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8月の聖者カレンダー

81
アルフォンソ・リゴリ司教教会博士
 
 1696年ナポリの近くで生まれたアルフォンソ・リゴリは、わずか16歳で教会法と民法の博士号を取り、8年間、弁護士として多くの人々を助けていた。ところが、ある日莫大な価格を持つ土地の訴訟事件を引き受け、彼の見込みでは自分の担当した側に勝算があったが、重要な書類を見落としたばかりに、思いもかけず負けてしまった。これは、彼にとって非常な打撃となり、再び法廷に出ることはしないと決心した。 アルフォンソが司祭に叙階されたのは、1726年で、その時からナポリの近辺で説教し始めて有名な説教家となった。そして、数人の同志と共にレデンプトール会の創立に着手し始めた。しかし、会の内外から起こった試練は、アルフォンソの心を苦しめ、健康にも影響する程であった。1749年にこの修道会は正式に認可されて、アルフォンソは42年間会長として指導した。1767年からは聖アガタ・デ・コチ教区の司教となり、13年間教区司牧の激務にたずさわった。その間に倫理、修徳、司牧神学に関する多くの著書を著わしたが、特にその不朽の名著『倫理神学』において、カトリック倫理神学の体系化を完成した。アルフォンソは、人間の行為の中で、どれが全く罪であり、どれが単なる過ちであるかを分析しようと試みた。修徳神学においては、完徳の本質は被造物から離脱し、神の意志に従うことにあって、神に対する恐れや心配にはないことを説き、その実際的方法として、節欲、特に聖体の秘跡のひんばんな拝領および祈りを勧めた。
 アルフォンソ・リゴリは、1787年、92歳で実り豊かな生涯を閉じたが、彼の著書は今に至るまで多数の人々を救い主イエズス・キリストにより近く引きつける役割を果 たしているのである。

2.jpg8月2日
ベルチェッリのエウゼビオ司教
 
 エウゼビオは、286年イタリアのサルデーニヤで生まれ、ローマで教育を受けて、340年にベルチェッリの司教に任命された。彼は、祈りの生活を養う最善の方法は、仲間の司祭たちといっしょに修道者の共同体のように暮らして、互いに助け合うことだと確信して、このような霊的生活を奨励した。
 その頃、アリウス派の異端者たちがキリストが神性と人性を持たれることを否定していたが、大神学者のアタナジオがほとんど独りで異端者たちに反対していた。その時の皇帝はアタナジオに大反対して、司教たちを集めてこの偉大な聖人を罪に定めるように命令した。エウゼビオは、その司教たちの1人であったが、死の危険もかえりみず断固と拒絶したためにパレスチナへ追放され、アタナジオの敵に渡されて屈辱をうけた。361年に皇帝が亡くなり、エウゼビオも自由の身となった。
 多くの学者たちはエウゼビオが有名な「アタナジオ信経」を手伝って書いたと言っている。この信経はカトリックとプロテスタントの信者たちに、彼らの信仰および救い主についての理解を深める上で、非常に大きな影響を及ぼした。彼は371年に亡くなった。
 

3.jpg8月3日
ニコデモ
 
 エルサレムのユダヤ人の最高評議会および、最高裁判所であった衆議会は、イエズスを死刑にしようと望んだ。イエズスに対して同情を示すような衆議会の議員は誰でも仲間から反逆者、そして追放されるべき者として見られたに違いない。
 しかし、議員の1人のニコデモがそのような人であった。イエズスが裁判にかけられる前にニコデモは夜ひそかにイエズスに会いに来て、神の国を見るとは何を意味するかを尋ねた、と聖ヨハネは記している。
 この時、こコデモはイエズスに対する信仰をはのめかして言った。「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです」。
 イエズスは、聖霊と洗礼によって再び生まれることを彼に教えようと試みられた。
 聖ヨハネは、イエズスが次の言葉を言われたのはニコデモに対してであったとさえ言った。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 

4.jpg8月4日
ヨハネ・バプティスタ・ヴィアンネ司祭
 
 ヨハネ・バプティスタ・ヴィアンネは、貧しい農家に生まれ、神学校での学業成積はよくなかったが、信仰あつく、熱心さでは誰よりもすぐれていた。
 1814年に司祭となり、4年後にフランスの南東部のアルス村の主任司祭に任命された。その村の人々は皆カトリックであったが不熱心であった。しかしヴィアンネの忍耐と善い模範が、10年後にはアルスをキリスト教の精神でみなぎる村に変化させた。まもなく、アルスの司祭に祝福や赦しの秘跡を願う信者たちが、フランス国内ばかりでなく、国外からも続々とつめかけて、1855年には1年間に2万人に達したと言われた。
 フランス政府はヴィアンネに「レジオン・ドノール」勲章を授けた。彼は非常に驚いて言った。「もし私が死んで神の前に出たら、神が私に、おまえは、もう褒美をもらっているのだから、あちらへ行けと言われるかもしれない」。そのためヴィアンネは、古い司祭服に勲章のメダルを付けることを拒絶した。
 ヨハネ・バプティスタ・ヴィアンネは1859年に永遠の休息に入った。
 

5.jpg8月5日
アフラ殉教女
 
 アフラは、初め売春婦であったが、スペインのヘローナの司教が迫害のために教区から追われて、アウクスブルクのアフラの母の家に泊まった時に改心した。その時からアフラの生活はすっかり変わって、前に犯した罪を絶えず償い、どんな苦しみも甘んじて忍んだ。彼女がキリスト信者であることを訴えられて異教徒の裁判官の前に引き出された時に、裁判官はアフラに向かって、彼女のような罪深い女は、神がほっておかれるだろうと言った。アフラは、「私はもちろんキリスト信者と呼ばれる価値はありませんが、イエズス・キリストがたしかに信者にしてくださいました」と答えた。
 また、さらに続けて 
 「私の体は罪を犯しました。苦しませてください。私は偶像崇拝で私の魂をほろぼしません」と裁判官の前で言った。死刑執行人たちは、レヒ川の中の島に火刑用の柱を立ててアフラを縛りつけ、乾いた葡菌の枝を周りに積み上げて火をつけた。
 その夜、アフラの母と3人の女性が島へ行ってアフラの遺骨を拾って、アウクスブルクの大きな墓へ持ってきた。この愛の行為を見た異教の役人たちは4人の女性を家族の墓の中に閉じこめて火を放ったので、彼女たちもアフラと同様に焼死した。

