師たちはパンタレオンの名声をねたんで、彼をキリスト信者として役人に訴え出た。パンタレオンは、残酷な刑罰を耐え忍んで、殉教の冠を得た。
コスマとダミアノと共に、パンタレオンは医師の守護の聖人であるが、彼の名は「あわれみに満ちる」という意味なので、なおさら保護者としてふさわしいのである。
7月28日
ナザリオとチェルソ殉教者
ネロ皇帝がローマでキリスト信者を迫害し始めた頃、信者であったローマの役人の息子のナザリオとその妻のペルペトゥアが、熱心にキリスト教の布教をしたので、彼らの友人たちは、この2人が刑罰を受けないように、ローマから出るように勧めた。ナザリオがミラノへ行った時、ゲルバスとプロタスという2人の信者が牢獄に居たのを発見して、身の危険もかえりみずに彼らを慰めに出かけたところを役人につかまって、むち打たれたあげく、市の城壁の外に投げ出された。
それにもひるまず、ナザリオは次にゴールへ行った。そこで、チェルソという子供の世話をするように頼まれたので、彼に洗礼を浮け、彼を連れてドイツのトリールへ行き、福音を宣べ伝えた。チェルソは、ナザリオを常に助けるようになった。しかしトリールにおいて、彼らはキリスト信者として訴えられ、ネロの命令によって海に投げこまれることになった。2人が船に乗せられて、海中に沈められたとたん、急に嵐が起こった。2人のキリスト信者を残酷に扱ったための罰だと思った水夫たちは、大いに恐れて、彼らをまた引き上げてしまった。 ナザリオとチェルソは、ジェノアに上陸して、そこからミラノへ行って宣教することに決めた。しかし、ミラノの役人たちは、2人を捕えて、首を切って殺した。
この2人の聖人は市の城壁の外の聖ゲルバスと聖プロタス殉教者の墓のすぐそばに葬られた。4世紀の終り頃、ミラノの司教アンプロジオは4人の殉教者の遺骨を発見して、使徒たちにささげられた新しい教会に、うやうやしく葬った。
7月29日
マルタ
エルサレムにほど近いベタニアの村に、イエズスの親しいマルタとその妹マリア、兄のラザロが住んでいて、イエズスは、度々彼らを訪れていた。ラザロが亡くなった時、マルタはイエズスを迎え、「主よ、もしここにいてくださいましたら、兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。そして、イエズスが求められることは何でも神が与られると信じていることをつけ加えた。
マルタの信仰に対して、イエズスは深い啓示の言葉を与えた。イエズスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終りの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエズスは言われた、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」。マルタは答えた、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。
7月30日
アブドンとセンネン殉教者
ローマのボンティアノの墓地の壁に、アブドンとセンネンという2人の殉教者が描かれている。彼らはキリスト信者となったペルシャ人で、ディオクレチアヌス皇帝の迫害の時に捕えられたと伝えられているが、おそらくローマ軍がペルシャで戦った時に囚人になったのであろう。イエズスを否認するよりは死を選んだキリスト信者たちの栄えある伝統に従ったアブドンとセンネンは、ローマ人が2つの偶像を持ってきて拝ませようとした時、その上につばを吐きかけた。
このため2人は死刑の宣告を安け、円戯場に連れて来られて、動物の餅食になることに決まった。ところが、熊もライオンも2人にかみつこうとしなかった。仕方なく、闘士の手によって残酷にめった切りされた のだった。その遺体は、クイリヌスという勇気あるローマ人が葬ったが、後にコンスタンティヌス大帝がキリスト教の支持者になった時、ボンティアノの墓地に丁重に移したのであった。
7月31日
イグナチオ・ロヨラ司祭
1491年、スペインの北部バスクの貴族の家に生まれたイグナチオは、最初ナガラ公の軍隊の士官として勤務していたが、1521年の春、スペインとフランスの間に戦争が起こった時、大きな傷を負って何か月も療養しなければならなくなった。イグナチオはその間にキリスト伝や聖人伝を読んですべてを捨ててキリストに従う決心をした。「この聖人たちは、私と同じ人間なのだから、私でも彼らのような聖人になれるはずだ」と彼は思ったのだった。その時からイグナチオは軍服を脱いで物乞いのような服装に着替え、聖母マリアの有名な巡礼地モンセラトに行き、そこのベネディクト会修道院の聖母の絵の前に自分の剣を奉献した。
それから、イグナチオはマンレサに退いて、有名な「心霊修業」を書き始めたが、それは霊魂を日毎に神に近づける貴重な指導書となった。
次にイグナチオが行った所はローマとエルサレムであったが、ヤッフアからは騾馬に乗って聖都へ行った。ヨーロッパに帰ってから7年間、スペインとパリの大学で勉学し、6人の同志を集めて、パリでイユズス会を創立した。その時に仲間と共に心霊修業を行ない、清貧、貞瀕、従順の誓願を立てた。そして、勉強が終ってから、パレスチナヘ行ってキリスト教を宣べ伝えようと望んだが、中東における戦争のためにそれは不可能なったので、その代わりに、イグナチオとその仲間は教皇パウロ3世に奉仕を申し出た。1540年、教皇は正式にイエズス会を認可された。イグナチオは初代の総長として16年間その重責を果 たし発展を見守った。その間に、1000人以上ものイエズス会の会員がヨーロッパやアメリカばかりでなく、日本、インドなどで、宣教師として、また大学その他の大学で活躍した。
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