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11月の聖者カレンダー

11月1
ベニグノ殉教者
 
 6世紀の伝承によると、ベニグノは仲間の司祭と助祭と共に2世紀にゴールに宣教するためスミルナのポリカルポ司教により派遣された。彼らは旅の途中コルシカで難船し、マルセイユに上陸してローン川とセーヌ川を上って危険な旅を続けた。オータンに着いてからベニグノはシンフオリアノという貴族を改宗させたが、この人は後に殉教者となった。
 べニグノと仲間は別々にゴールの各地で宣教をした。
 当時のキリスト教の迫害にもかかわらず、ベニグノは公然と宣教しているうちに、役人に訴えられて裁判にかけられた。彼は異教の神々や、皇帝に供え物をすることを拒絶し、残酷な拷問を受けてもキリストに対する信仰をかたく守り続けて、最後に死刑に処せられて殉教した。
 また、本日は諸聖人の祝日である。
 

2.jpg11月2日
ヴィクトリノ殉教者
 
 ヴィクトリノは古代ローマ領パンノニアのベタウの司教で、ディオクレチアヌス皇帝の迫害の時、303年頃に殉教した。
 彼は、キリストがこの世を1千年問治めるために再来されると信じていたが、この説は後に異端とされた。その結果、彼の著作はほとんど何も残らず、ただ新約聖書の最後の部分の解釈と、世界の創造について理論的に書いた、科学と神学を混合した本が存在するのみである。
 事実、彼はラテン語で聖書についての解釈を書いた最初の人であった。聖エレミアは彼が旧約聖書についてたくさん書いたことをほめているが、それらが残っていないことは残念である。
 ディオクレチアヌス皇帝によるヴィクトリノの刑罰と殉教については、記録さえも失われている。
 

3.jpg11月3日
フーベルト司教
 
 中世紀の多数の聖人たちは狩猟を楽しんだが、聖フーベルトもその1人であった。ある日、彼がアルデンヌの森の中を歩いていた時、1頭の鹿が目の前に現われたので、すぐに殺そうとした瞬間、鹿の角の間に十字架が見えてきた。その日は聖金曜日であった。フーベルトがその場でひざまずくと、「もし、キリストに信頼して生活しなければ、地獄に落ちるだろう」という声が聞こえた。この瞬間は彼にとって新しい生活、より偉大な価値ある人生のスタートになった。これはアルデンヌの森での出来事であった。
 フーベルトはベビン公爵に仕えていたが、彼の妻は685年に息子を生んでまもなく死去した。その時から彼は今までの職務から退いて、メストリヒトのランベルト司教の許に行って指導を受け、森林の中で隠修士として数年聞過ごし、司祭に叙階された。
 705年頃、ランベルト司教はベビン公爵の姦淫の罪をきびしく戒めたので、リュージュの村で暗殺され、フーベルトがランベルトのあと縦ぎとして選挙されて司教となった。
 聖ランベルトが殺されたのはリエージュであったから、フーベルトはその遺骨をメストリヒトのカテドラルからリュージュに移して大聖堂を建て、司教座もこの地に定めた。その結果リュージュは大きな都市となって、今日聖ランベルトは教区の守護者、創立者として崇敬されている。
 8世紀には、アルデンヌの森にキリスト教を全く知らない多数の異教徒が集まって偶像を礼拝していたので、フーベルトは彼らを改宗させて、偶像を破壊するようにカを厚くした。彼の好んだことは、行列を作って、祈りを訴えながら田畑の収穫物を祝別することであった。
 727年5月30日、フーベルトは主の祈りを訴えながら神のもとに召された。
 

4.jpg11月4日
カロロ・ポロメオ司教
 
 カロロは1538年、イタリアのロンバルディア地方で生まれ、15歳の時、パヴィアの大学で民法と教会法を研究した。1560年叔父の教皇ピオ4世からローマに招かれ、22歳の若さで助祭枢機卿にあげられ、さらにミラノの大司教に選ばれた。
 当時は教会内や修道院内の風紀が乱れていたので、カロロは必要な改革に取りかかった。ある日、彼が聖堂で祈っていた時、改革を快く思っていない不平分子の1人の修道者が、カロロを銃で撃って殺そうとした。幸いなことに命は取りとめたが、カロロは教会のために自己をささげる決心を新たにした。
 当時ミラノ大司教区はヴェネツイアからジュネーブまで広がり、3千人の司祭と6万人の男女の信徒が居た。カロロは教区内を度々巡察して回り、特に貧しい人々を助けた。1575年ミラノ市が疫病のペストに襲われた時も、市を離れずに患者の救済に力を注ぎ、1570年の飢饉の時には、毎日3千人のために食物を探し求めた。1584年、46歳で帰天した。
 

