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10月の聖者カレンダー

1.jpg10月1
バヴォ
 
 ジバヴォは富裕な地主で勝手気ままな生活をして、金を儲けるために自分のしもべを奴隷として売りとばすことも度々あった。しかし、妻が亡くなった時、彼は自分の行ないを反省し、持っていた金は全部貧しい人々に分け与え、ゲントにあった土地は聖アマンドに寄付して修道院を建てさせた。そして自分も修道士となって厳しい苦行の生活を始めたが、彼の聖徳は非常に有名になったので、彼の死後、その修道院の名称は聖ペトロ修道院から聖バヴォ修道院に変わった。
 ある時、バヴォは以前自分が奴隷として売った男に出会った。彼はその罪を償うために自分の身に鎖をつけ、その男に引かせて町の牢獄まで行った。このような謙遜な行為をしていたバヴォは、アマンドに連れられて、フランス中を宣教旅行をすることになった。
 しかし、普通の修道生活の戒律さえも自分を満足させることが不可能だったので、彼は隠修士として暮らす許可をアマンドから得て、ゲントの近くの森の中に小さな小屋を作って住んだ。野菜と水で生命を支え、アマンドとフロリベルト修道院長以外は誰とも会わなかった。
 633年に帰天して、近くの修道院に葬られた。
 聖バヴォの死後900年目にゲント教区が創られた時、彼はその保護の聖人となったが、それほど、彼の聖性が記憶されていたのだった。彼の肖像画は時々、隠修士として描かれているが、また彼が改心する前の貴族としての服装を着けて、手首に鷹を1羽止まらせている狩猟の絵も度々描かれている。
 

10月2日
守護の天使
 
 旧約時代のウジャ王が亡くなった年に、預言者イザヤは神殿で主が王座に座っておられるのを見た。そこには6つ翼を持ったセラフイム(天使)がいて、「聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」と叫びながら主の上を飛びかっていた。
 たくさんの天使たちが神を礼拝して、その命令に従っているというユダヤ人の考えはキリスト信者の心にも植えつけられた。昔のユダヤ人たちは天使たちが個人と民族の両方を守護していると信じていた。
 イエズスはある時、1人の子供を前にして弟子たちに言われた。「これらの小さな者を1人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。
 このように守護の天使のことはイエズスの教えの中に含まれている。福音史家たちは、イエズスの生涯の中で天使たちがどのようにイエズスに仕えたかを物語る。荒野ではみもとに来てイエズスを助け、ゲッセマネの園で苦しまれた時には力づけた。もし、イエズスが望まれたならば、天使たちはイエズスを捕えに来た人々に対して戦ったにちがいない。イエズスの復活の時に天使は墓の上に座って守った。
 

10月3日
リジューのテレジアおとめ
 
 フランスのアランソン市で時計製造業を営んでいたルイ・マルタンの家に1873年、末子の女児が生まれ、マリー・フランソワ・テレーズと名づけられた。15歳になった時、カルメル会に入会を望んだが、年が若すぎるという理由で、カルメル会も教区の司教も反対した。しかし、彼女の熱望が勝って、1888年4月、リジューのカルメル会修道院に入会が許された。
 テレジアは修道生活を愛して、神への全き信頼と委託のうちに祈りに励み、徳をみがいた。1896年には、中国に行く話もあったが、肺結核にかかって1897年9月30日に24歳で亡くなった。テレジアの最後の言葉は「神様、私はあなたを愛します」であった。
 テレジアがまだ健康であった頃、彼女は院長の命令で自叙伝を書き始めた。この「ある魂の物語」と題された著作はテレジアの死後、各国語に訳されて出版され、世界中に広まった。
 テレジアの魅力は全き単純さにある。「私はいつも聖人になりたいと望んでおりました。けれども聖人がたに自分をくらべてみますと、雲にそびえる高い山と道行く人にぶまれる砂の一粒はどの違いがあります。しかし、私は失望しません。まっすぐで、早く行ける小さな道を通って天国にいく方法を見つけたいのです」とテレジアは書いている。この小さい道とは、幼児が母の腕に抱かれるように、私たちも神にすがって、謙遜に自分の無力を認めながら、神に対する大きな愛をもって毎日の務めを果たすことである。
 テレジアの無邪気な一面を表わす文章に次のようなものがある。「もし私がナザレトの聖家族の家に行って、サラダと冷たい魚を出されたら、私はそれを聖ヨセフにさしあげましょう。温かい料理と熟した果物は
マリア様にあげ、幼いイエスズ様にはスープと御飯とジャムをあげましょう。まずい物があったら、私が喜んでいただきます」。
 テレジアが列聖されたのは1925年であった。
 

