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12月1日
エリジオ司教
エリジオの父はフランスのリモージュの近くに住んでいた金銀細工師であったが、手先の器用な息子の素質を伸ばすためにリモージュ市の造幣局長の徒弟に出し、金銀細工を習わせた。彼は短期間に上達し、芸術家としても有名になり、フランス国王クロタールに認められて、金銀宝石をちりばめた玉座を作った。
その後王はエリジオを自分の会計顧問兼王立造幣局長に任命した。エリジオは自分の収入を貧しい人びとに施し、クロタール王から土地を与えられた時に、修道院を建てて、暇さえあれば自分もこの修道院で祈りと黙想に専念した。
クロタール王が628年に亡くなって、ダゴベルト王が後をついだ時、エリジオは一切の公職から退いて神学の研究を始め、後にノアヨン教区の聖職者および信者の要望で司祭に叙階され、まもなく司教の位にあげられ、広大なノアヨン教区ばかりでなく、フランダースまで福音を宣べた。
彼を忠実に助けた人びとの中には、奴隷であった時にユリジオに買われて解放された男女も含まれていた。エリジオは女子修道院も建て、青少年の教育にも力を厚くして19年間実りある司教の任務をつくした。
659年死が近づいた時、彼は言った。「泣かないでください。かえって喜んでください。私は長い間、解放される時を待っていたのですから」。
彼の遺体はノアヨンのカテドラルに安置されている。
12月2日
ヴィヴィアナおとめ殉教者
363年、ローマの総督アプロニアヌスがふとしたことから自分の片眼を失った時、それをキリスト信者たちのせいにすることに決めた。そのために、前の総督フラビアヌスと妻が捕えられ、フラビアメスは赤くこげた金属で顔を焼かれ、妻は市外に連れて行かれて斬首された。
彼らにはヴィヴィアナとデメトリアという2人の娘がいたが、財産は全部没収されたので、5か月間非常に貧しい生活をしながら、堅く信仰を守っていた。そこヘアプロニアヌス総督が訪ねて来て、2人の様子を見て激しく怒り、すぐに裁判にかけた。法廷でデメトリアが最初に自分の信仰を宣言して、死刑に処せられた。ヴィヴィアナは、1人の異教徒の婦人の家に連れていかれ、キリスト教を捨てるように説得されたが、彼女の信仰はゆるがなかった。ついに総督は死刑の宣告をくだし、ヴィヴィアナは柱にしばりつけられ、鉛のついた鞭で残酷に打たれて殉教した。
12月3日
フランシスコ・ザビェル司祭
フランシスコ・ザビェルは1506年4月7日、スペインのナバラの貴族の家に生まれ、パリでイグナチオ・ロヨラと知り合った。1534年、パリのモンマントルでイエズス会が創立された時、フランシスコ・ザビエルは最初の会員の1人であった。3年後に司祭となり、1541年ロヨラのイグナチオの命令でインドヘ派遣されて宣教活動を始めた。そこでは、気候、言語、習慣などからくる困難を克服しながら7年間布教し、同時にヨーロッパから移住して来たキリスト信者たちの司牧にも力を厚くした。
1540年、ザビェルは日本へ行って宣教することになり、8月15日、鹿児島へ上陸した。やがて受洗者が増加したが、仏僧たちに妨害されたので、鹿児島を去って平戸、博多、山口を通って京都へ向かった。彼の計画は天皇から布教の許可を得て、日本全土にキリスト教を土着させることであった。しかし、当時の国情から、それが全く不可能なことであることを悟り、京都から再び九州に戻って宣教に励み、多数の人々に洗礼を授けた。
1552年ザビエルは中国に行く決心をして日本を離れたが、12月3日、広東港外の上川島で病気になり、帰天した。
彼の遺体はゴアに移され、右腕はローマのイエズス教会に安置されている。
12月4日
バルバラおとめ殉教者
3世紀のマクシミヌス・ダイア皇帝の時代に、シリアのヘリオポリスにディオスコルスという異教徒が住んでいた。
彼は娘のバルバラがキリスト信者と親しくしていることを知り、彼女が信者となることを非常に恐れて、高い塔の中に彼女を閉じこめた。しかし、バルバラは洗礼を受けて信仰を堅く守った。
父は非常に怒って、彼女を役人に訴えたが、役人は彼に向かって自分で娘を殺すように命令したので、バルバラは山の上に連れて行かれ、父の剣でさし殺された。
ところが、ディオスコルスが山から下りる途中、すさまじい音響とともに雷が落ちて、彼は雷に打たれて死んでしまった。