5.jpg11月5日
ザカリアとエリザベト
 
 ルカ福音書は、エリザベトとザカリアは「2人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守った」と書いている。彼らの1つの悲しみはエリザベトが不妊の女で子供がなく、2人ともすでに年をとっていたことであった。ザカリアが祭司の務めをしていた時、大天使ガブリエルが現われて、エリザベトが子供を産むこ
とと、その子をヨハネと名付けるべきことを告げた。ザカリアは大天使の言葉を容易に信じられなかったので、予言が成就されるまで口が利けなくなった。
 ヨハネ(洗礼者ヨハネ)が誕生してから8日日に、近所の人々や親類は幼な子に割礼を施しに来て、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。しかし、エリザベトが反対し、ザカリアも板の上に「ヨハネ」と書いて皆に見せた。すると、ザカリアの口が開け、ものが言えるようになって、神を賛美し始めた。「主はその民を訪れて解放される。この子はいと高い方の預言者と呼ばれ、主に先立って行き、その道を整える」と言った。
 後の伝承によると、ザカリアはへロデ王に自分の息子の所在を言わなかったため、神殿で殺されたという。

6.jpg11月6日
ノブラクのレオナルド司祭
 
 フランク王クロヴィスに洗礼を授けたフランスのレミジオ司教によってキリスト信者になったレオナルドは、受洗後まもなく身も心も神にささげようと決心し、貴族の身分を捨てて司祭となった。クロヴィス王は彼を司教に推せんしようとしたが、それを辞退してリモージュの近くの森の中に小屋を建て、そこに住んで隠修士の生活を始めた。
 ある日、王が王妃を連れて狩猟に来た時、王妃が急に産気づいた。レオナルドの祈りによって無事に子供が生まれたので、王は非常に感謝して、レオナルドが1日中ろばを乗り回すことのできるほどの広い土地を与えると約束した。
 レオナルドは約束どおり大きな土地を与えられたので、ノブラクの修道院を創立し、福音宣教のためにそこから方々へ出かけて行った。
 聖人が改心させた囚人は全部釈放するとクロヴィス王が約束したので、彼は産婦ばかりでなく、戦時捕虜の保護の聖人とみなされている。
ヘルタラノ司教殉教者
 イタリアの北部ペルージアのヘルクラノ司教は、549年ゴート人が市を占領した時、トティラ王の命令で非常に残酷な刑罰を受けた。司教は斬首される前に全身の皮膚をはがされることになっていたが、異教徒の兵士があわれんで、皮をはぐ前に司教の命を断って殉教させたのであった。
 

7.jpg11月7日
エンゲルベルト司教
 
 エンゲルベルトは1187年ドイツのベルグの貴族の家に生まれ、若い時、オットー4世皇帝に武器をもって反抗したという理由で破門されたが、その後アルビ派の異端に反対する運動に参加して、その罪を赦された。30歳の時ケルンの大司教に任命されて、司祭と修道者たちに厳しい生活をさせたが、彼らは常に大司教の保蕎に信頼を置いていた。
 ところが彼の従弟のイセンベルグのフレデリク侯爵がエッセン市の女子修道院の土地と財産を奪ったので、エンゲルベルト大司教は強硬に彼を責めた。そのためフレデリクは、50人の従者を引き連れて大司教を待ち伏せ、彼を殺害した。その死体には47の傷があったと言われている。
 

8.jpg11月8日
4人の殉教者
 
 ローマのチェリオ丘にサンテイ・クワトロ・インコロナティという教会が建っていて、その中に大理石彫刻家の組合にささげられた小聖堂がある。教会は6世紀またはその前からここに建てられていて、それは4人ではなく5人の殉教者を記念している。彼らはパンノニアから来た優れた石像彫刻家であった。名前はシンプロニアヌス、クラウディウス、ニコストラトス、カストリウス、シンプリチウスであった。
 彼らがスミルニウムに住んでいた時、デイオクレチアヌス皇帝のためにギリシャの薬の神エスキュラピウスの像を彫るようにと命令された。この仕事は名声と共に多額の報酬の源になったであろうが、5人の彫刻家はキリスト信者であったので、偶像崇拝に協力することはできないと言って拒絶した。それから、彼らは太陽の神にそなえ物をささげるように命じられたが、これもことわったため、彼らは縛られて、鉛の箱に結びつけられ、川の中に投げこまれて殉教した。
 