4.jpg10月4日
アッシジのフランシスコ
 
 フランシスコは1181年、アッシジの富裕な織物商の息子として生まれた。19歳の時軍人となったが、キリストの声に従って貧しい生活をする決心をし、粗末な衣服を着てローマヘ巡礼に出かけた。ローマでは1人のハンセン病患者に出会い、金を与えたうえ、その手に接吻をした。これは当時全く例外的な行為であった。
 アッシジに帰ってからこわれかけた聖堂で祈っていた時、十字架から声が聞こえた。「フランシスコ、早く行って私の家を修理しなさい。今にも倒れそうだから」。フランシスコは早速、父の倉庫に入って多くの品物を取り出してそれを売って聖堂を修繕するために寄付した。父は非常に怒ってフランシスコを司教の前に連れて行ったところ、彼は自分の着ていた衣服を脱いで父に返し、「これで私は、天にまします神をおん父と言うことができます」と言った。
 キリストの言葉をフランシスコは文字通りに実行し、同志の者を集めて、彼らのために生活の規則を作った。彼らの清貧と愛の生活は「地の塩、世の光」となって周囲の人々を感化していった。それで、フランシスコは弟子を連れてローマヘ行き、時の教皇インノチェント3世から許可を得て、「小さき兄弟会」、のちにフランシスコ会と呼ばれる修道会を創立した。
 その後はアッシジ近郊のポルティウンクラ聖堂を根拠地として、福音のみ言葉を伝えて回った。そして、太陽、月、星、風、空気、雲、空、水、火、大地、人、死、すなわちすべての被造物を動員して神を賛美した。フランシスコにとってはすべての被造物が兄弟であり、姉妹であったが、特に人間は愛すべき兄弟であった。1224年彼は40日間の断食を始めたが、その問にキリストの受難を探く観想して、聖痕を印されるという特別な恵みを受けた。1226年フランシスコは清貧の中に感謝の心で「姉妹なる死」を迎え、キリストのもとに帰った。(1979年生態学者の守護の聖人となった)
 

5.jpg10月5日
プラチドとマウロ
 
 6世紀の初め頃、イタリアでは聖ベネデイクトの評判が非常に大きかったので、多くの親が、自分の子供をこの聖人に預けて教育してもらいたいと望んだ。テルトゥッロという貴族は息子のプラチドを、金持ちのエキチウスはマウロという息子を送った。当時プラチドは7歳、マウロは12歳であった。
 ある日、プラチドがスビアコの湖に落ちた。修道院に居たベネディクトはそれを知ったが身動きもせずに、マウロを呼びつけた。「早く行って助けなさい。プラチドが瀦れかけている」。マウロは大急ぎで湖にかけ
つけて、プラチドの髪の毛をつかんで水中から引き上げた。プラチドが水中に落ちたことをベネディクトが知ったのは、偉大な教師のように頭の後ろに目を具えていたからだったと言われた。
 後にプラチドはシチリアのメッシーナに修道院を創立するために送られて、そこに多くの修道者が集まり、彼は修道院長となつた。しかし546年、海賊の一群が上陸して全員を皆殺しにしてしまった。
 多くの歴史家はこの物語を作り話と思っている。しかし1588年メッシーナの洗礼者聖ヨハネの教会が改築された際に、たくさんの頭骸骨が発見されたのである。

6.jpg10月6日
ブルーノ司祭
 
 ブルーノは1032年ドイツのケルンで貴族の子として生まれ、レンスの大学を卒業後神学の教投となり、やがて学長および教区内諸学校の教育顧問に任命された。1075年レンスの大司教マナッセスは、ブルーノを教区の参事官に任命した。しかし、ブルーノはマナッセスが大司教として適任者でないことを見破って、オータンの教会会議でマナッセスの不義を堂々と難詰した。マナッセスは非常に怒って、ブルーノを教区から追放した。その後まもなくマナッセスは教皇により破門された。 マナッセスが退位した後、ブルーノはしばらくレンスにとどまっていたが、1084年の夏、同志6人を連れてグルノーブルヘ行き、シヤルトルーズという僻地で厳しい修道生活を始めた。彼ら7人はまず山の頂上に1つの祈祷所を設け、谷間に各自の掘立て小屋を建てた。これがカルトウジオ会の始まりで、清貧、祈商、労働、研学がその会則の基礎となっていた。ブルーノは1101年69歳でこの世を去った。
 

7.jpg10月7日
ユスティナ殉教女
 
 5世紀の中頃、イタリアのパドアで1つの教会が聖女ユスティナにささげられた。今日、彼女についてはほとんど知られていないが、中世紀において、彼女ほどパドア市を有名にした者はなかった。7世紀の終わり頃ポアチエの司教で、また有名な詩人であったヴェナンチオ・フオルトウナートが、パドアを訪れる人のために詩を書いて、ユスティナの墓のある教会の中にひざまずいて墓に接吻するように、人々に勧めた。
 パドアの教会はまた、その市の最初の司教聖プロスドチモの遺物も保存していて、伝承によると、この司教がユスティナを改宗させ、彼女は後に信仰のために剣で殺されたと言われている。多くの人々は、この伝承は事実を誇張していると言うが、初代教会の迫害の時、おそらく4世紀の初めのディオクレチアヌス皇帝時代に聖女ユスティナが実際に殉教したことは疑う余地はないのである。
 

8.jpg10月8日
デメトリオ殉教者
 
 テサロニカのデメトリオは歴史と伝承の偉大な「軍人の聖人」の1人である。彼は、多くの弟子たちを、信仰のために、必要ならば殉教するように励ました。ある時ネストルという人はガレリアヌス皇帝のひいきの剣闘士と戦うために闘技場に投げこまれた。不幸にして、ガレリアヌス皇帝の選手はネストルに殺されたので、怒った皇帝はネストルばかりでなく、彼の教師デメトリオまで捕えて死刑にした。
 これは4世紀の出来事であった。
 デメトリオ殉教者はたくさんの奇跡で有名になったが、特に注目されたことは、586年スラブ人たちの攻撃からテサロニカを守ったことであった。スラブの侵入者の数はテサロニカ軍の守備兵よりもずっと多かったが、それにもかかわらず彼らは敗北して逃げ去った。力強い軍隊が来て、その司令官はきらびやかな軍装に身をかためて白い馬に乗っていた、とスラブ兵たちは語った。市民たちは、この超自然的な司令官は確かにデメトリオに相違ないと思った。
 デメトリオの遺骨を納めた精巧な銀メッキの聖遺物箱は、アトス山上の修道院に今も保存されている。
 