12月5日
サバス修道院長
6世紀ごろ、多くの修道士は完全な隠遁生活をしていた。サバスは、エウティミオという有名な聖人がユリコとエルサレムの間の荒野の洞穴に住んでいることを聞いて、18歳の時彼の所へ行って、弟子たちの仲間に入れてくれるように頼んだ。その時、エウティミオは、彼に向かって30歳になったら来るようにと言って、彼を聖テオクティストの修道院へ送った。
そこで、サバスは修練を積み、30歳になった時、エウティミオに許されて、1週間のうちの5日間は洞穴に住み、週末には修道院へ帰ることになった。しかし、エウティミオは、サバスが祈りだけにふけることを許さず、毎日、小枝でバスケットを10個作るように命じて、毎土曜に50個のバスケットを修道院へ持ち帰らせた。
エウティミオが亡くなった時、サバスは4年間荒野で孤独の生活を送り、その後、隠修士たちが時々いっしょに集まって祈りを献げる修道院を創立したが、まもなくパレスチナ中のすべての隠修士の長上に任命された。エルサレムの総主教が彼を教会の用事のために度々派遣したのは、彼のすぐれた智恵が有名だったからであった。しかし彼は常に荒野へ帰って、修道院を創立したり病院を建てたりした。最も大きいマール・サバ修道院には、今でも正教会の修道土たちが住んでいる。
サバスは532年、94歳で死去した。
12月6日
ニコラオ司教
ニコラオはカトリック信者以外からも親しまれている聖人の1人で、「サンタ・クロース」の名で知られ、特に子供たちの人気を集めているが、また処女、囚人、船員、商人、学生たちの保蕎の聖人としても広く崇敬されている。
こコラオは270年、小アジア(今のトルコ)のバタラの財産家に生まれ、信心深い両親に見守られて知恵にも善徳にもすぐれた者となった。両親の死後、莫大な財産を貧しい人びとに施し、自分は哲学、神学を学んで司祭となり、エーゲ海に面したミーラで布教した。やがてその地の司教が亡くなると彼が後任者に選ばれ、慈愛深い父のように貧しい人びとを助け、彼らを何度も飢饉から救った。その一方、祈りと善い手本で熱心に教区の聖職者や信者を教え導いた。しかし当時は教会の迫害時代で、ディオクレチアヌス皇帝の時代にはミーラの聖堂も破壊され、ニコラオは信徒らとともに投獄されたが、313年コンスタンティヌス大帝の信教自由の勅令が出た時に釈放され、早速教会の復興にとりかかった。
343年ニコラオは73歳で神の許に召されて、その遺体はミーラの聖堂に葬られ、1087年まで巡礼の中心地となった。その後聖人の遺骨はイタリアのバリ市に移され、大聖堂が建てられた。
宗教改革の頃から、プロテスタントの地方ではニコラオの司教服になぞらえた赤服と赤ずきんで長靴ばきの寿宕晶の姿にして、クリスマスの晩に子供にプレゼントをくばる人にした。名前も聖ニコラオをオランダなまりで「サンタ・クロース」と呼んだ。
12月7日
アンプロジオ司教教会博士
アンプロジオは、340年ドイツのトリールに生まれ、父の死亡後、母に連れられローマに行き、法律を学んだ。皇帝は彼をリグリアとエミリア両州の長官に任命して、首都ミラノヘ送った。374年ミラノの司教が亡くなった時、大混乱が起きて市民が分裂した結果、新司教として選ばれるべき人物は強い性格の持ち主で、また慈愛深い人であることが要求された。その時、アンプロジオはまだ信者ではなかったが、民衆によって無理やりに司教に選出された。彼が受洗して司教になったのは374年12月7日であった。
390年、ギリシャのテサロニケの住民が占領国ローマに反抗して、皇帝と皇后の肖像を渦の中に投げこんだので、皇帝は怒りに燃えて、そこの住民7千人をみな殺しにした。これを知ったアンプロジオは皇帝に書を送って痛侮と償いを勧めた。皇帝は謙遜に司教の勧めに従って罪の赦しを得て、人びとから尊敬されるようになった。
アンプロジオは、異教徒の元老院議貞がローマに勝利の女神の新しい像を立てたいと望んだ時、皇帝に頼んで反対させた。また、アリウス派の異端者に教会を1つ与えることも、摂政のユステイナの命令にもかかわらず拒絶して、キリスト教会の立場を明らかにした。