6.jpg8月6日
ユストとバストル殉教者
 
 4世紀の初め頃、キリスト信者を迫害した皇帝を助けた人々の中にデシアンというスペインの総督が居て、暴力をふるって信者をおどしながらスペインを巡っていた。304年デシアンはアルカラ市に到着して、もし信仰を棄てなければ死刑にすると市民に宣言した。その時、ユストとバストルという2人の少年がこのことを聞いて、自分たちも大人に負けずに強い信仰を示そうと決心した。ユストは13歳、パストルは9歳であったので、デシアンは、このように年若の子供をおびやかすことは至極簡単だと思って、2人を残酷にむち打たせた。しかし、少年たちは苦しみを耐え忍びながら互いに励ましあった。 
 デシアンは、2人のすばらしい勇気に屈辱を感じ、彼らを殺そうと決心したが、公の場所ではなく、アルカラ市外で、誰も居なかっ時に首を斬って殺した。しかし、仲間の信者たちが2人の死体を発見して、彼らが殉教した場所へ埋葬した。
 今日、聖ュストと聖バストルはアルカラとマドリッドの守護の聖人の中に数えられている。彼らの遺骨は8世紀に発見されてウエスカに持って行かれたが、1568年アルカラヘ戻されて、大学の聖堂の大祭壇の下に安置されている。
 

7.jpg8月7日
シクスト2世教皇殉教者
 
 シクスト2世教皇は、ギリシャの哲学者であったが、キリスト教信者となって教会における最高の地位 についた。しかし在位僅か1年で、258年に殉教した。
 シクスト2世教皇は、異端者によって洗礼を授けられた者は、真に洗礼を受けたのではないということを確信していた。しかし、自分に同意しない神学者たちを破門したり、処罰したりすることは決してしなかった。
 後世になって教会は、異端者でも洗礼の正しい意向と教会の式文を使って洗礼を授けたならば、受洗者は確かにキリスト信者になったのだということを宣言した。たとえ洗礼を授けた人がまちがったことを信じていても、キリスト教に入った男や女が何故に異教徒とみなされなければならないだろうか?
 257年ヴァレリアヌス皇帝は、キリスト信者を処罰するという最初の布告を出し、信仰を棄てない者の畑も土地も、名誉、財産も没収し、死刑にすることを命令した。教皇はアッピア街道のカタコンブに身を隠して、椅子に腰かけて信者たちに説教しているところを発見され、斬首の刑に処せられた。その時、4人の助祭も共に殉教した。彼らの遺体は信者たちに運ばれて聖カリスト墓地に埋葬された。シクスト2世教皇はローマの初期の教会で最も敬われた殉教者の1人であった。
 

8.jpg8月8日
ドミニコ司祭
 
 1170年スペインのカステイリアで生まれたドミニコは25歳で司祭に叙階されて、オスマの司教座大聖堂付参事会の一員になった。その頃、フランスの南部はアルピ派の異端の牙にかかって信仰が衰えるとともに、多くの教会や修道院が焼きはらわれ貧しくなっていた。
 アルビ派は善悪こ神の存在を説き、霊魂は善神に、肉体や物質は悪神に造られたとして、極端な物質軽視、肉体の罪悪視を教えこんでいた。
 オスマの司教はドミニコを選んで、異端者たちを教会に連れ戻すように努力させたが、ドミニコは常に忍耐強い愛と正統な理論で人々を感化した。そればかりでなく、彼は信者たちに祈り、特に「天使祝詞」を唱えることをすすめ、こうしてロザリオの祈りが教会全体に広まるようになった。
 しかし、ドミニコの方法とは全く反対に武力によって異端者を改心させようとする試みが起きたのも、その当時であった。それはレイセスターの伯爵シモン・ド・モンフォールにひきいられた軍隊が南フランスの美しい都市に攻めこんで火を放ち、住民を殺した事件である。
 ドミニコは、異端者たちが殺されるのを見るに忍びなかった。
 そのうちに、ドミニコと同じ志を持つ司祭たちが集まってきたので、ドミニコは1215年、教皇インノチェント3世に対し、説教、司牧、教育などをもって布教する傾道会則立の計画を打ち明け、ついにその承認を得た。次いで翌年、教皇ホノリオ3世によって「説教兄弟会」としてドミニコ会が公認された。
 創立から10年もたたないうちに会員は500人にのぼり、またたくまに全ヨーロッパに修道院が創立された。さらに女性のための観想修道院も各地に建てられ、在俗信者のための第三会も生まれた。
 謙遜な聖ドミニコは司教に任命されることを3度も拒絶して、司祭として一生涯を過ごし、1221年に世を去った。
 

