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9月1日
ジル修道院長
ジルは、8世紀の末にアテネで生まれたが、徐々にその地方で自分が有名になってきたことを嫌い、フランスに行って寂しい場所を探し、アルルの近くの今はサン・ジルと呼ばれている所に、隠者として落ち着くことになった。ジルは植物の根と水と、可愛がっていた鹿のミルクで生命をつないだ。3年間は誰にも妨げられずに過ごしたが、ある日、ゴートのフラヴィウス王が狩りに来て、ジルにミルクを与えていた鹿を猟犬が追いかけた。鹿はジルの所へ逃げて来た。狩人たちが鹿を射殺した時、彼らはジルが洞穴の近くに修道院を建てて、ジルに最初の院長になるように頼んだ。
彼の多くの弟子たちの中にカール大帝がいた。この大帝はジルに、自分は良心のとがめる罪があると言ったが、その1つはあまりはずかしくて告白できなかった。しかし、ジルはまぼろしの中でそれが何であるかを知って、王に告げた。その時から、王は特別 にジルを保護するようになった。
9月2日
ロスキルドのウィリアム司教
ウィリアムという名のアンダロ・サクソン人の司祭がクヌート王の宮廷付き司祭となった。ある日、王と共にデンマーク旅行した時、その地方における宣教の必要を大いに感じて、生涯そこに留まって働くことを決心した。やがて彼はゼーラントのロスキルドの司教に任命された。クヌート王の後継者であったスウェイン・エトストリドセン王は多くの長所をもった人物であったが、がんこでわがままな人で、キリスト教の掟には何度も背く行為をした。ウイリアムは王を責めたため自分の生命が危くなったこともあった。しかし、最後まで王の良い友人としてとどまることができた。福音の証しをすることは容易でなはかったとはいえ、彼はそれを全うしたのだった。
ある時、王は数人の男たちを公平な裁判なしに死刑にした。ウィリアム司教はそれを知って、不正に人を殺して血を流させた者は公に償いを果 たすまで、教会の秘跡を受けることはできないと布告した。スウェイン王が軍隊を引きつれて大聖堂へ来た時、ウィリアムは戸口に立って王の入堂を拒絶したので、軍人たちは剣を抜いた。ウィリアムは、信仰のためならばと、自分の命をささげるつもりで首を差し出した。その瞬間に、王はすっかり後悔して公に罪の赦しを求め、償いとして土地を教会に寄付することを約束した。
スウェイン王は私的生活でも、義理の娘をめとって教会の教えに背いていた。ウィリアムは何度も王を諌めたが何の効果 もなかったので、ハンブルグの大司教の助力を求めた。しかし、王が自分の非を認めて非合法の妻を離別 したのは、教皇と神聖ローマ帝国皇帝が非難した後であった。
スウェイン王とウィリアム司教は、性格の相違にもかかわらず常に愛し合っていた。王が1070年に亡くなって、その遺体がロスキルド・カテドラルに運ばれた時、ウィリアム司教は葬列を見て深く悲しみ、その場 で息絶えたのであった。
9月3日
大グレゴリオ1世教皇
590年から604年まで教皇であったグレゴリオは、540年ローマの裕福な貴族の家に生まれ、修辞学、法学、哲学を修め、教父たちの著書にも親しんだ。30歳の時ローマの市長に就任したが、574年自分の家を 修道院に改築して自分も修道士となって祈りと修徳生活に励んだ。しかし数年後にペラジオ2世教皇は彼を助祭に叙階し、次いで579年教皇特使としてコンスタンティノープルに派遣した。グレゴリオはそこで大任を6年果 たし、再びローマの修道院に帰って院長に選ばれた。彼がイギリス人たちを改宗させるために行きたいと望んだのはその頃であった。
グレゴリオは数人の修道士と共に旅立ったが、途中でローマに呼び返された。ちょうどその頃、ローマでペストが発生したので、グレゴリオの助力でこの疫病を終わらせたいという人々の願いからであった。ローマに帰ったグレゴリオは病人を見舞い、臨終の人々を世話し、聖職者をはじめ信者数千人とともに行列を作って、この伝染病がおさまるように祈りながら聖ペトロ大聖堂へ進んだ。
590年教皇ペラジオが世を去るとその後縦者に選ばれ、「大教皇」の名にふさわしく、教会の内外に絶大な指導力を発揮した。596年には、ベネディクト会のカンタベリーのアウグスチノ以下40名の宣教師をイギリスに派遣した。 時に、ゲルマン系のランゴバルド族がローマに進攻した。グレゴリオ教皇は進撃を防いだが、最後には講和を結んで、敵の暴虐からイタリアを救った。対内的には、典礼運動、特に教会音楽(グレゴリオ聖歌)を盛んにしたり、ミサ典礼の刷新に司牧的配慮を示した。また、多くの著作で教会に大きな影響を与えたが、中でも司教のための「司牧規則書」や、「ヨブ記註解」「イタリアの聖人伝」などが有名である。グレゴリオ教皇は「神のしもべの中のしもべ」と自称して、その権力も富も才能も常に神の光栄と人々の救霊のために用い、604年、64歳でこの世を去った。
9月4日
ロザリアおとめ