9.jpg11月9日
テオドロ兵士殉教者
 
 テオドロは、ローマ帝国末期のキリスト教迫害における犠牲者の1人であった。
 彼は軍人で、その所属部隊が冬期駐屯のためボント州アマセア市に派遣された時、皇帝から新たにキリスト教禁止の布告が出た。テオドロは早速呼び出されて異教の神々を礼拝するように命じられ、もし従わなければ死刑にするとおどしをかけられた⊂
 しかし、テオドロは自分の信仰をかたく守って次のように言った。「イエズス・キリストは私の唯一の神であります。私の言葉があなたのお気にさわるのであれば、どうぞ私の舌を切ってください。神が命じられる時には、喜んで私の全身をささげます」。
 部隊長も総督もこの新兵を殺すことを望まず、彼を兵舎に帰らせた。テオドロは女神シビルの神殿のあったアマセア市の中心地に行って、神殿に放火して、自分がどんなに異教の神を嫌うかを公然と示そうとした。しかし総督は彼を罰せずに、もしキリスト教の信仰を棄てるならば、シビル神殿の祭司にしてやると言ってその心を動かそうとしたが、彼は人々を迷わす異教の祭司には絶対になることはできないと断った。
 ついにテオドロは残酷な拷問にかけられた。まず激しくむち打たれたあげく、火あぶりの刑の宣告を安けた。306年2月17日この若い丘士はかまどに投げこまれて殉教した。
 エウゼビアというキリスト信者の女性が彼の遺骨を埋葬した。
 

10.jpg11月10日
レオ1世大教皇教会博士
 
 レオ教皇はシクスト3世教皇のあとを継いで、440年教皇位についた。その在位中に教会の内外に種々の災難が起きたが、その1つはエウティケが、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウスの邪説を熱心に排斥するあまり、キリストの「単性論」という正反対の極端の説をとなえ始めたことであった。すなわちキリストの人間性も神性の中に溶けこんでしまったという説である。レオー世はコンスタンティノープルの司教フラヴィアノあての教書で、キリストの性格の中に人性と神性とが結合していることを主張した。
 451年、カルケドンに公会議が開かれると、レオ教皇は使節を送って司会させた。議場で教皇の信仰宣言書が読まれた時、司教たちは感動して「これこそ教父たちの信仰、これこそ使徒たちの信仰である。ペトロがレオ教皇の口を借りて語ったのだ」と異口同音に叫んだという。企会議は「キリストの神性と人性とは混合もなく、変化もなく、分離もなく、区分もなく、その位格に結合している」と決定した。
 452年のフン族がローマに進撃して来た時には、レオは自ら進み出てアッチラ王に交渉して退却させた。
 レオ教皇は在位21年間、真の牧者として活躍し、461年帰天した。
 

11月11日
メナス殉教者
 
 メナスはエジプトで生まれ、ローマ軍の兵士になる前はらくだ飼いで、キリスト教徒であった。彼の隊がフリジアに到着した時、ディオクレチアヌス皇帝の迫害が始まったので、メナスは殺されないように、軍隊から去って山中の洞穴に隠れた。
 しかし、多数の信者たちが死刑になるのを知ったメナスは、自分の信仰を公にすることを決心して、フリジアのコテウムの円戯場に現われて、自分はキリスト信者だと宣言した。彼はその場でつかまえられて責め苦を受けたが、信仰を守り続け、ついに斬首された。
 

12.jpg11月12日
ポロツクのヨサファト殉教者
 
 ヨサファト・クンセヴィッチは、1580年ポーランドのウラディミルで生まれた。当時はローマ教会とロシア正教会との合同運動が起こっていて、ヨサフアトの父はローマ教会に属するようになった。ヨサファトはヴィルナの商人に預けられたが、彼の興味は商売より教会のことに向けられ、ビザンティン典礼に使うスラブ語を学んだ。
 1604年彼はヴィルナの聖三位一体修道院に入り、後に院長となった。1609年司祭に叙階され、1617年ポロツクの大司教に祝聖された。東西教会の間の争いは教区を分離させて信者たちは途方にくれていた。ヨサファトは常に合同運動に努力したので離教者側から非難され、中傷されて命まで危うくなった。1623年巡回視察の途中、ビテブスク市に滞在中、教敵に扇動された離教派の市民が手に凶器をぶりかざして司祭舘に侵入、ヨサフアト目がけて飛びかかり、棒で打ちのめしたあげく、銃弾でとどめを刺した。
 「私はあなたがたの羊網いとして死ぬことを喜びます」と日頃言っていたヨサファトの言葉がこのように成就されたのは1623年11月12日であった。
 

13.jpg11月13日
フランシスカ・カブリーニ修道女
 
 アメリカ市民として最初に列聖されたフランシスカ・カブリーニは1850年7月15日イタリアのロンバルディア州のサンタンジェロ・ロディジアノで生まれたイタリア人であった。18歳で孤児となり、教師をしていたが、修道女の召命を感じて、教区長の勧めで数人の女性たちを集めて聖心の布教修道女会を創立し、まず貧しい家庭の子女のために小学校を開いた。
 彼女は中国へ宣教に行きたいと最初は望んでいたが、当時、アメリカのイタリアからの移民たちが救助を必要としていることを知って、6人の修道女たちを連れて1889年こューヨークに到着した。コリガン大司教の指図のもとに事業を始めてから、その後28年間国内各地を巡って4つの病院と50の孤児院、修道院、および学校を建てた。まもなく修道女たちはイギリス、フランス、スペイン、南アメリカにも呼ばれて行った。
 フランシスカはアメリカに帰化して、1917年に帰天し、1946年に列聖されて、移民の保護の聖人となった。
 