9.jpg8月9日
ノーサンブリアのオズワルド殉教者
 
 1660年イタリアのウルビノで生まれたヴェロニカ(本名はウルスラ)は、幼い時から修道院に入りたいと望んでいたが、父のフランシスコは大反対で、よい夫を選んで早く結婚させようと計画していた。ヴェロニカは、他の人々が自分の祈りに参加しない時は、不満を表に出すという欠点を持っていたが、ある日、まぼろしの中で自分の心が鉄で造られているのを見て、その時から非常に優しくなった。彼女は絶えずキリストの受難を黙想して、人々の救いのために祈った。
 1677年彼女はウンブリアのクララ修道会に入ってヴェロニカという名前をとった。そこで彼女は修練長として36年過ごし、その後1727年に死去するまで院長として過ごして、修練女たちを世話し、修道院の雑事に献身しながら、祈りと黙想に励んだ。1697年の聖金曜日、ヴェロニカが主の苦しみを然想していると、十字架上のイエズスの5つの聖痕から強い光が出て、彼女の両手両足と脇腹を貫き、主と同じ5つの傷跡をしるした。しかし、こめ傷によって彼女は人々の好奇心や疑惑の的になり、非常に苦しんだ。チッタ・ディ・カステッロの司教は彼女を疑って長い間、ヴェロニカが人の前に出ることを禁じたが、ついに聖痕の真正さを認めて、前のように通 常の生活をすることを許した。
 彼女の死後、遺体の検査がなされると、キリストの受難の聖痕と同じような傷が発見された。
 

10.jpg8月10日
ラウレンチオ助祭殉教者
 
 ラウレンチオは、スペイン人であったが、シクスト2世教皇に助祭として仕えるためにローマに来た。ヴァレリアヌス皇帝の迫害の時、258年に教皇が死刑を宣告されたので、ラウレンチオは非常に悲しんで、教皇のあとを追って死刑場に行き、なぜ教皇が殺されて助祭の自分は殺されないのかと尋ねた。教皇は「私はあなたを残すのではない。3日後にはあなたも、わたしのあとを追うことになるだろう」と答えた。
 ラウレンチオは教皇に従って殉教することを大いに喜んだが、その前にするべきことが一つあった。
 彼はすべての貧しい人々、孤児、未亡人をたくさん集めて自分の財産を施した。その上、教会の金や銀の幾分かも売り払って因っている人々に与えた。
 ローマの総督はラウレンチオに教会の全財産を政府に引き渡すように命じた。彼は3日間の猶予を求めて、その問に、ハンセン病者や盲人などを多数集めて総督の前に連れて来て言った。「教会は真に富んでいます。 あなたの皇帝よりもずっと金持ちです」。
 総督は非常に怒ってラウレンチオをゆっくり殺すと脅迫し、大きな鉄格子の上に彼をのせ、とろ火で体を焼いて、残酷に殺害した。息を引き取る前にラウレンチオはローマ市のために祈った。
 

11.jpg8月11日
クララ修道女
 
 アッシジの富裕な貴族の娘であったクララ・オッフレドウツチョは、フランシスコの生活と働きに心を打たれ、自分の全財産を捨てて、アシジから2マイルはど離れたポルティウンクラの村で彼の弟子となった。フランシスコは女性のための修道院は創っていなかったので、バスチアの近くのベネディクト会女子修道院にクララを送って生活させた。しかし、1215年には女子修道院を建ててクララを院長に任命して、彼女は1253年に帰天するまでその任にとどまった。
 クララは完全な清貧を守る特権を教皇から与えられて喜び、「貧しいクララ会」と呼ばれた彼女の修道会は、共同体としての土地も所有しなかった。修道女たちは決して肉食をせず、靴下も靴もはかなかった。クララは仲間の修道女たちよりもさらに自身に対してきびしく、四句節中はパンと水で生命をつないだ。
 後の教皇たちがクララ会の絶対的な清貧の規則をゆるめるため、少なくとも共同の土地を受けいれるように勧めた時も、クララはそれを辞退した。晩年に、クララは仲間の修道女たちに対して幾分かきびしさを和らげるようになって、プラハのシスター・アグネスに「私たちの体はしんちゅうで出来ているのではありませんから」と書いた。街に出て施しの品物を貰って帰って、修道女たちの足にクララは接吻し、寒い夜には修道院をまわって、皆が十分に暖かくして休んでいるかを確かめるのだった。
 

12.jpg 8月12日
エウプリオ殉教者
 
 ディオクレチアヌス皇帝の迫害の時代、304年にシチリアのカタニアでエウプリオという助祭が貧しい人々に福音を読んでいるところを発見された。早速、総督のカルヴィシアヌスの前に連れ出されたエウプリオは、以前から信仰のために死ぬ ことを予期していたので、「自分は殉教の覚悟をしている」と言った。
 エウプリオが四福音書を手に持っているのを見た総督は、このような本を持つことは不法だと彼を責めた。エウプリオは、キリストのために忍ぶ苦しみについての文章(箇所)を彼に読んで聞かせた。
 「義のために迫害される人々は、幸である。天の国はその人たちのものである」。 
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
 カルヴィシアヌスは、エウプリオが法律に背いていることを白状していると思いこんで、彼を拷問台の上に横たえるように命じた。責め苦を耐え忍びながらエウプリオはなおもイエズスに祈り続けていると、カルヴィシアヌスは異教の三神のアポロとマルスとエスクラピウスを拝むように命令した。この瞬間に、エウプリオは三位 一体に対する深い信仰をくり返して言い表わした.「私はただ父と子と聖霊のみを礼拝する。他に神は存在しない」。 
 エウプリオを苦しめていた男たちはまた拷問を続けた。彼は苦痛のため言葉が途切れて、ただ唇だけが動いているだけだったが、なおも祈り続けていた。ついにカルヴイシアヌスはエウプリオに斬首の刑を宣告した。
 死刑執行人はエウプリオの福音書を聖人の首のまわりにぶら下げた。しかし、これは「神々と皇帝の敵」として刑場に連れて行かれる時に、かえって彼の喜びを増したのであった。
 