ロザリアが教会、特にパレルモの教会で祝われるのは、2つの理由による。1つは彼女の隠遁生活で、他は、彼女の死後5世紀たった時、彼女の遺骨を奉じて行なわれた行列によって、バレルモの疫病が止んだという奇跡である。
貴族の家に生まれたロザリアは、この世の栄華には何の関心も持たず、またキリストとその聖家族の人々以外と交わることを望まなかった。彼女はわずかばかりの持ち物を持って、シチリアの洞穴の中に隠れて祈りの生活を送った。その持ち物の中には、木の十字架や銀製のギリシャの十字架、テラコッタの十字架、12の小さな珠と1つの大きな珠でできているロザリオが含まれていた。そのうちに人々がロザリアを訪ねて来るようになったので、彼女はバレルモの近くのベレグリノ山の洞穴に移って、そこで余生を過ごした。
9月5日
ラウレンチオ・ユスチニアノ司教
ラウレンチオ・ユスチニアノは1381年、イタリアのヴェネツイアで生まれ、未亡人の母の手で育てられた。伯父のマリノは、アルガ島の聖ジョルジョ修道院参事会の司祭であった。
ユスチニアノは19歳の時、伯父の修道院に入って、祈りと苦行の生活をしながら勉学を続け、数年後に司祭に任命された時、清貧を愛した彼は司教舘の金銀の皿を全部陶器のものにとりかえた。
彼は教会や修道院を建て、できるだけ生活費をきりつめて貧者に施した。自分の貧しさを恥じる人々をひそかにさぐり出して教区から助力できるようにした。
1451年ユスチニアノは、ヴェネツイアの総大司教に任命された。謙遜な彼は、自分を不適任者と思って、ヴェネツイアの総督にもこの任命に反対するように頼んだが聞き入れられず、1455年に帰天するまでこの 地位にとどまって、教会のために種々の刷新を行なった。
9月6日
カグノールド司教
フランスのルュクスイユにあった聖コロンバン修道院からは、多数の聖人たちが出て、7世紀までにフランスの最も重要な修道院となっていた。聖人たちは司祭や信者を高い霊的生活に導いた。モー市の司教となったファロとラオン市の司教となったカグノールドという兄弟は、聖人の中でも著名であった。
コロンバンがテオドリッタ2世王の不道徳な行為を批判した時、王は怒って610年彼を追放した。カグノールドは聖コロンバンといっしょにフランスを去って、コンスタンス湖の近くで宣教師として働いた。しかし、テオドリック王はその地方にも勢力を伸ばして、容赦せずにまた2人を追放した。とはいえ、この2人は敵に対しても慈悲探かった。
ヌーストリアのテオデベルト2世はカグノールドとコロンバンに、コンスタンス湖の近くに隠れ家を与えて彼らを援助した。
ある日、コロンバンは、テオデベルト王とテオドリック王が戦っている夢を見た。彼は目をさまして、カグノールドに夢の話をすると、「テオデベルトが我々の敵のテオドリックを負かすように祈ろうではない か」と、カグノールドは早速言った。ところが、コロンバンは「とんでもない。そんな祈りでは神を喜ばせることはできない。神は我々の敵のために祈ることを命じられたのだ」と言った。
そこで2人はイタリアヘ旅行して、ボッビオでコロンバンに対する愛と配慮から、彼に従ったのであった。コロンバンが亡くなってから、カグノールドは自分の司教区を治めて633年に帰天した。
9月7日
ソゾン殉教者
4世紀の初め頃、タラシオという羊飽いの少年がシチリアに住んでいた。当時は迫害の時代で、信者たちの生活は危険であったが、彼は洗礼を安けて名前をソゾンと変えた。ある日、野原で寝ていると、イエズスが夢の中に現われて、信仰のために死ぬ 覚悟をするために、彼が常に羊を守るために使っている武器を捨てて、ただ羊飼いの杖だけを持つように命じられた。
ソゾンはすぐに町の神殿に行って、その中の黄金の偶像を羊桐いの杖でこなみじんにくだいてしまった。そして、偶像の金の手の1つを細かく分けて貧しい人々に与えた。ちょうどその時、あるキリスト信者たちが捕えられ、偶像をこわしたと訴えられた。ソゾンは、自分がこわしたことを自ら名乗り出た。役人たちは、ソゾンの靴の裏から釘を打ちこんで、そのまま円戯場まで無理に歩かせた。ソゾンの勇気に感心した役人たちは、彼を赦してやりたいと思って、群衆のために笛を吹けば釈放すると言った。しかしソゾンは、自分は羊のためには笛を吹いたことはあるが、今は神のためにしか吹きたくないと言って断った。そのため、彼は火あぶりになって殉教した。
9月8日
アドリアノとナタリア殉教者
304年、23人のキリスト信者たちがマキシミアヌス皇帝の前に引き出されてむち打たれた。彼らの勇気に感心した1人の皇帝付きの役人が「まだ洗礼は受けていないが、私も信者だから仲間に入れてくれ」と叫ん だ。
彼はアドリアノといって、妻のナタリアと結婚してから13か月しかたっていなかった。ナタリアは何ゆえに夫が捕えられたかを知った時、夫のことを誇りに思って、変装して死刑場に行って見守った。アドリアノの体は少しずつ斧で切りきざまれた。手足が切り離されたのを見て、ナタリアはその手を1つ自分で取ることができた。
2、3か月たってから、1人の異教徒の役人がナタリアと結婚したくて、うるさく付きまとった。彼女は夫の殉教に責任のある者と結婚する意志は少しもなかったので、コンスタンティノープルの近くのアルジロポリスに船で行き、そこで亡くなった。