14.jpg11月14日
グレゴリオ・パラマス司教
 
 ギリシャのアトス山の修道土たちは、体と精神を完全に安らかにし、静かにすることにより神自身の内的光を見ることができると信じた。それは、清らかさと深い霊的視野をもたらす神の恩恵であると言った。
 中世紀の終り頃、東方教会のある人々は「安静観想主義者」と呼ばれたこの神秘主義者たちは誤っていると考えた。バルラームというギリシャの修道士は、イエズスが変容された時、彼の周りに輝いた光、すなわち神の「内的光」は神の本性に属するもので、人間は誰もそれを経験することはできないと言った。
 1341年のコンスタンティノープル会議でグレゴリオ・パラマスは、この説を大いに賛成擁護したが、もし彼の助けがなかったならばバルラームは誤っていると非難されたに相違ない。グレゴリオは真の黙想をするためには指導者が必要であることを主張した。2つの教会会議で彼の考え方が拒絶された時、アトス山の修道土たちは彼を支持した。
 1347年彼はテサロニカの司教となり、1368年の教会会議で「教父・教会博士」の称号をおくられた。
 

15.jpg11月15日
大アルベルト司教教会博士
 
 アルベルトは1206年南ドイツのシュワーベン州の小都市ラウインゲンの貴族の家に生まれ、北イタリアのパドア大学に留学していた時に新しくできたドミニコ会に入会し、司祭となった。その後パリで勉学を続けてアリストテレスの著作を読み始めた一ケルンの大学で哲学と神学を教えた時にトマス・アクイナスも学生の中に居て、彼とは死ぬまで友情を保った。
 アルベルトはアリストテレスの思想をドミニコ会に導入し、西方教会全体にその知識をゆき渡らせたいと望んだ。信仰と理性との間に明らかな区別をした神学者は彼が最初であった。単なる理性によって、誰も三位一体やイエズスの託身、復活の知識を得ることはできないと彼は主張した。
 アルベルトはその優れた広汎な思索によって、人間の知識と教会初期の教父たちの考え方についてのギリシャとアラビアの方法の相違をみとめたのであった。神学と哲学は2つの明確な理論の方法であることを彼ははっきりと指摘した。
 こうして、信仰、知識、生活の調和・統一を最高度に達成して、1280年安らかに永眠した。
 

16.jpg11月16日
スコットランドのマルガリタ皇后
 
 1057年プリンス・エドワード(イギリスのエドモンド王の島流しになった王子)の娘のマルガリタは12歳の時、イギリス王エドワード王の宮廷に連れて来られた。しかし10年後、フランスのノルマンディ公ウイリアムが大軍を率いてイギリスのヘーステイングに上陸して、アングロサクソン王国を打倒して自ら王位についた時、母と共にスコットランドヘ逃げた。そして1070年、彼女は母の望みに従って国王マルコルム3世と結婚して王子6人、王女2人の母となった。彼女の影響で国王は信心深いキリスト信者となり、慈善事業や病院の設立などに多大の捷助を与えた。
 マルガリタは英国人の修道土をスコットランドヘ連れて来てベネディク.ト会修道院を創立させ、1072年、美しい教会が建てられた。慈悲深い「国の母」としてマルガリタは23年間国民の声に耳を傾けてその要求を満たし、国王と協力して彼らを真の幸福へ導き、対外的には隣国と平和を保つようにした。女王が多年の心労と苦業のために倒れたのは1093年であった。
 