8月13日
ヒッポリト司祭殉教者
 
 ヒッポリトは3世紀の最も重要なローマの神学者であったが、同時に最初の「対立教皇」であったので、なぜこのような人が聖人になったのか不思議に思われるかもしれない。彼は教皇ゼフイリノの教えに反対して、ゼフイリノの後継者のカリスト教皇の時、離教して対立教皇として独立した。しかし、彼を再び教会に立ち帰らせたのは、マクシミヌス皇帝の迫害であった。ヒッポリトはボンチアノ教皇と共に逮捕されて、サルデーニヤ島へ流された。そこで2人は親しい友人となって、ボンチアノはヒッポリトを再び教会に連れ戻したのだった。そして236年頃2人は殉教して、その遺体はローマに持ち帰られた。
 後世になって、ヒッポリトの殉教の事実を伝えるたくさんの物語が流布された。彼は聖ラウレンチオの葬式に行ったため、その罰として野生の2頭の馬にくくりつけられ、地上を引きずりまわされて、ついに息が絶えた。最後の言葉は、「主よ、彼らは私の体をこわしてしまいました。どうぞ私の魂を受け取ってください」であった。
 1551年、ローマ郊外のヴィア・ティブルティーナの一部を発掘した時に、ヒッポリトの首無しの彫像が発見された。彼の椅子の両側には復活祭の日付を計算する表が記録されてあった。聖人を教師として示すこの肖像は、その生存中に造られたものであった。
 ヒッポリトは、旧約聖書のダニエル書や雅歌を注解し、詩編の解釈も書いたが、最も興味深い著作は「使徒の伝承」で、これは3世紀初期のローマの教会の生活と典礼について述べている。彼はキリスト教の伝統を強めることを熱望し、新しい祝日や新しい断食など、彼が「新奇なこと」と呼んだことを導入した人々に反対した。ある学者たちが言うように、ヒッポリトの文章のスタイルはすぐれていなくとも、確かに彼は熱情的で非常に学識ある学者であった。
 

14.jpg8月14日
マクシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者
 
 マクシミリアノ・コルベは、1894年ポーランドで生まれ、幼い時から聖母マリアに対して深い信心を持っていた。コンヴェンツアル聖フランシスコ会に入会して1918年ローマで司祭となった。ローマに滞在中同志6人と共に「無原罪の聖母の筒土会」という名の信心会を創立して、聖母に対する信心をひろめることを志し、ポーランドに帰ってから月刊誌「無原罪の聖母の騨土」を発行し始めた。1930年2人の修道士と日本に来て、長崎で直ちに「聖母の椅士」を発行したが、1936年、会議に出席するためポーランドに帰った。しかし、健康を害していたため、母国で院長を務めるかたわら「聖母の賠士」などを発行した。第2次大戦が始まり、ドイツ軍がポーランドに侵入した時、コルベ神父は逮捕されてアウシュビッツ強制収容所に送られた。ある日、1人の囚人が逃亡したので所長は10人の囚人を選んで餓死させることにした。その1人は妻子のある士官だったので、コルベ神父は身代わりになることを申し出た。彼は死んで行く囚人を慰めていたが、所長は神父の態度に我慢ができず、炭酸を注射して毒殺してしまった。それは1941年7月で、コルベ神父は47歳であった。
 

15.jpg8月15日
聖母マリア
 
 「イエズスの母マリアは、ヨゼフと婚約していたが、2人がいっしょになる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と、聖マタイは書いた。聖ルカ福音書は、このことが大天使ガブリエルによってマリアに告げられたことを付け加えて書いている。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは単純に答えた。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
 マリアが、エリザベトを訪ねた時、エリザベトはさけんだ。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。
 マリアが美しいマニフイカトを歌ったのはこの時であった。
 イエズスの公生活の出来事の中に、マリアは時々現われるが、聖ヨハネによれば、御受難の時、十字架上で死のうとされるイエズスをマリアが見守った時、母と子の問の最も深い感情の瞬間が来たのだった。マリアが、イエズスが愛された弟子のそばに立っていると、イエズスは、マリアに「御覧なさい。あなたの子です」。そして、ヨハネに「見なさい、あなたの母です」と言われた。その時から弟子はマリアを自分の家に引き取った。
 福音書におけるマリアについての最後の記録は、使徒行録に出てくる。エルサレムで聖霊が使徒たちの上に降られた時、マリアもそこに居たのであった。一生を罪の汚れなく過ごした聖母マリアの被昇天を教会は昔から伝承として守ってきたが、1950年教皇ピオ12世は、それを信仰箇条として、次のように宣言した。「神の無原罪のおん母、終生処女マリアが地上の生活を終えて霊魂と同時に身体をも天の光栄に上げられた」。
 

16.jpg8月16日
ロック
 
 中世紀の頃には、伝染病よけの保護の聖人として信者たちが祈りをささげた聖人は多かったが、中でも最も人気があったのは聖ロックであった。彼は1295年フランスのモンペリエの総督の息子として生まれ、20歳になる前に両親を亡くし、莫大な財産を相続した。しかし、ロックはすべての持ち物を貧しい人々に施して、ローマに巡礼することを決心した。
 彼がイタリアに到着した時は、国中にペストが流行して人々が苦しんでいたが、治療法もない状態だった。患者を世話する人は誰でも聖人のように尊敬されていた。ロックも病室に閉じこもって患者の看護をしていたが、患者を治すこともできると信じられていた。事実、彼が患者の上に十字架の印をすると、多くの人々が奇跡的に治ったのだった。
 やがてロックもペストにかかって、ピアチェンツアの近くの森の中に入って、独りで死のうとしたところ、1匹の犬が来て、彼の傷をなめたり、食物を持って来たりしたので、ロックはまもなく全快したと伝えられている。
 ついにロックは故郷のモンペリエに帰ったが、誰も彼を見分けることができなかった。その上、当時、フランスのその地方は戦争で分裂していたので、彼はスパイと思われて牢嶽に入れられた。1378年に死去した時、彼が生まれた時から胸の上にあった十字形のあざが発見されて、ロックの素姓がわかった。不正に投獄された聖人のために立派な葬儀が行なわれた。
 ロックの列聖が早められた理由は、コンスタンツ公会議が1414年と1418年の間に行なわれた時、伝染病がその地方に流行したため、出席者たちは急いでロックの取り次ぎを祈ったところ、すぐに病気が治って彼への崇敬が認められたからであった。
 ロックは、度々犬といっしょに描かれているが、それは彼自身が病気の時に助けてくれた伝説の犬に関係しているのである。
 