9月9日
ペトロ・タラーヴェル司祭
タラーヴェルは1581年スペインのカタロニアで生まれ、20歳でイエズス会に入会した。修練期を終えてから、バルセロナの大学とマヨルカのモンテシオネ大学で勉強したが、そこでアルフォンソ・ロドリゲスと知り合いになった。
アルフォンソはクラーヴェルに、新世界の南米へ行って黒人の奴隷たちにキリスト教を伝えるように熱心に勧めたので、タラーヴェルはその勧めに従って宣教師となる決心をした。1610年神学生のままコロンビアのボゴタへ出発して、5年後に司祭に叙階され、海岸沿いの港町カルタヘナで働くことになった。タラーヴェルは「私は永久に黒人の奴隷になるのだ」と奮起した。
タラーヴェルは「最も重要なことは唇で話すことではなく、手で話すことだ」と言って、奴隷たちがほしがる薬や食物、タバコなどを与え、必要に応じて秘跡も授けた。奴隷たちの汚い部屋で生まれた子に洗礼を授け、黒人の言葉を話すことのできる通訳を通してキリスト教の教理の初歩を教えた。
9月10日
トレンチノのニコラオ修道者
ニコラオは1245年イタリアのアンコーナのサンタンジェロで生まれた。両親は長い間子供に恵まれなかったので、ニコラオを神の賜物として大切に育てた。母は息子が聖人になるように神が定められたと言って、こコラオが教区司祭の影響を受けるように心がけた。ある時、1人のアウグスチノ会修道士が「世間を愛してはいけない。世間の物を愛してもいけない」と説教しているのをニコラオが聞いて、自分もアウグスチノ会へ入りたいと熱望して、入会を許され、やがて司祭に叙階された。初め彼は隠遁的生活に召命があると思っていたが、ある日、祈っている時に「トレンチノヘ行け」という声を聞いた。そのため、まもなくトレンチノヘ送られて30年間説教の生活を送り、1305年に帰天した。
9月11日
プロトとヒアチント殉教者
1845年、ヨセフ・マルキという司祭が旧サラリア街道を発指していた時、壁にそって作られた墓を発見した。それは1枚の板で閉じられていて、ラテン語で「9月11日に殉教者ヒアチントを葬った」と記してあった。ヨセフ・マルキが墓をあけてみると、その中に人間の体の灰と、黒こげになった骨を包んだ布片があった。そして、ヒアチントの墓の傍らに「殉教者プロトの墓」というもう1つの碑銘が発見された。
古い伝承によるとプロトとヒアチントは、エジプトの総督の娘でキリスト信者であったエウジュニアの奴隷であったが、彼らはローマヘ逃げて来て、そこで異教徒の役人に捕えられて火刑に処せられたのであった。ヴァレリアヌス皇帝の治世にこの3人が殉教したことはほとんど確実である。
9月12日
ヴイクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女
1579年イタリアのジェノアで、ヴィクトリア・フォルナリがアンジェロ・ストラタと結婚した時、彼女は17歳であった。結婚生活は非常に幸福であったが、9年後に夫が死んだので、子供たちの将来について心配したあげく、再婚しようと思った時に、聖母マリアのまぼろしを見た。聖母は言われた。「勇気を出しなさい。私はあなたと子供たちを保護してあげます。心配しないで平和に暮らしなさい。私にすべてをまかせて、すべてに越えて神の愛にあなた自身を奉献しなさい」。
ヴィクトリアは、聖母マリアの御言葉に忠実に従った。自分の財産の大部分を貧しい人々に施したが、自分の子供たちが困るようなことはなかった。
1604年、富裕な友人の助力で、10人の女性たちと共に修道院を建て、翌年誓願を立てた。青い外とうを着たので「青色のシスターたち」と呼ばれた彼女たちは、聖母のナザレにおける隠れた生活に倣った。ヴィクトリアは1617年まで院長として任務をつくし、55歳で神のもとに召された。
9月13日
ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士
カトリック教会で、最も有名な説教家の1人として敬われているヨハネ・クリゾストモは、354年にシリアのアンチオキアで生まれた。当時の貴族の子弟がそうであったようにヨハネも法律学と弁論術を勉強したが、これが後年の活躍のために非常に役に立った。そのすばらしい弁舌のために、人々は彼に「クリゾストモ」すなわち「金の口」という名を与えたのだった。
ヨハネは、初め隠遁生活を望んで6年間過ごした後、アンチオキアに帰って司祭となり、自分の志に反して398年コンスタンティノープルの総大司教に選ばれた。当時の社会は道徳が乱れていたので、聖職者、民衆の如何を問わず、清い生活をするように説教した。しかし、教会の内外におけるヨハネの敵は、403年司教会議により彼を追放するように計画した。
総大司教の任務を解かれたヨハネはアルメニアに送られ、そこでたくさんの手紙を書いた。彼の多くの説教や著作は今に至るまでたくさん残っているが、その中に次のような文章がある。「死は安息であり、労働と世間の悩みからの解放である。あなたの家族の1人が亡くなっても絶望してはいけない。」。