司教になった時からアンプロジオは聖書と教父の著作を深く研究し、自らも多くの名著を残した。自分の財産は全部施して清貧の生活を送り、すべての人に大きな慈愛を示し、信者たちをよく指導したが、聖女モニカもその1人であった。彼女が息子のアウグスチノについて相談した時、「ご安心なさい。あなたの涙ながらの祈りで、その子は決して滅びませんから」と彼女を慰めた。その言葉どおり、アウグスチノはアンプロジオの説教を聞いて回心の一歩をふみ出し、ついに偉大な聖者となった。
このように神のため、隣人のために全力を厚くして働いたアンプロジオは、ついに精根尽きたかのように、397年57歳でこの世を去った。
12月8日
ロマリク修道院長
ロマリクはフランク王国のメロビンガ王朝の貴族であった。時の女王ブルネヒルドの命令によって父が殺された後、ロマリクはフランスの東北部ボージュにあった自分の家を出て数年問さまよったが、再び戻ってクロタール2世王の廷臣になり、かなりの財産と多数の奴隷の持ち主になった。
しかし、ロマリクはまもなくアマートという聖人に出会って深く回心し、イエスのために一生を献げる決心をした。620年に彼は男と女のための修道院をモーゼル川の近くのアベンドムに創立して、アマートが最初の院長となった。この修道院は後にレミールモンの修道院として非常に有名になった。
ロマリクは修道院に入った時、自分の奴隷を全部解放したが、彼らはロマリクを深く愛していたので、多くの者は彼に従って修道生活を始めた。3年後にアマートが死去したので、ロマリクが院長となり、30年間修道院を治めた。
12月9日
ペトロ・フリーエ司祭
1565年、ペトロはフランスのロレーヌで生まれ、1595年イエズス会の大学に入り、20歳の時アウグスチノ会の修道士となり、4年後司祭に叙階された。ボージュの村の主任司祭となって30年間信者を司牧し、質
しい子供たちのために無月謝の学校を建てたが、男の子の学校は失敗した。
女の子の学校は、アリス・ル・クレークという理想的な女性を教師として迎えて開校した。彼女の修道会は聖アウグスチノの戒律を守っており、国の内外に数多くの学校を建てて今日に及んでいる。
12月10日
エウラリアおとめ殉教者
304年に殉教したエウラリアがスペインで最も有名な殉教者の1人になった理由は、いたいけな子供ながら、神に対する信仰を捨てるよりは死を選ぶ方が真のキリスト信者であることを知っていたからである。
エウラリアはダシアヌスという裁判官に会って、彼が信者たちに信仰を捨てるようにとおどかしたり、賄賂を取っていることを責めるつもりであった。彼女は12歳であったが、裁判官が何をしようと恐れなかった。
死刑執行人たちが来て、金属のフックでエウラリアの若い体を引きさき始めた。次に、たいまつに火をつけて彼女を焼こうとしたが、髪の毛に火が移ったため、彼女は焼死せずに、煙にまかれて窒息死したのであった。
12月11日
柱のダニエル修道者
「柱の聖人」として最も有名なシメオンが柱の上に座っていた時、ダニエルという若い修道者が院長とともに訪ねて来た。シメオンは、ダニエルに柱の上まで登って来ることを許して、祝福を与えた。
ダニエルは42歳まで修道院にいたが、シメオンの印象を決して忘れなかった。院長が亡くなった時、彼は後継者になるように頼まれたが拒絶して、コンスタンティノープルの近くの古い神殿に1人で住むことにきめた。
459年にシメオンが帰天したので、ダニエルは今こそ彼の模範にならう時がきたと思い、それから33年間、柱の上に住んだ。叙階式の時も彼は降りることを拒絶したので、司式のコンスタンティノープルの総大
司教は、柱の下で最初の部分の祈りを訴えてから、柱の上に登ってダニエルに祝福を与えた。
数えきれないほどの人びとがダニエルの知恵に信頼して、その教えを聞くために集まって来たが、その中には2人の皇帝もいた。彼がただ1度柱から降りて来たことがあったが、それはそのうちの1人の皇帝を諌めるためであった。
493年、彼は80歳で亡くなった。彼の遺書には愛徳の重要さが強調されていた。
12月12日
シャンタルのフランシスカ修道女
フランシスカは1572年、フランスのディジョン市の貴族の家に生まれ、1592年熱心なカトリック信者シャンタル男爵と結婚して6人の子供の母となり、幸福な家庭を営んでいた。しかし29歳の時、最愛の夫に先
立たれ、その後はもっぱら祈りと遺児の教育と慈善とに献身した。彼女がフランシスコ・サレジオに出会ったのは1604年で、その時から霊的指導を願い出て、自分はカルメル会に入りたいと打ちあけた。