8月17日
ヒアチント宣教師
 
 ヒアチントは1185年、ポーランドで生まれ、1218年ローマでドミニコ会へ入会し、3年後に宣教説教師としてクラクウヘ送られた。
 当時のクラクウは風俗の乱れた所であったが、ヒアチントの説教で多くの人々が回心して善い生活をするようになった。貴族でさえも謙遜になり、長い間の争いも終りを告げた。ヒアチントは、不思議なことを行なうよりは、むしろ言葉で男女を改心させることを望んだ。
 彼はドミニコ会修道院をサンドミルとプロツタおよびタラクウに創立して、自分の説教の効果 を恒久的なものにしたいと望んでいた。それから、遠い北方の荒れ地へ旅して、バルテイク海に到着し、デンマークとノルウェー、そしてスウェーデンに行ったが、常に各地に修道院を創立して、そこから説教者が出て、彼の仕事を堅固なものにするようにとりはからった。
 こうして絶え間なく働いたヒアチントは、ウクライナとルテニアとロシアに行き、「北方の使徒」という名が彼に与えられた。
 ヒアテントの奇跡といわれているものはたくさんあるが、特別 な奇跡は、ある貴族の婦人が息子を使いに出して、自分の召使いや小作人たちを改宗させるために彼を招いた時に起きた。その息子は途中で川を凍った時に水に溺れて死んだので、遺体を聖人のもとに運んだ。ヒアチントは若者の手を取って祈って、よみがえらせた。これは1257年であった。
 同年8月8日、聖ドミニコの祝日に、ヒアチントは72歳で、病者の秘跡を受けて帰天した。
 

18.jpg8月18日
ヘレナ皇太后
 
 ヘレナは、大きな栄誉と共に非常な屈辱を経験したが、いつも健気にそれを受けとめて、立派な生涯を送った。彼女は255年頃、小アジアのビチニア州の宿屋の主人の娘として生まれ、ローマの将軍クロルスと結婚してコンスタンティヌスを生んだ。293年クロルスはローマ帝国西部の総督に任ぜられた。その時、明らかに政治的な理由でクロルスはヘレナと離婚して、マクシミアヌス皇帝の皇女をめとり14年間の総督の任務を果 たして306年に死んだ。
 父の後継者となったコンスタンティヌスは、312年にローマ郊外ミルヴィオで強敵に勝ってローマに入城し、皇帝となり、キリスト教の信仰を許し始めた。そして母のヘレナに皇太后アウグスタの尊号を贈り、貨幣には彼女の像が刻まれた。
 63歳の時にヘレナは洗礼を受けて信者となり、教会を建て、貧しい人々を愛し、自ら質素な服装で歩きまわった。  324年ヘレナが70歳になった時、聖地ェルサレムに巡礼することを志した。エルサレムではハドリアヌス皇帝がカルワリオ丘の上に女神ヴィーナスにささげられた神殿を建てていたので、ヘレナはそれを取り去り、コンスタンティヌス皇帝に費用を出させて大きな教会を建て、苦心の末、キリストの十字架を発見したのであった。
 へレナの死後65年目の395年に、ミラノのアンプロジオ司教は、ヘレナがイエズスがつけられた十字架を発見したと確認して、「彼女は木を礼拝したのではなく、木に釘つけられた王を礼拝したのだ」と言った。十字架の一部分はエルサレムで保存され、他の部分はローマに送られた。
 ヘレナは余生をパレスチナで送ったが、亡くなった時にその遺体は荘厳にローマヘ送られた。
 教会史家のエウせビオは、次のように書いた。「ヘレナは、質素な服装をして、常に教会で他の婦人たちと共に、皆の前で祈っていた。彼女は大聖堂を立派な装飾で飾ったが、町や村の小さな聖堂も忘れることはなかった」。
 

19.jpg8月19日
ヨハネ・ユーデ司祭
 
 ヨハネ・ユーデは、北フランスのノルマンディの農夫の息子として生まれて、オラトリオ会員となったが、生活の乱れた女性たちの世話をしようという志を立てた。
 1641年、マドレーヌ・レミーという女性に勧められてカーン市にそのような女性たちを収容する家を作ったが、この仕事に従事していた女性たちが、自分たちのグループに愛徳の聖母姉妹会という名をつけた。価値あるこの事業も、その当時はあまり理解されず、反対者も多かった。
 ヨハネはオラトリオ会を出て、聖職者の標準を高めるために司祭の修道会を創立することを決心した。イエズス・マリア会と彼が呼んだこの会も、各方面 から攻撃された。彼は信頼していた友人をローマに送って、教皇の認可を受けようとしたが、2度目にやっと得ることができた。
 この試練の最中も、ヨハネ・ユーデは力強く説教することを決して止めなかった。特に教会の外に居る人たちを救うことを目指していた。79歳の時、彼は野外で9週間続けて説教したが、これが年とった聖人をすっかり疲れさせて、同年過労のために主の御許に帰った。
 