9月14日
ノトブルガ
ノトブルガは1265年オーストリアのチロルの貧しい農夫の娘として生まれ、18歳でヘンリー・ラッテンベルグ伯の台所の手伝いとしてやとわれた。この富裕な城で1日に捨てる食物は、ノトブルガの両親が1週間で食べる分量 よりも多かった。これを見たノトブルガは、この食物を城門に群がる貧しい人々に施すことにした。それが十分でない時は、自分の食物の一部を足して与えた。 ヘンリー伯の母はノトブルガの慈善をすべて承認したが、夫人は反対で、自分のしゆうとめが亡くなった時、ノトブルガを追い出してしまった。
ノトブルガはエペンの近くの農家に手伝いとして住み込んだ。彼女はよく働いたが、主人が日曜日でも召し使いたちを働かせようとした時には、仕事を休んで神を礼拝する権利を主張するのであった。
やがて、ヘンリー・ラッテンベルグ伯に不幸がおそってきて、彼の妻が亡くなった。次に起きたことは、チロル伯がパパリア公と争って、その争いがヘンリー伯の領土まで広がったことであった。こういうすべての不運を、彼は自分の城の台所から農夫の娘ノトブルガを不正に解雇したことのせいにした。
ヘンリーは再婚した。彼の2度目の夫人は家事を取りしまるよい女性を望んだので、ノトブルガが再び連れ戻され、その時から彼女が1313年に死去するまで働き続け、万事が事なくすすんだ。
ノトブルガは召し使いの守護の聖人の1人となった。この謙遜な聖女は非常に尊敬されて、その聖遺物はエベンの近くの教会に大切に保存されたが、1718年、大祭壇の上のほまれある場所に安置された。
9月15日
ニコメデス殉教者
コンスタンチノ・コプロニムス皇帝は、聖人や殉教者の遺物は価値のない物だから、こういう人々の骨を集める者は愚か者だと思った。それで、彼はできるだけこのような聖遺物を探し出してきて海中に投げ捨てた。
皇帝の死後32年目に選挙された教皇パスカーリス1世はこの意見に不賛成であった。コンスタンチノ・コプロニムスは聖遺骨を捨てたが、パスカーリス1世はその代わりの物をできるだけたくさん発見することが自分の義務であると考えた。それで、ローマのサンタ・プラッセデ教会は彼が集めた物でいっぱいとなり、教会の内陣(聖所)のそばの大理石の板の上に聖人たちの名前がたくさん刻まれた。
その中に、817年にノメンティーナ街道のカタコンブから持ち出された聖ニコメデスの遺骨があった。
ニコメデスはキリスト信者たちが多数殉教した2世紀の初め頃の司祭であったと推測される。ニコメデスが殉教者フェリタラの聖骨を勇気をもって手に入れ、キリスト教の葬式をしようとした時、彼は信者だということが明るみに出た。異教の神々に供え物さえすれば命は助かるチャンスがその時与えられた。しかし、ニコメデスは言った。「私は、天から私たち一同を支配される全能の神にのみいけにえをささげます」。
彼は残酷なむち打ちの刑を受けて生命をうばわれた。その遺体はティベル川に投げこまれて、彼が聖フェリクラのために行なったようなキリスト教の葬式ができないようにされた。しかし、ユストという信者が大胆にもニコメデスの遺体を拾い上げて、ポルタ・ピアの外のノメンティーナ街道の墓に葬り、それは817年まで安置された。
9月16日
ニニアノ司教
ニニアノの父はイギリスのカンブリアの族長であった。ニニアノは洗礼を受けた後ローマヘ行って数年問勉強し、学徳に大いに進歩したが、彼は未だにキリストの福音を知らない英国人たちのことが忘れられず、帰国を決心した。
394年ニニアノは教皇シリチオによって司教に叙階された。イギリスに帰る途中でトゥールの聖マルティノと親しくなった。帰国後、ホイットホーンに自分の司教区を創り、後に「白い家」として有名になった石造の教会を建てた。マルチノの死の知らせをきいた時、ニニアノはその教会をマルチノにささげた。
ニニアノは近くに修道院を創立し、ここから修道土たちとともに、グランビアンに住んでいた南方のビクト人たちに、偶像崇拝を捨てて真の信仰を受け入れるように説きつけるために出かけて行った。ニニアノは倦むことなく旅を続けていた。後になって、異教の侵入者たちがニニアノの仕事の大部分を破壊したが、ニニアノの記憶は生き続けた。ウェールズの支配者たちを改宗させた彼の功績はいちじるしい。
9月17日
ヒルデガルド修道女
中世紀の末頃には、ドイツにおいて多くのキリスト教神秘家が出て、彼らの神との深い一致は最も驚くべき言葉と画像で表現されている。ビンゲンのヒルデガルドはその中でもすぐれた1人であった。
彼女は80蔵まで生きたとはいえ、いつも病弱であった。子供の時はスパンハイムのメギナルド伯の妹ュッタに預けられたが、まだ幼ない頃からヒルデガルドの霊的経験と神秘的な示現は驚くべきものであった。
しかし、彼女は誰にも言わなかった。後になってから彼女は3歳の時に見た示現について次のように書いた。「私は大きな光を見て非常に恐ろしくなった。けれど子供らしいはずかしさで誰にも言えなかった」。