フランシスコは、かねてから若い女性や未亡人が容易に入会できるような、戒律の厳しくない修道会を創立したいと望んでいたので、彼女に勧めて、3人の友達とともに修道生活を始めさせ、聖母訪問修女会を創立することになった。
総長としての彼女は、サレジオのフランシスコが目ざした信心生活の理想のように、神秘的観想生活と慈善的活動生活とを一致させて会員を導き、生前75の支部修道院を設立した。その間に息子と娘を次々に失い、またサレジオに先立たれて精神的な打撃を受けるとともに、事業の反対者にも苦しめられた。しかし、それらの試練に打ちかって神に仕え、1641年、天に召された。
12月13日
ルチアおとめ殉教者
ルチアはキリストに身を献げて独身で暮らしたいと望んでいたが、彼女の異教徒の求婚者はルチアをうらんで、彼女をシチリアのシラクサの知事にキリスト信者として訴えた。
当時はディオクレチアヌス皇帝の激しい迫害時代であった。
裁判官はルチアを売春宿にとじこめるように命じたが、彼女はおとめの名誉を守ったので、今度は火で焼き殺そうとした。しかし、火も煙も彼女には何の危害も加えなかった。最後に、ルチアは剣でのどを貫かれて殉教した。
伝説によると、彼女は自分を醜くしたいと望んで自分の眼をつぶしたが、それは奇跡的に元通りになった。眼の病気を治す奇跡でルチアが有名になったのはこの理由からである。
12月14日
十字架のヨハネ司祭教会博士
十字架のヨハネは、アビラのテレジアと力を合わせてカルメル会の改革に尽くしたが、反対派に捕えられ、1577年と1578年、裁判の後トレドの獄舎に入れられた。
彼の書いた「カルメル山の登撃」と「霊魂の暗夜」は、その時の体験をもとにして書かれたものである。「人間は、イエズスの十字架の苦しみを自ら経験することによって、神との栄光ある一致に達することができる。暗黒に身をおいて初めて、そこにさしこむ細い一条の光線の輝きが分かる。すべてを失って、はじめて神の声を直接に聞くことができる。なすことのできるのは、熱烈な祈りだけである」と「霊魂の暗夜」の中でヨハネは書いている。
ヨハネが獄舎から脱出した後、改革は順調に進展して、1581年には、教皇グレゴリオ13世の勅書を得て、男子洗足カルメル会として独立した管区をもつことを許されたが、1588年、完全に独立して総長を持つことを許された。
12月15日
マリア・ディ・ローザ修道女
マリア・ディ・ローザは自分の故郷北イタリアのプレシアで、17歳の時から貧しい人びとのために奉仕し始め、わずか42歳で亡くなった時には、弱い体を全く使い果たしていた。
貧しい人、因っている人びとのためにすることは、みなイユズス自身のためにすることであるという主の言葉を文字どおりに取りたいと熱望して、プレシアの工場でしいたげられながら働く工員たち、特に女工たちを助けた。また毎日病院を訪ねて、耳や口の不自由な人びとの世話を手がけた。
27歳の時に1849年、愛徳の侍女会を創立して、組織的に慈善事業をすることになった。1849年のオーストリアとの戦争の時、そして1852年のコレラ蔓延の時には、特にこの会は大きな貢献をしたのであった。
12月16日
アデライデ未亡人
10世紀のはじめに、フランスのブルゴーニュの王女であったアデライデは、一生涯種々の苦しみを忍んだが、常に神に対する深い信頼と人に対する慈愛を保ちつづけた。最初に結婚した夫は苺殺され、その上毒殺者の息子と結婚を強いられて、それを拒絶した時、彼女は城の中に閉じこめられた。
しかし、後にドイツのオットー大帝が彼女を解放して自分の王妃とした。大帝の死後、長子が後をついでオットー2世となったが、その妻がアデライデを追放した。しばらくして王はアデライデに詫びて再び連れ戻したが、彼の死後、彼女は再び追い出され、年とってから帰ることを許された。
999年12月16日、彼女は自分が創立したアルサスの修道院で神の許に召された。
12月17日
ベガ修道女
ニベルのゲルトルードとベガは、2人ともフランク国王の宰相ピピンの娘であった。ゲルトルードは修道女になったが、ベガはメッツの聖アルヌルフの息子と結婚して、ヘリスタルのピピンという子をもうけた。彼はカロリンガとして知られるフランス王朝の創始者となった。