9.jpg10月9日
パリのディオニジオ司教殉教者
 
 フランスの保護の聖人の1人の聖ディオニジオはイタリア人で、250年頃6人の宣教師と共にパリヘ派遣された。その中には大胆なエレウテリオとルステイコが居た。宣教師たちの非常な努力によって多数の市民が改宗した。これを見たローマ総督フェスチェンニヌスは3人を捕えて牢獄に入れた。彼らは長い間牢獄の中で乏しい生活に苦しめられたが、275年頃、首を斬られ、その遺体はセーヌ川の中に投げこまれた。
 モンマルトルの「殉教者の丘」は3人の殉教した場所を示している。
 彼らを記念して建てられたサン・ドこの修道院の教会堂は、575年、聖ジェネヴィエーヴによって再建され、この聖人たちを記念するため小修道院を附設した。ダゴベルト1世王はこの教会を改築して、自分の墓をそこに置くように計画した。750年に、サン・ドニのフルラド修道院長は教会の再築を決定し、25年後、その祝別式にカール大帝が列席した。しかし、1122年に有名なスジェールが修道院長になった時、大きな修道院の教会堂が建てられ、その建物は今日まで残っている。
 

10.jpg10月10日
フランシスコ・ボルジア司祭
 
 スペインのカルロ5世皇帝に10年間仕えたフランシスコ・ボルジアは、カタロニアの総督となって、エレオノル・カストロと結婚し8人の子供ができた。1543年父のあとを継いでガンディア公となり、3年後、妻が亡くなった時、彼は全財産を子供たちに分配してイエズス会に入会した。 フランシスコは謙遜に隠れた生活を望んでイグナチオ・ロヨラの指導のもとに修道生活を始め、1年後に司祭となった。1553年イグナチオは彼をスペインの総管区長に任命し、1年後にはそれに加えてポルトガルとインドを管轄するように命じた。
 彼は「罪人のフランシスコ」と署名していたが、それはイグナチオにより中止させられた。彼は多くの新しいイエズス会修道院を創り、1565年に第3代総長として選出された。帰天したのは1572年であった。
 

11.jpg10月11日
ケルンのブルーノ司教
 
 ブルーノは聖女マチルダとへンリー皇帝の末子として生まれ、4歳の時ユトレヒトに送られてバルデリコ司教のもとで、当時有名であった教区学校に入学したが、わずか14歳でへンリー皇帝の弟のオットー1世皇帝の秘書にえらばれた。
 950年に司祭に叙階され、3年後にケルンの大司教に任命された。彼はそこに聖パンタレオン修道院を創立したが、その美しい聖堂は今日まで残っている。
 ブルーノの望みは生まれ故郷の市にベネディクト会の修道院を建設することであった。大司教としての彼の功績は司教の基準を高めたことや、学問の奨励、修道院の刷新などであった。しかし、彼の宗教的義務は政治家としての世俗の義務を妨げることはなかった。
 オットー皇帝はブルーノをロレイン公爵に任命し、自分が教皇によって戴冠されるためにローマに行った時には、ブルーノとその弟子を神聖ローマ帝国の摂政として選任した。
 おそらく、ブルーノの宗教的熱意を表わす最も美しい記念物は、今日まで残っているケルンの聖パンタレオン教会であろう。ブルーノは彼の故郷にベネディクト会修道院を創立したいという望みを実現するため、市外の小さな教会を再築してこの修道院の基礎とした。この建物はケルン市に新しい建築様式の時代をもたらしたが、実際には、ブルーノが亡くなってから10年目の980年まで仕事は始められなかった。この聖パンタレオン教会は、ロマネスク時代を表現するものとなった。
 司教であると共に政治家であったブルーノは、世間において神に仕える召命と、教会の中で神に仕える召命の間に何の矛盾も見い出さなかった。この2つの召命は、地上における天上のエルサレムを地上に再現する試みを命じたのであった。
 

10月12日
ヴイクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女
 
 664年にイギリスのウィットビーで、大きな教会会議が開かれた。そこは、修道士と修道女両方が住む修道院を聖女ヒルダ院長が管理している所であった。会議の主な問題は復活祭の期日を定めることであった。これについてケルトの教会とローマ教会は異なる意見を持っていた。福者ベーダによると、キリスト教国のイギリスにおけるこの意見の相違を多くのキリスト信者たちが嘆いていた。
 オスウイ王が教会会議を司会し、唯一の神に奉仕する者は皆1つの規定を守るべきであると言った。リンディスファーンのコルモン司教は、復活祭を守るためのケルトの規定は正しいと主張して、復活祭の日を決定する方法は聖ヨハネから伝わったと言った。これに対して聖ウィルフリドは、「聖ヨハネを愚かだと言うつもりはありませんが、ローマ教会の復活祭をきめる方法は聖ペトロから出ています」と言った。これを聞いたオスウィ王は次のように言った。「ペトロは天国の門番です。主が王国の鍵を彼に与えられたのですから、私は彼に従います。そうしなければ、私が主の国の門に着いた時に、ペトロは私のために門をあけてくださらないでしょう」。
 ウイルフリドは、ノーサンブリアの領主の息子で、はじめリンディスファーン、次にローマで勉強して司祭に叙階され、30歳の時司教に任命されてイギリスの北部の教区を統治し、709年に帰天した。
 