やがて、ヒルデガルドは自分の聴罪司祭に示現について話す勇気が出てきた。司祭はそれを書きとどめるように彼女に勧めた。ヒルデガルドが害いたものの中には、示現の他に聖人伝や讃美歌、医学に関するものもあった。彼女は非常にいきいきとした幻想の賜物を持っていた。悪魔が大きな光明からまっ黒な石炭に変わったのを彼女は見た。これは夢物語ではなく、実際に見たのだと彼女は主張した。このため彼女はますます有名になった。
ヒルデガルドはベネディクト会の修道女になり、38歳で院長に任命された。1147年彼女は修道院をライン川の川岸のビンゲンの近くのルペルツベルグに移し、1165年にはアイビンゲンに他の修道院を創立した。教皇は信者たちのためになると思われる示現をいくらでも発表する許可を与えた。彼女は皇帝、王、司教たちに対し同等の立場で手紙を書いた。
1170年ヒルデガルドが亡くなる少し前、教会から破門された一人の男性を修道院の墓地に埋葬する許可を与えたところ、それが問題を引き起こした。彼は死ぬ 前に最後の秘跡を受けたのだからさしつかえないはずだと彼女は主張した。そのため修道院は聖職停止命のもとに置かれたが、彼女は自分の考えを変えなかった。
9月18日
クペルティノのヨセフ司祭
クペルティノのヨセフは非常に変わった聖人だったので、仲間の信者たちはどのように彼と交わってよいかわからなかった。彼は健忘症で、子供の時にも未亡人の貧しい母親が準備した食事を食べに来ることを 忘れることが度々あった。彼の生まれたイタリアのクペルティノの村で、口をぼかんとあけながら散歩するヨセフをあざける人もいた。記憶力も悪く、手も無器用であった。
17蔵になった時ヨセフは修道土になりたいと思ったが、フランシスコ会は彼があまりにも愚かだという理由で入会を拒絶した。カプチン会では、ヨセフがたくさんの物をこわしたので、8か月後に彼を追い出してしまった。最後にラ・グロテッラのフランシスコ修道院が、馬丁としてヨセフを受け入れた。
ヨセフは祈りと断食をして、すべての仕事を完全に行なったので、修道土たちは非常に喜んで、彼を仲間として受け入れることに決めた。そして、1628年ヨセフは司祭に叙階された。その頃から彼は絶えず脱魂 状態となり、時々地上から空中へ高く浮かび上がった。食堂でもヨセフの不可思議で奇跡的な行動が行なわれたので、1635年に、ヨセフは食堂と聖堂の歌隊席からしめ出されていた。
ヨセフの奇跡、中でも超自然的な空中浮揚は無数の訪問客を惹きよせた。1653年教会の権威者たちは、ヨセフをピエタロツサの丘の上のカプチン会修道院へ移して、誰にも全く見られないようにした。
最後にはオシマという所にあった自分の会の修道院に行くことを許されたが、1663年に帰天するまで人目につかないようにされた。ヨセフはすべてを耐え忍んで何の不平も言わなかった。 20世紀になってから、クペルティノの聖ヨセフは、飛行機の操縦士と乗客の守護の聖人となった。
9月19日
ヤヌアリオ司教殉教者
イタリアのベネヴェントで生まれたヤヌアリオは、ディオクレチアヌス皇帝がキリスト教信者たちを迫害し始めた頃、そこの司教であった。カンニアの異教徒のドラゴンティウス総督は数人の助祭と信徒を捕えて地下牢へ投げ入れた。
ヤヌアリオは彼らを慰めに訪れた。獄吏は彼を見つけると、ヤヌアリオを捕えて、他の2人の信者フェストとデシデリオと共にノラ市へ連れて行った。総督はノラからポッヅオリヘ行くところだったので、自分の車の前の重い箇を三人に運ばせて彼らを苦しめた。
その後彼らは円戯場に連れ出され、狂獣の前に立たされた。しかし狂獣は急に殉教者たちの足もとにうずくまり猫のようにおとなしくなった。総督はしかたなく3人の首を斬ることを命じた。ヤヌアリオ司教の遺体はポッツオリの近くのマルチアノに葬られたが、413年ナポリ郊外のカタコンプに移され、その時からナポリの町の保護者とあがめられた。
9月20日
エウスタキオ殉教者
エウスタキオについての伝説によると、彼はトラヤヌス皇帝に仕えていたローマの将軍であった。ある日、狩りに出かけて1匹の雄鹿を追いかけたところ、その鹿が急に振り向いて来たので、よく見ると、鹿の角の問に十字架があった。そして彼の名を呼ぶ声がした。
この時から彼は改宗して、プランドという自分の名前をエウスタキオに変えた。自分の財産の大部分を施したが、なお皇帝に奉仕することを望んで再び軍隊を率いて戦争し、大勝利を得た。やがて彼の妻のテオピスタ、息子のアガペトとテオペストもキリスト信者となった。エウスタキオの勝利を祝った時に、彼と家族は異教の神々に犠牲をささげることを拒絶したために、彼らは死刑の宣告を受けて円戯場へ連れて行かれ、しんちゅう製の雄牛の中に入れられて死ぬ まで焼かれるという残酷な刑罰に処せられて殉教した。
この出来事は118年頃に起こったことだが、エウスタキオとその家族についての記録は、7世紀までには発見されていなかった。しかし、彼は中世紀における最も人気のある聖人で、文書や詩歌、芸術において有名であり、ひろく崇敬されている。
9月21日