692年にベガの夫は狩猟中に殺された。その後、彼女はローマに巡礼に行き、帰国後、ミューズ川のそばのアンデンヌにローマの有名な7つの教会を摸して7つの教会を建てた。同時に1つの女子修道院を同じ場所に建て、自分の妹の修道院から修道女たちを呼んで住まわせ、ベガ白身もそこで693年に亡くなった。
12月18日
ワインバルド修道院長
8世紀のイギリスで重要な地主であったサクソンのリチャードは、ウイリバルドとワインバルドという2人の息子を連れてローマヘ巡礼に行った。
ウイリバルドはローマから聖地に行き、歴史上イギリス人として最初に聖地を訪ねた人となった。しかし、ワインバルドは兄のような体力がなく、ローマヘ着く頃は病気になったので、ローマに7年間、学生として留まった。やがて彼は修道土となってイギリスヘ帰ったが、友人を連れて再びローマに帰った時、739年にボニファチオに出会った。
ボニファチオの最大の関心はドイツに福音をもたらすことであった。彼はワインバルドがまだ病気ではあったが、彼に勧めていっしょにドイツヘ宣教に出かけた。
彼はチューリンゲンに到着後、司祭となり、7つの教会を司牧した。人びとの妨害にも負けずにパパリアまで行って働いたが、修道生活への召命を深く感じ、アイヒシュタットにいる兄のウイリバルド司教と協力して、男性と女性のための修道院を創立した。彼らはその頃まだイギリスにいた妹ワルブルガを呼んで修道院の院長にした。
ワインバルドは最後の3年間を非常な苦痛を忍びながら病床で過ごし、他の修道士たちといっしょに聖堂で祈りをすることもできなかったが、病気を忍耐強くたえしのんで、716年12月に死去した。
12月19日
ウルバノ15世教皇
1362年に教皇となったウイリアム・ド・グリモールは、フランスのグリサで生まれ、モンペリエ、トウールーズ、アヴィニョン、パリの大学で勉強して非常に優れた学者となった。その後ベネディクト会に入り、1352年にオーセルのサン・ジェルマンの修道院長となり、9年後にマルセイユの聖ヴィクトル修道院の院長に任命された。彼が教皇特使としてナポリに出向いた時、イノセント6世教皇が亡くなって、その後縦者とし
て自分が選挙されたということを知った。そこで彼はすぐにアヴィニョンへ帰って教皇の位につき、ウルバノ5世と名乗った。
アヴィニヨンは過去50年間、教皇庁の所在地であったが、1366年にウルバノ5世はローマに帰ることに決定して、フランス王や枢機卿などの反対も顧みずにアヴィニョンを去ってローマへ帰還した。しかし、内外の事情に防げられて、教皇は1370年に再びアヴィニョンに帰らねばならなくなった。そして4か月後に帰天した。
12月20日
シロスのドミニコ
11世紀の初め頃ドミニコはスペインのナバラの農夫の家に生まれ、その時代の最も有名な修道者の1人となった。彼は希望がかなってサン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入り、その学徳をみとめらて修道院長となった。
その頃ナバラのガルシア3世王が、修道院が所有しているある土地は王家のものだと主張しはじめた。しかし、ドミニコは非常に強く修道院の権利を防禦したために、彼と2人の修道土は追放されて、カステイールのフェルディナンド1世王の許に身を寄せた。
この王はブルゴス教区内のシロスのサン・セバスチャン修道院にドミニコと2人の仲間を招き、ドミニコに院長になるように頼んだ。その修道院は長い間に霊的に活気を失っていた上に、経済的にも全く衰えた状態であったが、ドミニコにより徐々に改善されていった。
少年時代には羊桐いであったドミニコは、教会の典礼や、詩編、聖書、祈清書などの美しい写本を愛していたので、シロスに写本室を設けた。そこからスペインでは初めての最もうるわしいキリスト教の書籍が作り出されたのである。
サン・セバスチャンのこわれかけた建物は修復され、全修道院が広くされた。というのは、ドミニコの信心と名声に多数の者が惹きよせられて修道土が増加したからであった。裕福な男や女たちは修道院に寄付をするようになった。そして1073年に聖ドミニコが亡くなった時には、サン・セバスチャン修道院はスペインにおける最も大きな修道院の1つになっていた。
12月21日
ペトロ・カニジオ司祭教会博士