 
10月12日
パーキングのエセルブルガ
 
 ウイルフリドと同時代のパーキングのエセルブルガは、バーキングにおける男子修道院と女子修道院の最初の院長であった。彼女は司教の妹で、「司教の妹らしく正しい生活をした」と福者ベーダが書いている。
 死去したのは676年頃であった。
 

13.jpg10月13日
エドワード王証聖者
 
 1065年12月28日、ロンドンのウェストミンスターですばらしい大修道院の新しい聖堂が祝別された。これは、以前ここにあったベネディクト会の聖堂をエドワード王が改築したもので、王はそこに自分の墓を作るつもりであった。祝別の1週間後、エドワードは亡くなった。
 エドワードは幼少時代を母后ェンマと共にフランスのノルマンディで過ごしたが、デンマークの軍隊を撃退したイギリス国民に迎えられて、1043年ご後活の祝日にイギリス王として即位した。1045年エドワードはゴッドウイン公の娘エディスと結婚したが、2人は兄妹のような貞潔の生活を送ったと伝えられている。
 エドワード王は、率先して人々の間にカトリックの信仰を広め、人々の幸福のみを考え、積極的な政策を次々と断行して国家の再建に乗り出した。例えば、暴徒に破壊された教会・修道院の再建、各修道会の教育・慈善事業の援助、減税、各国との貿易提携など、数々の善政をしいた。
 エドワード王の名君たるゆえんはその善徳にあった。彼は貧しい人々のみでなく病気に苦しむ人々にも愛の手をさしのべ、祈りによって治したこともあった。このように上は神を敬い、下は万民をあわれんで国を23年治めた後、エドワード王は1063年神のもとに召された。その遺体は後年ウェストミンスター聖堂に安置された。
 

10月14日
カリスト1世教皇殉教者
 
 カリストは若い時奴隷であったが、神のあわれみと本人の努力により、後に教皇となり聖人となったのである。2世紀の初め頃、カリストがローマで奴隷として働いていた時、主人が多額の金を彼に預けた。不幸にしてカリストはそれを失ってしまったので、恐れのあまり逃げ出してボルトス港から舟に乗ったが、追いかけられて主人につかまえられた。主人はカリストに残酷な刑罰を与えようとしたが、友人のとりなしでその時は赦された。しかしあるユダヤ人がカリストが信者であることを密告したため、サルデーニヤ島へ流されて、むち打たれながら炭鉱で働かされた。キリスト教に好意を寄せる皇后マルチアの計らいで信者たちは恩赦を受け、カリストも自由の身となってローマに帰ることができた。
 その後時の教皇ゼフイリノの目にかなって助祭に叙階され、教会の墓地の監督を命ぜられた。同時に教会全体の統治の補佐役にあげられ、217年ゼフイリノ教皇が死去すると、カリストは16代目の教皇の位に上った。在位中カリストは全力を注いでキリスト教の伝道に努めた。
 最も古い殉教録によると、彼は222年のキリスト教徒に対する暴動の際に、トラステベレで虐殺されたと言われている。
 

15.jpg10月15日
アビラのテレジアおとめ教会博士
 
 テレジアは1515年スペインのカステイリア州アビラ市に生まれ、19蔵の春カルメル会修道院に入った。当時の修道生活は規律がゆるんで修道精神も低下し、非常に俗化していたので、テレジアは非常に精神的に苦しんだ。しかし彼女のたゆまぬ完徳への努力と神への全き自己奉献を神は深く喜ばれたようであって、彼女は種々の神秘的体験をするようになった。神はある日、天使を遣わして焼けた金の矢でテレジアの心蔵を貫かれた。それと同時に彼女は神に対する愛然に燃えたつのを感じたという。1562年、テレジアは刷新された女子洗足カルメル会をアビラに創立して、10数人の修道女たちと共に、厳しい清貧と禁域の生活を送り、祈りと黙想を何よりも大切にした。
 このような改革に反対する人々も多かったが、テレジアは勇気を失わずに、十字架のヨハネなどの助力で他にも修道院を創り、ついに17の修道院ができた。
 彼女は多くの著作を残したが、自分の神秘生活について本の中で最も有名なのは「霊魂の城」である。「完徳の道」は仲間の修道女たちのためであった。
 苦行、犠牲、謙遜の十字架の道を歩んだテレジアが神のもとに召されたのは1582年であった。
 