20.jpg8月20日
クレールヴォーの聖ベルナルド修道院長
 
 ベルナルドは、1113年フランスのブルゴーニュのディジョンの近くで貴族の子として生まれ、1113年までは怠惰な生活を送っていたが、その年、彼の4人の兄弟と27人の友人たちに勧めて自分といっしょにシトーの新しく、そしてきびしい修道院に入らせた。若いベルナルドが刷新された修道院の理想を非常に熱心に実践しているのに感心した修道院長は、シャンパーニュのクレールヴォーに新しい分院を創立するために、2年後に彼を派遣した。
 ベルナルドの弟子たちの中には有名な人物が多数出て、1145年にその1人が教皇となったが、ベルナルドから受けた深い霊性について常に彼に感謝していた。
 ベルナルドは、修道院の静寂の中で神との親しい交わりを愛していたが、神の思召しにより度々長い旅行をし、教会の重大な行政上の諸問題の解決に力を厚くした。ランゲドックのアルビ派の異端やペトロ・アベラルの誤りを攻撃し、聖地奪回のための第2回十字軍編成のため、力強い説教を行ない、ラインランドにおけるユタヤ人の虐殺を中止させることに成功した。こうして、神の光栄のため、人々の救霊のため一生をささげつくしたベルナルドは、1153年クレールヴォーでこの世を去った。
 

21.jpg8月21日
ピオ10世教皇
 
 「私は貧しく生まれて、貧しく育った。私は貧しく死にたい」と、ピオ10世教皇は言った。事実、彼はイタリアのトレヴィゾの近くに住んでいた靴屋で郵便配達夫もしていたサルトの次男であった。村の小学校を卒業してから、1850年パドアの神学校に入った。司祭に叙階されたのは1858年で、次の17年は小教区の司祭を忠実に務めて、1875年トレヴィゾ教区の参事会会員に任命され、9年後にマントヴァの司教に任命されたが、それまで活気のなかった教区が、彼の在任中に霊的活力をすっかりとり戻した。
 教皇に選ばれたのは1903年であった。「すべてをキリストにおいて新たにすること」を目指してピオ10世は、20世紀初頭の混乱した社会をキリストの精神に従って建て直すため、経験豊かな実践的知力と強じんな意志とをもって、さながら「燃ゆる火」のように活躍した。まず教皇庁の改革と教会法の法典化に乗り出し、司祭養成の方法の改革、民衆の宗教教育、聖歌と聖務日課の改革などを次々に断行した。特に「聖体の教皇」の名にふさわしく毎日の聖体拝領、7歳以上の子供の聖体拝領を奨励した。
 こうして世界中の人々から真理と完徳の灯台のように仰がれたピオ10世は、在位 11年目の1914年、第1次世界大戦の勃発に当たり、和平のための努力も実を結ばず、心痛のあまり病気となり亡くなった。
 

22.jpg8月22日
聖シンフオリアノ殉教者
 
 シンフオリアノは、ゴールのオータン市に住んでいたが、そこでは、シベルという異教の女神が特に崇められていた。その祝日には女神の像が車に乗せられてオータンの街路を巡り、群衆が頭を下げて礼拝するのが常だった。 
 その儀式に参加していた総督のヘラクリウスは、シベルをすべての神々の母として拝むようにシンフオリアノに命令した。しかし、彼は唯一の神だけを拝むと言い張って、シベルの像を打ちくだくために金づちを求めた。
 総督はシンフオリアノが貴族の出だと聞いて、その時は許そうと思ったが、シンフオリアノは固く信仰を守ったので、むち打ちの刑に処せられた。それでも彼は心を変えなかった。
 最後に首を切られることになって、城壁外の死刑場に連れて行かれた。ちょうどその時、シンフオリアノの母が壁の上に立っていて、自分の息子に向かって叫んだ。「シンフオリアノ、恐れてはいけません。死ねば、まっすぐに天国へ行かれるのだから」。死刑執行人は彼の首を切り、遺体は墓に葬られた。5世紀の中頃、オータン市の司教は大きな教会をそこに建てた。
 

23.jpg8月23日
フイリボ・ベニツイ司祭
 
 フイリボ・ベニツイは1232年イタリアのフィレンツェで生まれたが、その頃同市の7人の人々が「聖母のしもべ会」という修道会を創立した。フイリボは大学で医学の学位 を取って故郷に帰り、医師の仕事をすることになった。しかし、聖書や教父たちの著者を勉強することに、より大きな興味を持ち始めた。そして「聖母のしもべ会」に召命があることを確信して、1254年に入会し、数年聞この新しい修道会の畑や台所で働いた。その間彼の深い学問は誰にも知られなかった。
 しかし1258年のある日、用事があってシエナに送られる途中、ドミニコ会の修道士たちに出会って話している間に、無意識のうちに自分の優れた知能を示してしまった。このような才能を持つ者が隠れているという噂は、ついに聖母のしもべ会の総長の耳に達し、彼はまず司祭に叙階され、説教家、また修道会の管理者として活躍するようになった。1267年には、心ならずも総長に任命された。彼の重要な仕事は、アジアに宣教師を送ったこと、女性のための「聖母のはしため会」の創立などであった。1268年にオットブオニ枢機卿がフイリボを次の教皇の候補者として推せんしたということを聞いた時、彼は選挙される危険が過ぎ去るまで身を隠した。
 フイリボは、北イタリアのゲルフとギベリンとの問の戦争を終らせようと望んで、このために説教師としての才能を十分に発揮した。彼は平和のために祈りながら1285年に帰天した。
 8月23日は、リマの聖女ローザの祝日でもある。彼女は聖であるとともに美しい少女であった。1617年に死去して、新世界における最初の聖女として、1671年に列聖された。
 

24.jpg8月24日
バルトロマイ使徒
 
 聖ヨハネ福音書は、イエズスと12使徒の1人であったバルトロマイとの間の驚くべき会話を記録する。
 イエズスはバルトロマイを、偽りのない人だと言われた。イエズスの未来の弟子はびっくりして尋ねた。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。イエズスは答えた。「わたしは、あなたがフイリボから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」  バルトロマイの疑いは消え去った。 
 「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言うと、イエズスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見るだろう」と付け加えられた。それから「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われた。
 後世の伝承は、イエズスの復活後、彼がインドとアルメニアに宣教に行って、アルメニアでアステイアゲ王の命令で生きながら皮膚をはがされた後、首をはねられたと伝えている。
 彼の肖像画には肉切り包丁が象徴として描かれている。彼の遺物はイタリアのベネベントに送られたと言われている。
 