11世紀のカトリック教会内の混乱はプロテスタントの宗教改革を勃興させたが、その混乱の中にも、学者および神学者として抜きん出た1人の司祭が、反対派からさえもその深い学徳に対して尊敬を払われた。この司祭はペトロ・カニジオで、1521年にオランダで生まれ、法律家になろうとしてケルンの大学に入ったが、神学の研究に心を奪われ、司祭となって一生涯神に奉仕する決心をした。3年後に、ペトロ・フアーベルに感化され、マインツでの最初のドイツ人志願者として、1543年イエスズ会に入会した。
司祭に叙階された翌年にはトリエント公会議に出席し、神学顧問としての職責を果たした。1549年終生誓願を立ててからドイツの使徒となろうという召命を満身に感じ、帰独後はオーストリア、ボヘミア、ポーラ
ンドをも駆け巡って、当時伝染病のように蔓延していたルーテルの異説をくいとめ、カトリック生活を再興しようと、日夜、説教に講演に粉骨砕身した。
著書も多数あったが、中でも特筆すべきは、初めて信者のためにカトリック要理を編集したことだった。それは211の問答から成り立ち、1555年に出版された。
彼は1597年70歳で帰天した。
12月22日
ディセンベルクのユッタ修道女
11世紀の終わり頃、ディセンベルクのユッタは、スパンハイム侯メギナルドの妹としてドイツで生まれた。彼女は神に一生涯身を献げた信者の女性たちを集めて小さな修道院を作り、その院長となって22年過ご
した。その間にドイツにおける最も偉大な神秘家のビンゲンのヒルデガルドの世話をして、ラテン語や聖書の読み方などを教えた。
1136年にユツタが亡くなった時、ヒルデガルドが代わりに院長となった。彼女はユッタについて次のように書き残している。「ユッタは、神の恵みで満ちあふれているたくさんの支流を持った川のような人でした。喜ばしい死によって解放される最後の日までユッタは苦行を続け、絶えまなく神に祈っていました」。
彼女の死後たくさんの人びとが遺徳をしたって、墓に詣でた。
12月23日
カンティのヨハネ司祭
ヨハネは1390年6月23日、ポーランドのクラクウ付近のカンティに生まれ、1413年にクラクウ大学に入学した。卒業後、同大学で聖書の講議を担当したが、彼の成功をねたむ人びとがいて、彼をオルクス村の主任司祭に追いやってしまった。そこで8年間働いてから再びタラクウ大学に呼び戻されたが、その時、教会の信者たちは涙を流して別れを惜しんだ。
大学では哲学と神学の有名な教授となり、彼の死後、高い学位を取りたいと望んだ学生たちは、ヨハネの残した古いガウンを看て成功を祈ったと伝えられている。
ヨハネは高度の学問的知識のほかに、信心探さ、清貧の精神、質しい人に対する愛と償いの精神によって多くの人びとに大きな影響を及ぼした。ローマへ4度歩いて巡礼し、1度はエルザレムヘ巡礼した。
カンティのヨハネは1473年、降誕祭の前夜に77歳で帰天した。教皇クレメンス13世の時に列聖され、ポーランドの守護者と仰がれている。
12月24日
シャーベル・マクルーフ司祭
1898年の降誕祭の前夜に亡くなったレバノンの修道土シヤーベル・マクルーフは、23年間、隠修士として非常にきびしい生活をした人であった。彼は4つの小さな部屋と小聖堂のある家に住んで、肉食は全然とらず、果物も食べなかった。必要な時以外は仲間の修道土と全く話さなかった。ぶどう酒はミサの時に1滴欧むだけであった。
寝台の代わりに枯草をいっぱいつめたふとんを用い、その上に山羊の皮をかけて寝た。枕には木片を使った。そして彼の1人の仲間を長上として、彼に従った。
このように19世紀において、シャーベル・マクルーフは、他の修道士とともに、初代教会の荒野の師父たちの厳しい生活を再び生きることを試みたのだった。
彼は、聖ヨハネ・クリゾストモの友人の聖マロの名前をとったマロン教会というキリスト教徒のグループに属していた。このグループの信者たちの大部分はレバノンに住んでいるが、12世紀から西方教会と一致して、価値あるキリスト教会の伝統、すなわち、自己節制の規律を西方教会の中にもたらしたのである。このような忘れられ勝ちな伝統を最も明らかに教示したのが、このシャーベル・マクルーフであった。
23年間の聖なる克己生活の後、主のもとに召された。
12月25日
アナスタジア殉教者