17.jpg11月17日
ハンガリーのエリザベト王妃
 
 エリザベトは1207年にハンガリーの王女として生まれ、4歳の時、ドイツのチューリンゲンの領主ヘルマンの子息で当時11歳のルードヴィヒと婚約させられた。そして領主の希望により、将来領主の后として必要な教養を与えるためにチューリンゲンのワルトブルグ城に迎えられた。
 エリザベトを愛していたルードヴイヒと結婚したのは1221年で、1男3女の母となった。彼女は家庭においては常によい妻であり、賢明な母であったが、域外に住む多くの貧しい人々と病人、特にらい病者を城内に連れて来て、自ら洗い清め、自分のベッドに寝かせたと伝えられている。
 エリザベトの幸福な結婚生活は6年しか続かなかった。1227年彼女の夫はフリードリヒ2世に従って第5十字軍に参加する決心をして、聖地に向かったが、途中、イタリアの港で不幸にも病気で倒れ、帰らぬ人となった。時にルードヴィヒは27歳であった。
 エリザベトは深い悲しみに沈んだが、それに加えて、さらに大きい困難と苦悩とが次に待っていた。夫の死後まもなく彼女の義弟がユリザベトと子供たちを域外に追放したので、寄る辺ない身でアイゼナハの町へと下って行った。しかし、町の人々はこの慈悲深いかつての王妃を迎えず、暖かい手をさしのべようともしなかった。その理由は新しい領主がエリザベトに宿を提供しないようにとの命令を出したからであった。
 彼女は夫の葬式をすませてから、フランシスコ会の第3会員になることを許され、マーブルグの村の小さな家に住んで祈りと清貧と慈善の生活に全身全霊をささげた。そして飢えた人には食べ物を、ぼろをまとう人には衣服を、悩み悲しむ人には慰めを与えて世話をした。
 こうした謙遜と忍耐の生活を2年あまり過ごしてから、1231年、24歳の若い魂を神のみ手に返した。
 

11月18日
マエス修道院長
 
 マエスの母アゼノルはブリタニーに住んでいたが、ある日ブレストの近くの海に投げこまれた、たるのような小さなボートの中でモウスを生んで5か月日にアイルランドの岸に打ち上げられたと伝えられている。6世紀のアイルランドの聖人伝には不可思議な物語があるが、聖マエスの伝記もその1つの例である。
 チルドベルト1世王の時、マエスは自分の母の故郷ブリタニーに帰る決心をして、途中デヴォンとコーンウォールを訪ねて説教し、フォール河の岸に1つの町を作って自分の名を付けた。その後、彼はフランスの海岸に近い島に上陸して、枯れ草を燃して葦柁や害虫を殺し、人々を助けた。
 マエスがブリタニーに帰った1つの理由は、アイルランドの黄熟病から逃れるためだったと言われているが、皮肉なことに、彼は種々な病気を治す才能があることで有名になった。彼の死後、その遺体が埋められた墓の下の土は度々掘り返され、水を混ぜて薬として使用された。
 マエスは晩年にマウデ島に修道院を建てた。ある時、島の中で最後の火が消えてしまったので、マエスは、1人の少年を干潮の時に泳がせて本土に送り、火種を持ち帰らせようとした。少年が帰途についた時、海が荒くなって波はだんだん高くなり、火種を吸いこみそうになった。しかし、少年は岩の上に立って聖マエスに祈ったところ、岩は奇跡的に高く上って、海の中に落ちなかったと伝えられている。海がもと通りになった時、火種はマエスのもとに無事に持ち帰られた。
 

11月19日
バルラーム殉教者
 
 バルラームは4世紀にアンチオキアで働いていた無学の労働者であった。当時はまだキリスト信者が迫害されていた時代で、バルラームも裁判官の前に引き出されて、教えを棄てるように責められた。
 初めに残酷にむち打たれたので、骨が外れてしまった。しかし、彼はなお信仰をかたく守ったので、裁判官は他の方法を考えた。役人に命じて異教の神々のための祭壇を作らせ、その上に火をともらせた。そしてバルラームを連れて来て、手に香の粉を持たせて、祭壇の上の火の中に入れさせようとした。裁判官の考えでは、バルラームが苦しみに耐えかねて手を引っこめて香を祭壇の上に落とせば、彼は異教の神々に供え物をしたことになるということだった。
 バルラームは、すべてを察して、自分の手がすっかり焼けてしまうまで忍耐して刑吏たちを驚かせた。最後に彼は死刑に処せられて殉教した。
 

20.jpg11月20日
エドモンド王殉教者
 
 855年の降誕祭の日に、エドモンドは15歳の時、支配階級と聖職者たちから古代イギリスのノーフォーク王として迎えられ、翌年サフォークの王に任命された。15年間、彼はキリスト教的精神で国を治め、旧約聖書のダビデ王の信仰を模範とし、公の礼拝の場でダビデの詩編を訴えるのを好んだ。
 866年から、デンマークのデーン族の侵略が始まり、遂に870年にはイースト・アングリアに入ってテトフォードまで到着し、市を焼き払った。エドモンド王の軍隊はデーン族に立ち向かったが、略奪者たちを敗北させることはできなかった。エドモンド王はデーン族に捕えられてむち打たれたが、イエズスのみ名を請えながら責め苦を忍び、最後に斬首されて殉教した。
 その後デーン族たちは、近辺のすべての教会を破壊し、ピーターボローの修道院を襲って院長とすべての修道士たちをみな殺しにし、建物を焼きはらった。エドモンド王は信仰のために命をささげたイギリスの唯一の王であった。
 