10月16日
ヘドビヒ修道女
 
 ヘドビヒは1174年に、南ドイツのパパリアでアンデックスの城主、ベルトルド公の娘として生まれ、幼年時代はヒッチンゲンの修道院で教育されたが、わずか12歳で未来のシレシアの公爵ハインリッヒと結婚した。夫は18歳であった。1202年ヘドビヒの夫が公爵となった時、現在のウロツラフの北にあるトレブニッツにシトー会修道女のために修道院を建てるように勧めた。ハインリッヒはシレシア中のすべての囚人を使って仕事をさせた1203年から1218年の間に完成したその修道院は100人の修道女たちを収容するとともに、900人の若い女性を教育することのできる大きな建物であった。
 ヘドビヒには六人の子供があって、息子たちはけんか好きで両親に非常な心配をかけたが、三女のゲルトルードはシトー会の修道院に入って院長となった。
 ヘドビヒは夫ハインリッヒの同意を得て同じ修道院に入って清貧の生活を将来することになった。この時からハインリッヒは決して顔を剃らず、華美な服装もせず、何の飾りも着けなかった。そのため彼はひげ男のハインリッヒと呼ばれた。
 ヘドビヒは冬の寒い時でもはだしで教会に出かけ、貧しい人々に教理の初歩を教えたが、ある者は主祷文さえ知らなかった。ハインリッヒはプレスラウに病院を建て、ヘドビヒはノイマルクに女性の療患者のための家を創った。
 ヘンリー企が1238年に死去して、それまで両親の心を痛めていた長男があとを継ぎ⊥ヘドビヒはトレブニツツの修道院に入った。2年後にトルコ軍が侵入して戦争となり、長男のハインリッヒ2世が戦死した時、ヘドビヒは言った。「息子が亡くなったのは残念です。しかし、神の王国で息子が永久に神と一致できることを私は大いに喜びます。」
 彼女は同じ1240年に神のもとへ召された。
 

17.jpg10月17日
アンチオキアのイグナチオ司教殉教者
 
 「シリアからローマまで私は夜も昼も、海上でも陸上でも、10匹の豹と戦っているように感じます。豹というのは、私についている兵士のことで、私が彼らに親切にすればするほど、私に対して猛獣のように残酷にふるまうのです。」
 これを書いた人は、2世紀の初め頃信仰のために捕えられ、死刑に処せられるためローマヘ送られたアンチオキアの司教イグナチオであった。彼は野獣の餌食として円戯場に投げ入れられることになっていた。
 兵卒らはイグナチオを円戯場の中央に祭ってある偶像の前に連行し、「さあ、お前は教えを捨てるか、獅子の餌食になるか」と迫った。見物人はかたずをのんで、彼の方にいっせいに目を注いでいた。彼は静かに天を仰いで、しばし祈りにふけっていたが、おごそかに群衆に向かって叫んだ。「私は罪悪のために処罰されるのではありません。神のために喜んで命をささげるのです。みなさん、どうか1日も早く真の神を信仰してください。」この時、2頭の大獅子がほえながら聖人に飛びついて、食い殺した。
 生前彼が諸教会へあてて書いた手紙の中には、キリスト教会の組織、キリスト者の生活などについての教えが含まれている。
 

18.jpg10月18日
ルカ福音記者
 
 福音書の中の第3の福音書と使徒行録の著者ルカは、ユダヤ人ではなかった。非ユダヤ人に対するイエズスの態度に、ルカはすっかり心を奪われた。イエズスはほとんどユダヤ人の社会で過ごされたが、ルカは、救い主がある時「人々は東と西、北と南から来て、神の国の食卓につくであろう」と言われたことを私たちに思い出させる。イエズスがシリア人と話されたり、ローマの百夫長をほめられた時のことなどもルカは書いているが、特に彼が示すことは、貧しい人々に対するイエズスの愛である。同時に、社会の黒い羊もというべき悪人に対するイエズスの配慮を明らかに示しているのである。
 そして、女性の地位と救霊に対して、男性のそれと同じように大きな関心を持たれたイエズスを表わした福音記者はルカだけであった。当時の女性の地位は一般的に低かったが、ルカは聖母マリアからイエズスについて多くのことを聞き、女性の地位を引き上げるイエズスの教えを示したのであった。
 聖パウロの手紙によると、ルカは医師であって、パウロと共にローマに居た。ルカの書いた使徒行録は、キリスト教の初めの頃の物語を書き記しているが、優れた歴史家として彼が述べていることは、1つの神秘体を形造る教会の発展が、神の恩恵に協力しようとする各人の寛大な努力にかかっているということである。使徒行録の中に書かれている事柄のあるものは、ルカ自身が自ら経験したことであった。
 後世の教会の伝承によれば、ルカが画家でもあり、聖母マリアとイエズスを描いたといわれている。そのため教会は、彼を医師と画家の保護の聖人とした。パウロがローマで壮烈な殉教をとげた後のルカについての明らかな記録は残っていないが、教会の伝承は、彼がギリシャに行って布教し、80余歳で帰天したと伝えている。
 

10月19日
フライズワイドおとめ
 
 フライズワイドは、イギリスの古代のマーシア地方の領主ディディアンの娘であった。父の領土はテムズ川の上流地帯を含んでいた。彼女は一生涯貞潔を守る誓いを立てた。ところがアルガーという皇子がフライズワイドと結婚することを望んで、彼女を追いかけているうちに、盲目になってしまった。しかし、彼が結婚を断念した時に、視力は回復した。
 フライズワイドがアルガーから身を隠していた所は、今のオクスフォードの近くのビンセイという村であった。彼女はそこに修道院を創立して最初の院長となり、帰天したのは753年頃であった。
 その修道院は栄えて、彼女の名は記憶されていたが、12世紀にアウグスチノ会の修道院になった。1180年カンタベリーの大司教とイギリスのヘンリー2世王の前で、フライズワイドの遺骨は修道院の聖堂内の新しい墓に移されたが、9年後にさらに大きな墓が作られた。多数の巡礼団がそこに集まってきて、1年に2度オクスフォード大学は彼女の記念祭を行ない、その遺骨を尊崇した。1440年カンタベリーの大司教は彼女をオクスフォードの守蕎の聖女として宣言した。
 1525年ウルシイ枢機卿がフライズワイドの修道院を閉鎖して、20年後に修道院の聖堂はオクスフォードの新しいカテドラルとなった。しかし、彼女の遺骨を納めた墓はプロテスタントの改革者たちによって破壊された。石は建築のために使用されたが、彼女の遺骨は幸いなことにあるカトリック信者が保存した。その間にプロテスタントのピーター・マーターという教師の妻がカテドラルの中に埋葬されたが、1561年、カテドラルの狂信的な参事員の1人がフライズワイドの骨と彼女の骨をいっしょに混合して、碑銘に「迷信と宗教がここに在る」と刻んだ。今日フライズワイドの遺骨が安置してある場所には、4本の美しい燭台が飾られている。
 