アナスタジアは3世紀中頃、プレテクスタトスというローマ貴族の家に生まれた。クリソゴノからキリスト教の教理を学んで信者となったが、プブリウスという異教徒と結婚した。ディオクレチアヌス皇帝が迫害を始めた時、アナスタジアは捕えられた信者たちを牢獄に訪ねて慰め、カづけた。この愛のわざは夫の死後もアタイレアで続けられた。
しかし、彼女が信者だということがわかって、シルミウムのイリリクム(現在のユーゴスラビアのミトロウィツ)の法廷に呼び出され、棄教するように迫られた。しかし断固として拒絶したので、彼女は瀦死の宣告を受けて、数人の異教徒の罪人とともに古い舟に乗せられ、水中に捨てられた。
しかし、以前に獄中でアナスタジアに現われたことのある聖女テオドタが再び現われて、舟を安全に導いて上陸させたので、異教徒の罪人たちは大喜びでキリスト教信者になった。
303年、アナスタジアはテラチナの近くにあるパルマリア島に送られて、柱にしばりつけられ、火あぶりにされて殉教の栄冠を得た。
12月26日
ステフアノ殉教者
キリスト教会最初の殉教者となったステフアノはギリシャ語を話すユダヤ人で、当時のやもめたちの日常の必要品の世話もする7人の中の1人として選ばれた。やもめたちは毎日受けるべき物を分配されないで障っていたのだった。彼は使徒行録が記すように「信仰と聖霊に満ちた人」で、すばらしい不思議なわざを民衆の中で行なっていたので、以前の仲間たちは彼を殺そうと思って、ステフアノは神殿を破壊しようとしていると訴えた。
ステフアノが自分を弁護するために最高法院に呼び出された時、彼は、過去においていかに人びとが神から遣わされた人びとに反抗したかを示そうと試みて、次のように言った。「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が1人でもいたでしょうか。彼らは正しい方が来られることを預言した人びとを殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです」。
ステフアノは、人びとが常に聖霊に逆らっていると言った。彼らはこれを聞いて激しく怒り、ステフアノに向かって歯ぎしりした。彼が聖霊に満たされて天を見つめ、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った時、彼らはなお怒ってステフアノを市外に引きずり出して石殺しにした。その時、石を投げている人びとの衣服を預かった人がタルソから釆たサウロ、後の聖パウロであった。
ステフアノは石を投げつけられていた時に祈った。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。
信仰深い人びとがステフアノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。およそ4世紀後の415年に、ステフアノの墓が再び発見されたと伝えられている。
12月27日
ヨハネ使徒福音記者
第4福音書と黙示録の著者、使徒ヨハネは、自分について次のように述べている。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエズスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉ヒイユズスの証しのゆえにパトモスと呼ばれる島にいた」。
ヨハネはイエズスの最も親しい弟子の1人として、変容の時にはペトロとヤコボとともにイエズスの栄光を見ることができ、後には、ゲッセマネにおけるイエズスの苦しみに立ち会った。聖霊降臨後は、エルサレム教会の指導者としてペトロとともに活躍し、パウロが殉教した後、エフェソの司教として、小アジア教会の牧者となった。ヨハネがパトモス島へ流されたのは、ドミチアメス皇帝の迫害が始まった時で、この島でヨハネは迫害のために苦しんでいる小アジアの信者たちを慰め、勇気づけるためにかの有名な黙示録を書いた。ヨハネは100年頃、95歳でエフェソで永眠した。
12月28日
幼な子殉教者
主イエズスがお生まれになった時、東国の博士3人がエルサレムに来て、「お生まれになったユダヤの王様はどこにおいでになりますか」と尋ねた。時のユダヤの王へロデは、これを聞いて大いに驚き、早速、調べたところ、キリストはユダヤのベトレヘムに生まれるという預言があることがわかった。ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、自分も拝みに行くから幼児の居所を教えるように頼んだ。