21.jpg11月21日
ジェラシオ1世教皇
 
 492年から496年まで教皇の位に在ったジェラシオ1世教皇は、自分の前任者の2人の教皇の秘書であった。彼は聖人と殉教者の正確で完全なリストを作り、教会会議の重要な教令を集成したが、それは西方教会ばかりでなく、彼が適当と判断した東方教会の教令も含んだものであった。また、アリウス主義、ネストリウス主義などに対する反論を述べた多数の書簡は、6つの教理神学上の論文と共に残っている。
 ジェラシオは、地上における最高の権威は教会であると確信し、それは教皇職の権威の中に要約されていることを感じた。教皇職と比べてビザンティン皇帝の役割は小さいものであった。
 当時の多数の改宗者の中には、真のキリスト教的生活をしていない者が居た。例えば、毎年2月になると彼らはパンという名のローマの神の祭典を行なっていたので、ジェラシオはそれを中止させるために力を厚くした。
 アカチオがコンスタンティノープルの総主教であった(471年から489年)時に、ローマと東方教会との間の分裂をもと通りにすることをジェラシオは試みた。しかし彼の目的は、ローマの司教の優越性をコンスタンティノープルの総主教の上に置くことであった。
 

22.jpg11月22日
セシリアおとめ殉教者
 
 セシリアは2世紀の初めの頃、ローマの裕福な貴族の家に生まれた。熱心なキリスト信者として生活し、一生涯貞潔を守って神に仕えたいと望んでいた。しかし、父は早くからセシリアをヴァレリアノという異教徒と結婚させることに決めていた。結婚式の日に、皆が歌ったりおどったりしていた時、彼女は離れた所に座って詩編を唱えていた。式のあとでセシリアは夫に向かって、自分が神に終生の貞潔を誓ったことを告げた。
 ヴァレリアノと弟ティブルツイオはセシリアの熱心な信仰に感心して、2人とも洗礼を受けた。そして、多額の金を出して殉教者たちの遺体を引き取って、ふさわしい葬儀をした。これを聞いた総督のアルマキウスは2人を呼んで偶像に供え物をささげるように命じたが、2人は拒絶したので、むち打たせた上、首を斬って殺してしまった。この時マキシムスという1人の刑吏が殉教者たちの態度に心を打たれて改心し、いっしょに殉教した。
 セシリアは彼らの遺体を手に入れて、プレテクスタトスの墓地に丁重に埋葬した。その後、自分の家を教会にしたことが、総督に知られて、彼女は教えを棄てるように責められた。しかし、セシリアの志をひるがえすことはできなかったので、非常に残酷な刑罰を言い渡した。彼女は風呂場でむし殺されることになって、一昼夜というもの、火は燃えさかったが、彼女は汗ひとつかかなかった。総督はそれを聞いて、セシリアの首を斬らせた。しかし、あいにく切りどころが悪かったので、3日間の問苦しんで殉教した。
 信者たちは遺体をカタコンブ内に葬った。彼女の墓の上には、1599年にイタリアの有名な彫刻家が美しい大理石で聖セシリアの殉教像を造ってすえつけた。彼女は音楽家の保護の聖人である。
 

23.jpg11月23日
クレメンス1世教皇殉教者
 
 「嫉妬と羨望によって、教会の最も偉大で最も正当な柱が迫害され、激しく苦しめられました。勇ましい使徒たちをごらんなさい。ペトロは不正なねたみを耐え忍びながら1つや2つではなく多くの仕事を成しとげて、彼の真の栄光ある場所に行きました。パウロは、ねたみの争いの中で、忍耐の勝利を示しました。7度の監禁、流謫などを経験しながら、東と西に信仰を伝える人となりました。
 このような聖なる人びとと交わった多数の人々が嫉妬のために苦しみました。その中には婦人も居ましたが、弱い体で信仰の民を完成しました」。
 この手紙を書いた人は第4代の教皇クレメンスである。彼が言及する嫉妬の害は、当時のコリントの教会にかかわるもので、そこでは種々の党派が起こって正統なキリスト教会の指導者たちを追い出し、未信者たちがキリスト教の信心を侮っていた。
 95年に書かれたクレメンスの手紙は新約聖書のある部分よりは古いものである。彼は旧約聖書の物語に照らして、悪事がいかに嫉妬の結果であるかを示している。
 彼はコリントの信者たちに、相互に愛し合い、尊敬し合って、教会の長上を尊敬するように勧めた。「イエズスに従うすべての人々の目的は平和である」とクレメンスは言っている。
 