25.jpg8月25日
ルイ9世(ルドヴィコ王)
 
 フランスの王ルイ9世は、12歳の時に王位 について、母カステイルのプランシェの摂政の後、1235年、実権を握って35年間、深い信仰、愛徳、英知をもって国を統治した。当時は残忍な時代であったが、彼は驚くほどあわれみ深い王であった。
 時々ルイ王の臣下たちは、王があまり長い時間祈っていることに対して不平を言った。これに対して王は、彼らがもっと多くの時間をばくちに費していると言い返した。王の唇から呪いの言葉を聞いた者は居なかった。王が常に言っていたことは、「あなたがたが、何かしたり、または言う時には、あとになってから、「あんなことはしなかった」とか「あんなことは言わなかった」と言う必要のないように、いつも注意しなければいけません」ということであった。
 ルイ9世は、貧しい人たちや病人たちをあばら家に喜んで訪ね、物乞いの足を洗ったこともあった。貴族の1人が、うさぎの密猟という小さな罪のために3人の子供を絞首刑にした時、ルイは彼を投獄したが、その仲間の裁判官による裁判をさせなかった。というのは、彼らはおそらく子供たちの絞首刑を支持したからであった。
 ルイは強く、敬虔な王であった。彼はトウールーズのライムンドのような反逆者を従えることによって幾分かフランスに繁栄をもたらした。またティユブルグでイギリスのへンリー3世を征服してギネンヌを支配し、貴族の間の争いを調停した。1248年に聖地エルサレムをとり返す十字軍を起こし、最初は戦いに勝ち進んだが、伝染病のために多数の将兵を失い、2年後に王自身も捕虜となって、身代金を払って自由となった。1270年ルイは再び十字軍を起こし、アフリカのチュニスに上陸したが、病気にかかって帰天した。
 ルイ王の時代は、すばらしいゴシック建築の時代であった。1239年、コンスタンティノープルの王が、イエズスの茨の冠と伝承されていた聖遺物を彼に与えた時、ルイは、パリにサン・シャペルという美しい教会を経てた。
 

26.jpg8月26日
ゼフイリーノ教皇
 
 198年から217年まで教皇であったゼフィリーノは、度々殉教者の中に数えられているが、彼は殺されたわけではない。
 ゼフィリーノを殉教者として扱う人々の意向は、当時のキリスト教の神学者たちの間に起きた大きな争いによって、彼が非常になやまされ、実際に心臓を痛めたことによるのである。しかし、ゼフィリーノは、カリストという助祭(彼は後に教皇となった)の助力により厳しさと愛徳とを常に保って、自分の誤りを悟った人々を喜んで迎え入れた。また、同時に、キリストに関する真理が信用のおけない教師たちによってゆがめられることの重大さを意識していた。
 とはいえ、ゼフイリーノの寛大さを批判する人々もいた。学者のヒッポリトは、誤まった教えを信じて離れて行く立派な信者たちを十分に抑制しないと言って、ゼフイリーノを非難した。ヒッポリトの批判が正しかったかどうかは別 として、ゼフイリーノは、必要だと自分が判断した時には厳しくすることができたことは確かであった。しかし、自分が悪かったことを認めて、立ち帰って来た者をいつでも快く迎え入れたのもゼフイリーノ教皇であった。
 

27.jpg8月27日
モニカ
 
 モニカは聖アウグスチノの母で、夫はパトリチオというかなりの道楽者であった。2人の間には3人の子供ができたが、長男はアウグスチノであった。371年、モニカが40歳で未亡人となった時、アウグスチノは18歳であった。
 モニカを何よりも悲しませたのはアウグスチノの生活であった。彼はある女性と結婚して男児をもうけ、非キリスト教的哲学にこり出して長い間キリスト信者にならなかった。「彼女は、他の母親たちが息子の死のために流す涙よりも、もっと多くの涙を私の霊的死のために流した」とアウグスチノは後で書いた。ちょうどその頃、モニカは、ある司教が、「たくさんの涙の子は決して失われることはない」と言った言葉で大いに慰められた。
 383年アウグスチノはイタリアに向かった。モニカも息子に従って行き、ミラノでアンプロジオ司教の忠実な弟子となった。アウグスチノも司教の教えに耳を傾け、しだいにキリスト教に心を惹かれていった。モニカがアンプロジオのために尽くしたのは、アウグスチノに救霊の道を示したいからであった。「アンプロジオの心は、モニカの敬虔な生活と、熱心な善業、忠実な礼拝によって暖められた。度々、彼は私に会った時、私の母をほめちぎって、私がこのような母を持っていることを喜んでくれた」とアウグスチノは書いた。
 4年後、モニカとアウグスチノがオスチアで窓の外を眺めながら天国について話していた時、モニカが言った。「私はこの世でまだ何をすべきか、また、なぜ私はこの世でぐずぐずしているのか、私は知らない。私がもう少し生きていたかった理由はたったひとつ。それは、死ぬ 前にカトリック信者としてのおまえを見ることだった。神様は私にこのお恵みを下さった。この世でもっとすることがあるだろうか」。 
 5日ほどたってからモニカは病気にかかり、しばらくして神の許へ帰った。
 