マタイ使徒福音記者
4つの福音書の最初の福音書を書いたマタイは、イエズスの最初の弟子の1人であった。彼はイエズスに出会うまで、カファルナウムの町でローマ人のために収税吏として働いていた。
マタイの福音書は、当時のユダヤ社会で使われていたアラマイ語でわかりやすく書き記され、キリストが真の救い主であり、真の神であることを強調している。マタイは、救い主が御自分に従う人々を決して見捨てられないというメッセージを記し、最後に、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」というイエズスの命令を書き記し、その次に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との約束を記している。
マタイは自分の仲間のユダヤ人たちのために福音書を書いたのだったが、それにもかかわらず、彼だけが救い主を礼拝した最初の非ユダヤ人、すなわち星に従ってベトレヘムの馬小屋に来て、幼いイエズスに黄金、乳香、投薬を贈り物としてささげた3人の東方の学者たちのことを記しているのである。
また、山上の説教として知られているイエズスの言葉を順序よくまとめたのもマタイである。マタイはキリスト教の信仰を広め、そして守る強い組織の発達に関心を持っていた。4人の福音史家の中で、正しい道をふみはずすキリスト信者に対して最も大きい関心を示したのはマタイであった。事実「教会」という言葉を使用するのはマタイ福音書だけである。
私たちがマタイだけから聞くたとえ話の中で特に目立つのは、羊と山羊の話、最後の審判についてのたとえである。これは、「わたしの最も小さい者のひとりにすることは、わたしのためにすることである」というイエズスの警告で終っている。
マタイが何時、どのように亡くなったのかは知られていない。しかし、教会のある伝承によると、彼はエチオピアで殉教したと伝えられている。
9月22日
マウリチオと同志殉教者
15世紀の初め頃フランスのリヨンの司教エウセリウスがローマ軍の中でテーベ軍団として知られていた部隊についてすばらしい物語を書き残した。287年頃、マキシミアン・ヘルクリウス将軍の指揮のもとにあったこのテーベ軍団は、全員が上エジプトから連れて来られたキリスト信者たちであった。彼らはバガウデ族の反乱を鎮めるためにゴールヘ送られた。マキシミアン将軍は、兵士たちと共にローヌ川沿いのマルティニに到着した時、勝利を祈って異教の神々にいけにえを供えるように各兵士に命令した。しかし、テーベ軍団は拒絶して他の軍団から離れ、サン・マウリチオ・アン・ヴァレに野営し始めた。
マキシミアン将軍は、自分の命令が達せられないのを見て初めは10人に1人の兵士を殺すように命じた。マウリチオ、エクスペリオ、カンディドは兵士たちに信仰を守り続けるように勧めた。ついに、いけにえを供えることを拒んだすべての兵士が処刑されることになった。兵士たちは神のおきてに反しないいかなる命令にも従う意志があることを表明し、「私たちは仲間が殺されるのを見て、彼らに与えられた名誉に対して喜ぶのである」と言った。この時、マキシミアンは、テーベ軍団の全員を皆殺しにする命令を下した。
9月23日
イコニウムのテクラおとめ
2世紀の終り頃、アジアのある司祭が聖パウロの弟子テタラという女性の驚くべき信心と功績について書いた。それによるとパウロは小柄ででっぶりと肥った男で、頭ははげており、鼻は長く、まゆ毛の太い人であったという。パウロがイコニウムのオネジフォロの家で説教していた時、テクラも他の娘たちと連れ立って度々通 ったが、彼女が最も感動した教えは貞潔の徳についてであった。そこでテクラは婚約を破棄したところ、婚約者のタミリオとテクラの両親は全力を尽くし、その地方の役人の手もかりてテクラの志をひるがえさせようと試みたが、その甲斐もなく、彼女はパウロの所へ逃げていった。
タミリオは今や全くテクラの敵となって幸福な未来の家庭を破壊した者としてパウロを訴え、役人たちに頼んでテタラをむち打つように依頼した。そして、誰も彼女をめとらないように、彼女を火刑にする宣告 が下された。しかし、幸いなことに激しい雷雨が火を消して、テクラは再び逃げのびることができた。
テクラはまだ美しい女性であったので、アンチオキアのアレキサンデルという役人が彼女に求婚し、連れ去ろうとしたが、テクラはそれを拒絶したので、再び総督に告訴された。裁判の結果 、円戯場で猛獣のえじきとされる判決を安けたが、獅子と熊は彼女にはかみつかなかった。
テクラは身の安全を守るために若い男性の衣服をまとうことにきめ、その姿でパウロのもとに行って、彼と共に福音を宣べ伝えた。パウロが旅行に出かけた時、テクラはセレウキアヘ行き、72年の問、洞穴の中で祈りと隠遁生活を送った。
聖女テクラの物語は実に、不道徳の時代に書かれた貞潔の徳に対する美しい賛歌である。
9月24日
サン・セヴェリノのパチフィコ司祭