24.jpg11月24日
クリソゴノ殉教者
 
 ローマの役人であったクリソゴノはキリスト信者になった後、多数の人々を同じ信仰に導いた人であった。特にアナスタジアと親しくなり、彼女を信者に導いたと伝えられている。
 クリソゴノの宣教は役人たちに嫌われて投獄され、何か月も悲惨な状態で苦しんだ後、首を斬られて殉教した。それはディオクレチアヌス皇帝の迫害時代で、彼の遺体は海中に投げ入れられたが、ゾイルスという司祭に拾われた。
 4世紀の初めにシルベストロ1世教皇がクリソゴノの墓の上に教会を建てて、それが20世紀の初め頃に発掘されたが、ローマにおける聖クリソゴノ教会の現在の位置より20フィートも下にあった。
 聖クリソゴノ教会には聖人の頭と1本の腕が大祭壇の上に安置され、17世紀に美しく装飾された天井には、ジョヴァンニ・グエンチーノの「聖クリソゴノの勝利」という絵が描かれている。
 クリソゴノは恐らく304年に亡くなったであろうと伝えられている。
 

25.jpg11月25日
アレキサンドリアのカタリナおとめ
 
 伝説によるとカタリナは289年エジプトのアレキサンドリアの富裕なローマ人の家庭に生まれた。生まれつき学問が好きで、15歳頃から早くも哲学・文学に優れた才能を示した。ある時、母と共にひとりの隠修士からキリスト教の教えを聞いていっしょに洗礼を受けて熱心な信者となった。18歳になった時、アレキサンドリアを治めていたローマ皇帝マキシミヌスが市民に偶像崇拝を命じ、従わない者は厳罰に処することを公布した。これに対してカタリナは公然と自分の信仰を表わしたので、皇帝は50人の哲学者を呼び集めて、彼女を説得させようとした。しかし、哲学者たちはあべこべにカタリナに感化されて、キリスト教こそ真の宗教であると公言した。これを聞いた皇帝は怒って、彼ら全員を処刑した。いっぼうカタリナの美しさと学識に思いを寄せて、もし彼女がキリスト教の信仰を棄てさえすれば、自分の皇后とすると言った。しかし彼女が断ったので、皇帝は怒って彼女を残酷にむちで打たせ、牢屋に投げこんだ後、旅に出かけた。
 皇帝の不在中に、皇后フオスチナは司令官ポルフイロと共にカタリナを訪ねて慰めているうちに信仰の道に入り、のちに200人の兵士も信者になった。旅から帰った皇帝はこれを聞いて激しく怒り、兵士たちとカタリナを死刑にすることにした。
 カタリナのためには身の毛のよだつような刑罰が考えられた。すなわち、鋭い刃物や太い鉄釘などを取りつけた車輪を作り、これを回転させて彼女の肉をえぐり、骨をけずろうとしたのであった。しかし、処刑人が車を回転し始めた瞬間、車は音をたてて砕け、その破片が飛び散って見物人を傷つけた。皇帝はさらに逆上して、カタリナに斬首の刑を言い渡した。
 

26.jpg11月26日
アレキサンドリアのペトロ殉教者
 
 300年にペトロがアレキサンドリアの司教になった当時は、信者の中には迫害に負けて教えを棄てる人々もいた。彼らが改心して再び教会に戻ってくる時に喜んで迎えるためにペトロが規則を作ったところ、東方教会ではこれを受け入れたが、他の人々は、あまりにも寛大すぎると言って批判した。この批判者たちの数人は偽善者であって、その中のメリチウスはペトロの司教の地位をねたんでいた。ある日、異端者がペトロを殺そうとしたので、ペトロは身を隠した。そのすきに、メリチウスは偽りの司教となった。
 ペトロはメリチウスを破門したが、なお彼といつか和睦したいと思っていた。そして隠れ家で苦しむ信者たちの世話を続けていたが、最後にアレキサンドリアに帰ることができた。しかし、まもなく311年にマキシミアヌス皇帝が迫害を始めて、ペトロを捕えて死刑にした。
 エジプトのコプト教会では彼を「最後の殉教者」と呼んでいる。コンスタンティヌス皇帝がヨーロッパ中に信仰の自由を与える前の、最後の殉教者となったからである。
 