10月20日
アッカ司教
 
 アッカはイギリス北部のノーサンブリアで、ヘクサムのウイルフリド司教に仕え、彼に従ってローマに行ったこともあった。ローマでは、教会の組織について、自分の国では到底学ぶことのできない貴重なことを学んだのであった。その後、ウイルフリド司教が死去した時、アッカがあとを継いで司教となった。アッカはイギリスの教会にローマの習慣を取り入れる必要性を感じていたが、彼の関心は何よりもローマの典礼の美しさを導入することであった。
 彼はケントからマバンという有名な聖歌の歌手を招いて、教会で司祭たちに教えさせたが、マバンはグレゴリオ教皇がローマからイギリスに送った修道士たちの指導を受けた音楽家であった。マバンは教会音楽を12年間教えて、古い聖歌と共に新しい聖歌も練習させた。アッカも自ら美しく歌って、模範を示した。
 アッカの活動は広い範囲に亘っていた。彼は教区内の聖堂を数多く改築したり、へクサムの司教座聖堂を大きくして、装飾をはどこし、聖具を取りそろえた。また、学者たち、学生たちのために立派な図書棺を創った。アッカ自身も聖書学者で、深く聖書を研究した。
 732年に、アッカ司教は何かの理由で、教区から追放されてガロウェイに移ったが、742年に死去する前に帰り、遺体はへクサムに葬られた。
 

21.jpg10月21日
ウルスラおとめ殉教者
 
 伝承によると、ウルスラはイギリスのキリスト信者の王の娘で、5世紀の中頃に生まれた。彼女は11人の仲間を連れてケルンに向けて船出し、そこからライン川に沿ってバーゼルに向かい、ローマを訪れるためにアルプス山脈を越えた。10人の仲間は各自1000人の侍女を伴っていて、11腹の船に分乗したということである。しかし、途中で計画を断念して、皆ケルンに戻った。
 当時はフン族がヨーロッパに侵入して暴威をふるっていた。そんななか蛮族たちの首領がウルスラに恋したが拒絶され、そのため激怒してキリスト教徒のウルスラとその仲間を全部殺してしまった。
 この物語はこのままでは信じ難いが、8世紀頃から伝えられたものである。しかし信ずべき点もある。クレメンシウスという人が建てたケルン市の聖ウルスラ教会の中に、4世紀頃に刻まれたと思われる1つの石碑があり、そこで殉教したおとめたちの名前が刻まれているのである。
 

10月22日
フィエゾレのドナート司教
 
 9世紀の中頃、ドナートというアイルラド人がローマに巡礼に行き、帰りにフィレンツェの近くのフィエゾレに立ち寄った。そこのカテドラルではたくさんの人々が新しい司教選出を前にして祈るために集まっていたが、小柄のドナートが堂内に入った瞬間に教会の鐘が鳴り出し、全部のろうそくに火がともった。人々は大変驚いて、これは神が示されたしるしで、たった今聖堂に入ってきたばかりのこの見知らぬドナートこそ、次の司教に選ばれるべき人だと思って彼を任命した。
 幸いにして彼は非常に信心深い人で、また学者でもあり、詩人でもあった。現在まで残っている彼の墓碑銘によると、彼はすばらしい教師であって、フランク王ロテアとルイ皇帝に仕えたと伝えられている。
 彼は修道院の創立にも助力し、850年にはバビオの聖コロンバン修道院に聖堂と宿泊所を創るために寄付した。そして教会の土地を守るために自ら武器をとることも辞さず、サラセン人に対して軍隊を指揮したこともあった。しかし、彼は同時にもっとも教養ある人物として若者を喜んで教えた。司教として47年間任務を厚くし、876年に帰天した。
 