イタリアのアンコーナ州のサン・セヴェリノ1653年に生まれたアントニオ・ディヴィニは3歳の時に孤児となって、17歳の時にフランシスコ会の修道士となり、パチフィコという修道名を与えられた。非常に頭がよく、学問に熱心であった彼は25歳で司祭となって、2年間哲学を教えた。しかし、パチフィコは、もっと活動的な生活を望み、長上に願って修道院の近くの村で説教、病人の見舞、赦しの秘跡を与えること、また子供や若者に教えることなどを始めた。
しかし35歳の時パチフィコは視覚と聴覚を一度に失い、次に長い間病気にかかって歩行困難になった。1705年、盲目で、耳が聴こえず、不具のパチフィコはサン・セヴュリノの修道院に移され、主の奉仕のためにあちらこちらを走り回る代わりに、祈りと、苦しみを神にささげながら余生を送った。この感ずべき犠牲の功徳によって救われた霊魂は、彼の司祭的活動によって救われたものより、遥かに多かったということである。彼が主に召されたのは1721年9月24日であった。
9月25日
ラドネツのセルジオ
セルジオは1314年ロシアのロストフ仁上流社会の家に生まれ、洗礼名はバルトロメオであった。15歳の時、モスクワとロメトフの問に内戦が起こって、彼の家族は全財産を失って、逃げ出す必要に迫られ、モスクワから50マイル先のラドネツに貧しい農夫として住むことになった。
5年後に、バルトロメオと兄のステファはラドネツをとりまく淋しい森の中でキリスト教の隠修士として住むことに決めて、丸太小屋と聖三位 一体にささげられた木造の小さな聖堂を建てた。しかし、兄はロシアの冬と食糧の不足と襲って来る動物を耐え忍ぶことができず、自分の家へ帰った。
バルトロメオはその地方の修道院長のもとで誓願を立て、セルジオという名を与えられて、森の中に住み続けた。しかし、ただ1人で暮らしたいという望みはとげられず、だんだんと多くの人々がこの賢明な修道士に相談するために訪ねて来た。そしてある人たちは仲間に入れてくれと頼んだ。
ロシアの修道生活はトルコ軍の侵入によって全く滅亡していたので、セルジオの修道院はロシアの宗教的伝統の中心的要素のひとつを再び創り出していた。セルジオは決して誰も追い出すことはしなかった。
1380年モスクワのドミトリ・ドンスコイがトルコ人の勢力を気遣ってセルジオに相談に来た。セルジオは、もしロシア兵が彼らの国のために信仰をもって戦うならば勝利を得るだろうと主張した。王はセルジオの言葉を信じた。マホメット教徒のトルコ人は征服されて、ロシアはキリスト教国として残った。セルジオは分割された自分の国へ平和をもたらして、敵対している王と貴族たちを仲直りさせるために身をささげようと決心した。
1378年、彼はモスクワの総大司教として叙階されることを辞退した。「私は若い時から黄金を決して身につけなかった。今、私は老人だから、なおさら私の貧しさに甘んじる」と彼は言った。その後、4年間自分の修道院を治めて、1382年平安な死をとげた。それまでに彼は40以上の修道院を創立していた。
9月26日
コスマとダミアノ殉教者
コスマとダミアノは双生児であった。アラビアで生まれて、若い時シリアで医学を学び、キリキア州のエゲアで医院を開業した。彼らは名医として人々に尊敬されたが他の医師と異なる点は、治療に対する報酬を決して取らないことであった。キリスト信者として行なうことのできる最善の奉仕はこれである、と彼らは信じていた。その結果 、東方教会では「金のない聖コスマと聖ダミアノ」として知られている。
不幸にしてディオクレチアヌス皇帝の迫害が始まった時、キリキア州の絶督リジアスはコスマとダミアノを逮捕して裁判を行なった。2人は信仰を固く守ったために十字架にしばりつけられ、群衆が石を投げつけたり、弓で矢を射ったりした上、最後に首をはねられて殉教した。
これはみな303年頃に起きた事であった。2人の遺体は昔彼らが勉強したシリアに送られ、シールスに埋葬された。 後世になって、ユスチニアヌス皇帝をはじめとして、病気になった有名人たちがこの2聖人を夢の中で見て、種々な薬を教わったりすることがあった。このような示現の後でユスチニアメスはコンスタンティノープルにコスマとダミアノにささげられた美しい教会を建てた。
コスマ兄弟はその偉大な生涯によって、現在、医師、薬剤師および医学の保護の聖人として仰がれている。
9月27日
ヴィンセンチオ・ア・パウロ司祭
ヴインセンチオ・ア・パウロが1605年、マルセーユからトゥールーズまで航海した時、乗っていた船は海賊船に襲われ、北アフリカのチュニスに奴隷として売りとばされ、2年後にやっと自由の身になってパリヘ帰った。のちに彼は、苦しい経験を生かして奴隷たちの生活の改善と解放のために最善を尽くした。1600年に司祭となり、国王ルイ13世の信任も厚く、宮廷付き司祭として皇后の霊的指導に招かれた。こうして彼は生涯王侯貴族と庶民の双方の救霊のために働いた。
1625年ヴィンセンチオは「布教宣教会」という修道会を創立して、祈りと黙想に励みながら貧しい人や囚人たちを助け、宣教活動に従事する司祭を養成した。
1642年には、ルイーズ・ド・マリアックの協力で「愛徳姉妹会」を創立し、慈善事業を発展させた。