27.jpg11月27日
ヤコボ・インテルチーズス殉教者
 
 「インテルチーズス」とは、「細かく切りきざむこと」で、それは421年、ペルシアのエディゲルド1世王の廷臣ヤコボに実際に起こったことであった。
 エディゲルド王は420年にキリスト信者を迫害し始めた。ヤコボは王の寵愛を失うことを恐れてキリスト教を棄てた。王が亡くなった時、ヤコボの両親は彼に手紙を送って彼の背教を責め、彼とは関係を断つと宣言した。ヤコボは大いに悔やんで宮廷を去り、再び信者となった。それを聞いたエディゲルド王のあと継ぎであるパーラム王は廷臣たちを集めて相談した。彼らは、もしヤコボが再び教えを棄てない場合、彼を家の築からつるして彼の体を細ごまに切りきざむべきだと言った。刑の執行人たちはヤコボの志を変えようと努力したが、彼は「この苦しい死も永遠の生命を得るためなら何でもない」と言ったので、彼らはヤコボの体を少しずつ切り始めた。
 彼の親指が切りとられた時、彼は祈った。「おお、救い主キリスト。この木の枝をお受けください。これは墓の中でくさるでしょう。しかし再び芽を出して栄光を受けさせてください」。
 たくさんの信者、未信者たちが見守る中で、ヤコボは祈り続けて苦痛を耐え忍んだ。彼の四肢は全部切り取られ、最後に首が斬られた。彼の死体は28片に切りきざまれていた。
 

28.jpg11月28日
カタリナ・ラブレ修道女
 
 ふしぎのメダイの聖母がお現われになったカタリナ・ラブレはフランスのブルゴンヌの小村で1806年に生まれた。9歳の時母に死に別れてから、もっぱら家事に専念したが、1830年7月18日愛徳姉妹会に入ってパリの修道院に送られた。
 ある晩カタリナに聖母マリアが現われて、パリの大司教が残酷に殺されるであろうと彼女に告げられた。(この事件は実際1871年に起こった)。
 その後カタリナが見たまぼろしの1つは、聖母が地球の上に立ち、その手から光がさして地球を祝福される姿であった。その御姿のまわりには「原罪なく宿りたまいし聖母マリアよ、おん身により頼みたてまつるわれらのために祈りたまえ」と記してあった。次にその絵の裏があらわれた。そこには十字架を上につけたMの字があり、その下に2つの心臓があって、1つは茨にかこまれ、他の1つは剣に貰かれていた。その時、このようなメダイを作れという声を聞いた。2年後にパリの大司教の許可を得てメダイの製造が始められ、それ以来、聖母マリアの小さいメダイは至る所で恩恵の奇跡を生んだ。
 

29.jpg11月29日
トゥールーズのセルニン殉教者
 
 セルニンはローマで生まれ、245年頃教皇フアピアノによりスペインのパンプロナに福音宣教に派遣されたが、彼はそこからさらに、フランスのアルスに行って、トロフィモ司教の下で宣教した。
 その後彼はトゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人々をキリスト信者にした。しかし、トゥールーズの異教の神殿の祭司たちは彼に反感を持つようになつた。セルニンは異教の神々に対する侮りを示すために神殿の片側に自分の家を作り、他の側に小さな教会を建てた。これによって祭司たちの主な収入の源であった神託を告げることを完全に沈黙させてしまったと言われた。
 祭司たちは神々を怒らせたと思われるセルニンを神殿に引きずりこんで、いけにえにしようとしていた雄牛に彼の足をしばりつけて、神殿の外に出し、丘の下の方へ走らせた。聖人の頭は打ちくだかれ、脳が地上にほとばしり出た。
 今日、トウールーズの聖セルニンの教会はフランスで最も大きいロマネスクの教会で、聖人の遺骨は1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。
 

30.jpg11月30日
アンドレア使徒
 
 漁師であったアンドレアは、初め洗礼者ヨハネの弟子になった。ヨハネが捕えられてからイエズスはガリレアに退いて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
 その後イエズスがヤリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、2人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンドレアが湖で網を打っているのを御覧になった。イエズスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
 ヨハネ福音書はアンドレアが最初にこのメッセージを聞いたように書いている。彼は自分の兄弟シモンに会って「わたしたちはメシアに出会った」と言った。アンドレアは、イエズスによって最初に呼ばれた使徒であった。そして、自分の兄弟をイエズスの所へ連れてきた彼は、またすべてのキリスト教宣教師の中で、最初の宣教師ということができる。
 福音書はアンドレアがペトロやヤコボ、ヨハネのような優れた使徒たちのそばで、師イエズスの足もとに座って質問する姿を示している。イエズスの話を聞こうとして5000人ぐらいの人々が集まった時、誰も食物を持っていなかったので、弟子たちはイエズスがどのようにして彼らに食べ物を与えられるだろうかと案じた。その時アンドレアは、どんなに食物が少なくてもイエズスは皆に与えることがおできになることを信じていた。パン5つと魚2匹を持っていた少年を見つけたのは彼であった。しかし、彼は「こんなに大勢の人ではこれが何になりましょう」とイエズスに尋ねた。イエズスは5000人の人々に食物をわけ与えられ、しかも12のカゴにいっぱいのパンくずが残った。
 イエズスの復活と昇天後、エルサレムの高間で聖霊が弟子たちの上に降られた時、アンドレアが居たことが記されている。彼は長い間宣教した後、ギリシャのパトモスで60年に殉教した。その処刑に使った十字架は×型の十字架であった。