しかし、実はこの巧妙な言葉の裏には、自分の王位を奪われることの恐れと、イエズス殺害のもくろみがあったのである。
博士たちは夢の中で、イエズスのことをへロデに知らせるなという告げを受けたので、エルサレムヘ帰らず、他の道を通って自分の国へ帰った。その夜、天使はヨセフの夢にも現われて、すぐに幼児とその母を連れてエジプトに逃れるように告げた。それで、ヨセフはすぐにイユズスとその母を連れてエジプトヘ向かった。
一方、へロデは待ちぼうけを食わされて大いに怒り、兵をベトレヘム近辺に送って、2歳以下の男の子を全部殺させた。
殺された子供の数はたびたび誇張されているようであるが、恐らく 24人ぐらいであったろうと思われる。しかし、へロデの残酷な行為は歴史に深く刻まれている。
12月29日
カンタベリーのトマス・ベケット司教殉教者
1170年12月29一日、4人の騎士がトマス・ベケット大司教を殺そうと、カンタベリー大聖堂に押し入った。大司教を殺せば、ヘンリー2世王に気に入られると思ったのである。トマスは剣で襲われた時、カンタベリーの殉教者たちの名を呼び、冷静に祈った、「主よ、あなたの御手に私の魂を委ねます。イエズスのみ名のため、教会を守るため、私は喜んで生命を献げます」。
当時のイギリスでは封建制度が確立され、その権力が拡大されるにしたがって、教会は、機会あるごとに、教会の諸権利や財産を奪おうとする国王と争うようになった。1154年、ヘンリー2世が国王となり、1162
年トマス・ベケットがカンタベリーの大司教となってから、教会と俗権との争いは極点に達し、国王は無法な要求を大司教に出し続けた。
しかし、トマスが拒み続けたので、王は「ああ、誰かあの不愉快なじゃま者を消してくれないか」と叫んだ。
ヘンリー2世は彼を暗殺することによって勝利を得たと思ったが、実は逆で、国民のすべてが殉教したトマスを敬慕したのだった。
彼は1173年に列聖された。
12月30日
アニシアおとめ殉教者
テサロニケで4世紀の初めに生まれたアニシアは、両親の残した財産を質しい人びとのために使いながら、祈りの生活をしていた。
ある日、信者たちの集まりに出かける途中1人の軍人が話しかけてきた。彼はアニシアが信者だということを見抜いて、彼女を強引に異教の神殿へ連れて行き、供え物をさせようとした。しかしアニシアは堅く拒絶した。軍人はアニシアがかぶっていたヴェールをはぎとろうとしたが、彼女はそれも拒んだ。彼は非常に怒り、剣を抜いてアニシアをその場で殺してしまった。
12月31日
シルヴェストロ1世教皇
4世紀に、ローマのコンスタンティヌス大帝がマクセンティウスと戦っていた時、空に光り輝く十字架が現われ、その上に「この印によって勝利を得るであろう」と記されてあるのを見た。それで、十字架を描いた軍旗を作って、それを振りかざしながら戦ったところ大勝利を得た。それは312年10月のことであった。大帝はその時、キリスト教こそ真の宗教と悟って、迫害を中止し、キリスト教を国教とした。
当時の教皇はメルキアデスであったが、その後を継いだのは、迫害のあいだ教会のために大いに.早くしたシルヴェストロであった。伝説によると、コンスタティヌス皇帝はハンセン病を患っていたが、シルヴェスト
ロから洗礼を受けて全治したので、感謝のしるしにシチリア、サルデーニヤ、コルシカ島などを教皇に寄進した。
シルヴェストロは教皇に即位後まもなく、フランスのアルルで宗教会議を開き、ドナトゥスの異説を信じる人びとを破門し、325年には小アジアのニケアに公会議を召集して、アリウス派の異端をしりぞけた。その頃、彼は老年のため旅行が不可能であったので、代わりに2人の代表者を送った。
シルヴェストロはローマにりっぱな教会を建てたが、その中にはラテラノ大聖堂、聖ペトロ大聖堂、聖ラウレンチオ教会などがあった。
彼の使った古い司教座の椅子と司教冠は今でもサン・マルティノ・アイ・モンティの教会に保存されている。この教会は、迫害中に礼拝の場所として使われた家の上に建てられたものである。
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