1653年、すでに72歳になっていたが、皇后と、ある財産家の寄付で、養老院と浮浪者のための一般 救護院を作った。こうして、真の隣人愛に生きたヴィンセンチオは、1660年、79歳で神のもとに召された。
9月28日
エウストキウム修道女
パウラと娘のエウストキウム(左図の中央)は、アンチオキアでヒエロニモの霊的指導を受けた。パウラは財産をヒエロニモが持っていた財産に加えて、ベトレヘムの近くに修道院を建てた。ヒエロニモは、近くの洞穴に住んだ。その理由は(パウラによると)もし、マリアとヨゼフがまたベトレヘムヘ来るようなことがあれ、泊まるところを確保するためであった。
女性のための3つの修道院がヒエロニモの建てた修道院の近くに創られて、パウラがその一つの責任者となった。エウストキウムは料理も含めてすべての物質的必要を満たし、ヒエロニモは彼女に非常にたよっ ていた。聖書をラテン語に訳していた時に視力が衰え始めたヒエロニモを助けて、その貴い仕事を完成させたのは、パウラとエウストキウムのお陰であった。彼の著作の価値は誰よりもこの2人が認めていたことを知っていたヒエロニモは、その著書のあるものを彼女たちにささげた。
パウラは404年に亡くなった。エウストキウムはいっしょに葬られたいと望んだが、修道院長となり、419年に死去した。
本日は、929年に殉教したボヘミアの王ウェンセスラオの祝日でもある。
9月29日
ミカエル・ガブリエル・ラフアエル大天使
新約聖書の中に、大天使ミカエルが悪魔に対して大きな戦争をする箇所が2つある。その1つ、ユダの手紙の中で、ミカエルはモーセの遺体のことで悪魔と言い争い、神の名により悪魔を叱りつけている。幸いなことにはイエズスの勝利によって、悪魔はこの宇宙を支配することはできないが、神のみ旨に従って生きるすべての者の敵として存在するのである。
旧約聖書のダニエル書の中では、ミカエルは神の選民を助ける天使として2度記されている。ガブリエルもダニエルを助けた大天使であった。ガブリエルは新約聖書の中で特別 な役割を持っていた。
洗礼者聖ヨハネの父ザカリアに現われて将来ヨハネが生まれることを告げたのはガブリエルであった。そして、おとめマリアヘの彼のメッセージは、聖霊の力で彼女が救い主イエズスを生むであろうということであった。
ラフアエルは、神のみ前に立つ七位の天使の一位として、トビト記とエノク記に出てくる。
トビト記は、信心深い人々の祈りを聞き入れて、全能の神の許へ連れて来る天使としてラフアエルを描く。エノクは墜落した天使たちに汚された地球がラフアエルによって清らかになることを語る。
事実、ラフアエルという名は「神の治癒」を意味し、ガブリエルは「神の力」、ミカエルは「神に似た者」を意味する。この三位 の大天使たちは後世のキリスト教の著作に現われるが、ミカエルは普通 、天軍の頭として示され、時として死者の霊を受けとる天使としてみなされている。
9月30日
ヒエロニモ司祭教会博士
カトリック教会の最も偉大な聖書学者の1人であるヒエロニモは、345年、ダルマチ ア(今のオーストリア)のストリドンのキリスト信者の家に生まれた。彼は恵まれた環境と豊かな才能のおかげで、短期間でギリシャ語とラテン語をマスターした。その後ローマに行って8年間、修辞学を勉強したが、修道生活に入ることを望んでアタイレアで隠修士のグループに入った。しかし後にそのグループが解散したので東部の荒野に行き、マルクスという隠修士に出会って、粗末な小屋に住んで聖書を研究するよう勧められた。
彼はヘブライ語を学んでからアンチオキアに帰って司祭に叙階され、司教と共にコンスタンティノープルに訪れて、ナジアンズの司教グレゴリオとニツサのグレゴリオの友人となった。382年にヒエロニモはダマソ教皇の秘書になるためにローマへ行った。ここで富裕な貴婦人パウラとその娘エウストキウムやマルセラなどに会ったが、彼女たちは後に有力な協力者となった。
その頃、ヒエロニモは最もすばらしい仕事を始めた。彼は教皇に頼まれて詩編と新約聖書のラテン語訳を非常な労力と学識で改訂し、ついに聖書全体をラテン語に翻訳するという大事業を完成した。これが現在カトリック教会で使われているブルガタというラテン語訳聖書である。しかしダマソ教皇が死去した時、ヒエロニモの敵は彼をローマから追い出したので、パウラやエウストキウムたちと共にベトレヘムへ行き、420年に死去するまで34年間そこに住んだ。その問に修道院を創立して院長となった。さらに女子のための修道院も建ててパウラを院長に任命し、彼女の死後はエウストキウムが代わった。また、聖地へ来る多数の巡礼者のために宿泊所を作った。ヒエロニモの学識を示す論文、手紙などは、読む人々を怒らせることも度々あったが、常 に大きな励ましとなったことは事実である。「プラトーは人の魂を頭の中に置いたが、キリストは心の中に置いた」と彼は書いた。
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