10月23日
セヴェリノ・ボエチオ
 
 ボエチオは480年、ローマのアニテチィ家という有名なキリスト教の家庭に生まれ、早く父を亡くしたため、元老院議員アウレリウス・シマクスに引き取られて、その娘のルスチカナと結婚した。
 510年ボエチオはローマの執政官となり520年から2年間東ゴート族のテオドリック王の高官として仕えたが、不幸にしてテオドリッタ王に対する謀反を起こしたと訴えられた。彼は東のユスチメス1世皇帝をテオドリック王の代わりに王位につけようとしたと言われ、また魔術師で、正しい秩序を破壊する手紙を書いたと非難されたのであった。
 ボエチオは9か月間パヴィアの牢獄に入れられ、その間に有名な「哲学の慰め」という本を書いた。まもなく彼は刑罰を受けて死刑に処せられた。
 ボエチオは「哲学の慰め」のほかに三位一体についての論文も書いた。これはエウティケスとネストリウスの異端を攻撃して書かれたものであるが、この他に3つの神学的著作があった。また、数学と音楽に関する著作もある。アリストテレスとポルフイリオスの本の翻訳と、アリストテレスとチチェロについての註釈書も書いている。
 しかし、中でも「哲学の慰め」は彼の傑作として残っている著作である。それは5巻で構成され、その中で自分が苦しみのため早く老けたこと、しかし神が世界を治められることに対する自分の喜び、自分についての真の知識、悪は必ず罰せられ、徳は最後には報いられること、真の幸福はただ神の中にのみ見い出されることなどが述べられている。この本は中世紀における最も評判のよい本の1つになった。
 ボェチオが亡くなったのは524年であったが、200年後に彼の遺骨はパヴィアのサン・ピエトロ教会に安置され、今日まで残つている。
 

10月24日
マルコとセノク
 
 マルコというイタリア人と、セノクというフランス人は、2人とも6世紀の聖人で、英雄的な自己犠牲の生涯を送った人々であった。
 マルコは、カンパニアの洞穴の中で隠修士として暮らしていたが、若い時には悪魔の誘惑に度々苦しめられた経験があり、この世の危険は何も恐れなかった。
 彼の洞穴はあまり安全ではなく、上部には今にも落ちてきそうな岩があった。そのままでは危いので、彼の弟子たちがその岩を取り除くために安全に落下させるように頼んだ時、マルコは承諾したが、落下させる問自分は洞穴の中にとどまっていると主張して、いつものように祈っていた。岩は弟子たちの努力で無事地上に落ちて聖人には何の害も与えなかった。
 それからマルコが試みたことは、自分の足に鎖をつけて地面につなぐことだった。これを聞いたヌルシアのベネディクトは反対して、神のしもべとして自分の体をしばるためにはキリストの霊的な鎖だけが必要だと言った。マルコは謙遜にその注告をうけ入れ、すぐに鎖を外したのであった。
 セノクは、ポアトウのティフオージュで生まれ、536年頃、小さな修道院を建てて3人の修道士の長上となった。彼らはローマ軍の残した廃虚に家を建て、パンと水で暮らした。
 セノクはトゥールのエフロニオ司教と親しくしていたが、司教が亡くなったとき葬儀に行き、そこで後継者のグレゴリオ司教と出会った。
 セノクは独房で、詰もせず食もとらずに長い時間すごすのを好んでいた。そのため、トウールのグレゴリオ司教は彼に注告し、もっと多くの時間を仲間の修道士たちと過ごすように配慮した。
 

25.jpg10月25日
クリスピノとクリスピニアノ殉教者
 
 クリスピノとクリスピニアノという兄弟は、ローマに住んでいた熱心なキリスト信者であったが、迫害が始まった時ゴールに逃げてキリスト教の宣教師になった。彼らは貴族であったが全財産を捨ててきたので、靴製造人になって、昼間は教えを宣べ、夜はもっぱら商売に励んだ。しかしわずかばかりの収入に甘んじて、貧しい生活をしていた。彼らの住居は現在ソワソンと呼ばれているノヴィオドヌムにあった。
 数年間彼らは多数の異教徒を改宗させながら平和に過ごした。しかし、マクシミアヌス皇帝がソワソンを訪問した時、ある異端者たちがクリスピノたちの宣教活動について訴えたため、2人はリクチオ・ヴァロというキリスト教嫌いの男に引き渡されて残酷な苦しみを受けた。しかし彼らの心は変わらなかった。
 リクチオ・ヴァロは精神的に異常な人のようであったが、クリスピノ兄弟が何の刑罰も恐れないのを見て激しく怒って、気が狂ったように水中に飛びこんで死んだ。(他の説によると彼は2人の聖人のために準備された火の中にとびこんだと言われる)。最後にマキシミアヌス皇帝は2人の首を斬るように命じた。
 今日、クリスピノとクリスピニアノは皮革製造業者の保護の聖人となっている。
 

26.jpg10月26日
エヴァリスト教皇殉教者
 
 エヴァリストは救い主イエズス・キリストのようにベトレヘムで生まれた。ギリシャ系のユダヤ人であったがキリスト信者となって、ローマに行った。そこで97年から100年の間に、クレメンス教皇のあとを継いで教皇となった。
 エヴァリストは発展途上の初代教会の組織造りに大いに貢献して、ローマを小教区に分割し、7人の助祭を任命して仕事をさせた。これは使徒たちがエルサレムの貧しい人々の世話をするために7人の助祭を任命したことと同様であった。
 エヴァリストは107年に殉教者として亡くなったと伝えられているが、明らかな証拠はない。しかし、キリスト教の初期においては、有力な信者たちが信仰のゆえに残酷な死をとげたことは当然なことであった。
 