28.jpg8月28日
ヒッポのアウグスチノ司教教会博士
 
 アウグスチノは、父なる神に向かって言った。「あなたは私たちをあなた自身のために創られました。私たちの心はあなたの中に安息を見出すまで休むことはできません」。アウグスチノの知能的な神の探求は、マニ教、新プラトン主義を通 して、彼をキリスト教へ導いたのだった。彼の探求は倫理的、霊的、哲学的であった。1人の素性の正しくない女性をめとって、アデオダトウスという息子が生まれ、この子を愛した。アウグスチノが名誉と富、そしてまた神に全くささげられた生活との間で何を追求すべきか迷い苦しんでいた時、「取って読め、取って読め」と言う子供のような声が聞こえた。早速取り上げたのはパウロのローマ人への手紙で、その第13章の次の箇所が目にとまった。「酒宴と酪酎、争乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエズス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」。 
 それは決定的な瞬間であった。アウグスチノと息子、およびアリビウスという友人は387年の復活祭の前夜に洗礼を受けて、アウグスチノの母モニカを喜ばせた。 
 その後、アウグスチノは故郷のアフリカに帰って修道生活をしようと計画して、タガステで祈りと研究の生活を友人と共に始めた。そして司祭に叙階され、396年にヒッポの司教となった。以来35年間、説教や文筆でキリスト教の諸真理を説き、異端と戦った。
 彼の著作の中で、「告白録」と「神の国」は今に至るまでキリスト信者たちを教え、励ましている。「告白録」は驚くべき正直さと自己知識にあふれた著書であり、「神の国」は歴史哲学を説き、キリスト教と世俗との間の根本蹄な比較を示す。しかし、世界の都市は善を行なうその役目があることを教える。アウグスチノはこの本を書くために13年間かかった。
 430年ヴァングル族がヒッポ市の門まで侵入して来た時、アウグスチノは76歳で波乱万丈の生涯を閉じた。
 

29.jpg8月29日
洗礼者ヨハネの殉教
 
 イエズスに洗礼を授けてから間もなく、洗礼者ヨハネはガリラヤの分国王ヘロデ・アンチパスを非難し始めた。へロデは自分の妻と離婚して弟の妻ヘロデヤをめとったからであった。ヘロデは彼を牢獄に投げ入れた。
 ヘロデはヨハネとヨハネの弟子たちを恐れたばかりでなく、ヨハネが正しい人であることを知っていたので、ヨハネを殺そうとはしなかった。しかし、ヘロデヤは、何とかしてヨハネが殺されるようにしたいと機会をねらっていた。ところがある日、へロデは自分の誕生日を祝うために宮廷の役人や、ガリラヤの主だった人々を招いて宴会を開いた。その席で、ヘロデヤの娘サロメが踊りをおどって皆を喜ばせた。へロデはサロメに向かって、「ほしいものは何でもあげるから言いなさい。おまえがほしいと言うのなら、国の半分でもあげよう」とかたく約束した。サロメが母に何を願ったらよいか尋ねると、母は、「洗礼者ヨハネの首を」と答えた。
 ヘロデはサロメの願いに非常に心を痛めたが、すべての客の前で約束した手前、断るわけにはゆかず、その願いをきいて、すぐに衛兵を牢獄に送ってヨハネの首を斬らせた。衛兵はヨハネの首を盆にのせてサロメに漬し、サロメはそれを母に与えた。
 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、その死体をひきとって、墓に埋葬した。
 

30.jpg8月30日
フェリクスとアダウクト殉教者
 
 304年フェリクスがローマの教会で司祭として熱心に任務を果 たしていた時、ディオクレチアヌス皇帝による迫害が始まった。多くの信者と共に彼も捕えられて残酷に苦しめられたが、信仰を固く守ったので、ついに斬首の宣告を受けた。刑場に引き出されたフェリクスの落ちついた態度を見て感心した群衆の中の1人が大声で叫んだ。「私もこの人が公に宣言する同じおきてを守っている者です。私もイエズス・キリストを信じて、彼に従っています。私もその教えを広めるために命をささげます」。
 この男は、ローマの兵士に早速捕えられて、フェリクスと並んで首を斬られた。しかし、誰もこの人の名前を知らなかったので、彼は「アダウクト」と呼ばれた。この名の意味は「追加された者」である。
 2人の殉教者はオスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作られた殉教者のリストの中には、ただ、「フェリクスとアダウクト」として記録されているだけである。 
 およそ30年後に、ダマソ教皇は彼らの墓を作り直して、その上に碑銘を記した。
 

31.jpg8月31日
ライムンド・ノンナート司祭
 
 13世紀の初め、ランゲドクで生まれたペトロ・ノラスコがサラセン人によって奴隷として売られたキリスト信者たちを助けるためにメルセデという修道会を創立した。この会員として入会を許された人々の和こライムンド・ノンナートというスペインのカタロニア生まれの若者がいた。ライムンドの母は彼が生まれた時に死亡した。帝王切開の手術で胎内から赤児を取り出した大め、彼にはノンナート(ラテン語で、「生まれざる」という意味)という名前が与えられた。
 ペトロ・ノラスコが奴隷買い戻しの責任者としての仕事をライムンドにゆだねたので、彼はアフリカのアルジェリアへ多額の金を持っていって、多くの奴隷を買い戻した。
 身の代金が無くなった時、ライムンドは逃げて帰ることもできたが、数人の奴隷を残して帰るよりは、自分が身代わりになろうと決心した。
 今や、彼の生命は大きな危険にさらされた。アルジェリアのサラセン人たちは、ライムンドが数人の仲間を改宗させたと言って激怒した。総督は、彼を柱の上で突き刺して殺そうとしたが、これをまぬ がれたのは、ライムンドには多くの身の代金がかけられているだろうと思われたからだった。それにしても、彼が町の中で公にむち打たれたのは、キリスト教を学ぶように彼から勧められた人々に断念させるためだった。
 ライムンドが残酷な刑罰を8か月忍耐した後に、ペトロ・ノラスコがライムンドのため多額の身の代金を持って到着した。ライムンドは、あとに残ってもっと多数の男女をキリスト教信者にしたいと望んだが、ペトロ・ノラスコはこれを聞き入れなかった。
 ライムンドがスペインに帰った時、グレゴリオ9世教皇は彼を枢機卿に任命した。扱皇は彼をローマに呼ばれたが、その途中バルセロナの近くのカルドナに到着した時に倒れて、帰天した。1240年のことで、彼は36歳であった。