27.jpg10月27日
フルメンチオ司教
 
 330年頃、レバノン南部の港町タイアにいたメロビオという哲学者が、弟子のフルメンチオとエデシオを連れてアビシニア(現在のエチオピア)へ旅行した。
 目的地へは無事に着いたが、帰りに船がアドリスの港へ寄港した時、土地の住民たちが旅客を奴隷として売りとばした。その時フルメンチオは幸いなことに王の秘書としてやとわれ、エデシオも宮廷の小姓となった。彼らはエチオピアに教会を開く許可さえ得て、人々をキリスト信者にするように努めた。王が死去した時、アプレアとアスベハという2人の王子が王となった。
 フルメンチオとエデシオは自由の身となって、エデシオはタイアに帰った。しかし、フルメンチオは自分たちがキリストのためになしとげた事業を確固たるものとするために、アクスムという所へ司教を送ってくれるようにアレキサンドリアのアタナジオに頼みに行ったが、結局、フルメンチオが教会会議で満場一致でエチオピアの司教に選ばれた。フルメンチオはその死後、「われらの父、平和の父」と呼ばれた。
 

28.jpg10月28日
シモンとユダ使徒
 
 イエズスの12使徒の中のシモンは、マタイとマルコの福音書によるとカナン人であつた。ルカはシモンをゼロテ(熱心家)と呼んでいる。シモンは使徒の中で特に信仰があつく、モーゼの律法を厳格に守っていたからである。
 ユダは新約聖書の中ではイエズスの親戚で、ヤコブの兄弟であったと記されている。彼はキリストの昇天後ユダヤ、シリア、小アジアなどに布教したらしく、64年頃小アジアの諸教会あてに書簡(新約聖書中のユダの手紙)をしたため、極端な自由主義者らの誤謬にそまらないように、信者に警告を与えている。
 「不信仰な人々がしのび込んできて、私たちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、私たちの主であるイエズス・キリストを否定している。」(ユダ4・8)
 そして、信者たちに、自分自身の信仰を固く守り、祈り続け、神の寵愛にとどまるよう戒めながら、迷っている人々を説得し、永遠の滅びより救うように勧めている。
 後世の伝承はペルシャにおけるシモンとユダの殉教について述べているが、一説によると、シモンはエデッサで平和に亡くなったとも言われている。
 

29.jpg10月29日
エルサレムのナルチッソ
 
 ギリシャ人であったナルチッソがエルサレムの司教に任命されたのは老年になってからであった。しかし、彼は老齢にもかかわらず教区を厳しく管理したので、敵意を持っていた者から無実の罪で訴えられた。多くのキリスト信者たちはこれを信じなかったが、ナルチッソ自身は、隠退して祈りと黙想のうちに過ごしたいとかねてから望んでいたので、これ幸いとエルサレムを去った。数年間誰もナルチッソに会う者はいなかった。ナルチッソの留守の間、代わりに教区を治めるために任命された人物が亡くなってしまったため、他の人物が司教に任命された。ちょうどその時ナルチッソが現われた。長い間彼はエルサレムを離れていたので、人々は彼がよみがえったのかと思った。彼は非常に高齢になっていたのでアレキサンデルという司教が彼を助けることになった。しかし、ナルチッソはなお任務を厚くしながら220年に亡くなった。
 ナルチッソの生涯は決して容易なものではなかったが、伝承によると、約122歳まで生きたということである。
 

30.jpg10月30日
アルフォンソ・ロドリゲス修道者
 
 アルフォンソ・ロドリゲスは1531年スペインのセゴビアの豪商の家に生まれた。23歳の時父のあとを継ぎ、結婚して数人の子供をもうけて恵まれた生活をしていたが、長くは続かず、試練にさらされた。まず最
愛の妻に死別され、次々に子供を失い、その上商売にも失敗した。しかし、アルフォンソはすべてを神の手に委ねて、余生を神に仕えるために送る決心をして、できれば司祭になりたいと望んだ。セゴビアのイエズス会では彼の年齢や体力、学問などでの理由で最初は反対したが、管区長はアルフォンソの優れた徳行を認め、喜んで入会を許した。翌年マヨルカ島のパルマヘ派遣され、助修士として目立たない仕事をしながら聖性にはげんだ。1580年には彼は学院の玄関番に任命され、この仕事を約40年間続けた。
 常に柔和な態度で客を迎えるアルフォンソは来客に大きな影響を及ぼして、多数の人々が彼の賢明な助言や指導を求めにきた。彼の口からもれる短い言葉のはしばしに驚くべき神の英知のひらめきを感じとったからであった。そこで上は国家の元首から下は一介の庶民に至るまで、あらゆる階級の人々が彼に教えを求め、代祷を願った。
 彼は1617年にその従順の生涯をとじた。

31.jpg10月31日
ウォルフガング司教
 
 ウォルフガングは10世紀にドイツの南部スウェーベンに生まれ、少年時代、コンスタンス湖のそばの有名なベネディクト会修道院に送られて勉強し、ヴュルツブルク市の司教の兄ヘンリーという若い貴族の友人となった。この司教が同市に大きな学校を開いた時、ヘンリーはウォルフガングに勧めていっしょにそこで勉強するようになった。
 956年、ヘンリーがトリールの大司教になった時、ウォルフガングにいっしょに行って教会学校で教えるように依頼した。へンリーが964年に亡くなった時、ウォルフガングは最後まで忠実に付きそったが、今こそ修道士になりたいと思ってトリールを去った。しかしイギリス人のベネディクト会修道院長は彼の学識に感心して、修道院学校の校長に任命し、その学校はその地方で最優秀の学校となった。その後オットー2世皇帝が学徳兼備のウォルガングをレーゲンスブルクの司教に推せんして、叙階されたが、彼は質素で厳格な生活を続け、貧者や病人をあわれんで物心両面の援助に力を尽くした。
 彼は994年74歳の時帰天した。