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1月1日
コンコルディオ
コンコルディオは砂漠の中で祈りと黙想の生活をしていたが、紀元187年頃、マルクス・アウレリウス皇帝がキリスト教徒を迫害した時に捕われて、スボレトで裁判にかけられた。ウンブリアの総督トルカトスはコンコルディオに、もし信仰を棄てて、ジュピターの像を礼拝すれば釈放すると言ったが、彼は拒絶した。そこでトルカトスは兵士に命じ、コンコルディオをこん棒で打たせた。
トルカトスが彼の名前を尋ねた時、彼は「私は前にも言ったようにキリスト信者で、イエズス・キリストに忠誠を誓う者です」と答えた。総督が彼を拷問台に横たえて苦しめた時、彼はイエズスを賛美する歌を歌ったので、総督は怒って彼を再び牢獄に投げ入れ、2日後に兵士たちが彼の首を切りに来た。最後の試みとして、偶像に供え物をささげるように命じると、コンコルディオはつばを吐きかけた。あまりのことに兵士はその場で彼を殺した。
1月2日
バジリオとナジアンズのグレゴリオ
バジリオとグレゴリオは2人とも、カイザリア市で生まれたが、彼らが出会って親しい友となったのは、アテネの大学の学生時代であった。バジリオは頭がよく、大学教授になったが、まもなく倦きて修道士になり、ボントスのイリス河の岸で、ひとりで隠修士の生活を5年間試みた。しかし多くの人々が教えを求めて来たので、彼らのために修道院を創立した。修道士として共同生活を望んだ人々のために彼が書いた規則は、今でも東方教会の修道生活の基本となっている。
バジリオのすばらしい説教は、多くの未信者を改宗させることができるだろうと、グレゴリオは考えて、バジリオに勧めて修道院を去らせた。370年、バジリオはカイザリアの大司教に選ばれた。彼は自分の財産を投げ出して貧しい人々のために病院を建てたが、多くの異教徒たちは彼を嫌った。ローマ皇帝は総督を送って、バジリオをアリウス派の異端に引き入れようと説得させたが、彼はそれを断った。総督は財産の没収か流罪か死刑かに処すると言って脅迫したが、バジリオは平然として自分の持ち物は2、3枚の古着と数冊の書籍にすぎないので、没収は何でもないし、この地上では天国へ行く途中の旅人だから流罪でもかまわない、死刑になっても、それは自分が全生涯をささげた神に近づくことだから嬉しいことだと答えた。そこで総督は彼を放っておくことにした。
バジリオは、グレゴリオが司教になるようにとりはからったが、グレゴリオはそれに値しないと言って任命を嫌い、立派な儀式を拒絶した。多くの人々がグレゴリオの説教を聞きに集まった。彼はバジリオをほめ続けた。379年にバジリオは49歳で死去した。グレゴリオは11年後に亡くなり、2人とも教会博士として今日でも尊ばれている。
1月3日
ジェネヴィェーヴ
ジェネヴィェーヴは15歳の時パリの司教からヴェールを与えられた。彼女は夜になると教会で祈るのが好きであったが、ある夜、強い風が吹きこんでろうそくを消し、まっ暗にした。彼女は悪魔がおどかそうとしていると思った。この理由で彼女は、ろうそくを持った姿で、また、怒った悪魔がそばに立って描かれていることが多い。
後になって聖女の勇気はパリの市民にとって非常に貴重なものとなった。フランクのチルデリッタ王がパリを包囲した時、市民は餓死寸前の状態になったが、ジェネヴイエーヴの指図で勇気のある人々の一団が船で脱出して麦をたくさん持ち帰って来た。また、フン族のアッチラの軍隊がパリを攻めた時、市民は恐れおののいて逃げ出そうとしたが、ジェネヴィェーヴは彼らに勧めて居残らせた。彼女の勇気は神に対する完全な信頼から出ていて、アッチラとその軍隊が近づいた時、神が災害から救ってくださるように市民に熱心に祈らせたため、アツテラの軍勢は引き返してしまった。
彼女が亡くなる前に、フランク王クロヴイスは受洗して彼女を聖女として敬うようになり、パリの中央に建てた大聖堂にジェヴィエーヴの遺体をおさめた。
1月4日
エリザベス・シートン
アメリカ人として最初に列聖されたエリザベス・アン・シートンは、1774年8月28日に生まれた。義兄はバルティモアの大司教になったが、彼女の家族はほとんどプロテスタントであった。エリザベスは20歳で結婚し、活動的な慈善家となり、1797年には幼児を抱えた貧しい未亡人たちを助ける会の創立者の一人となった。1803年に彼女の夫は5人の子供を残して亡くなった。2年後、エリザベスがカトリックになった時、バルティモアの聖マリア神学院の院長が、学校を始めるように依頼した。これがアメリカにおける小教区学校のカトリック組織の始まりとなった。
1809年にエリザベスは聖ヨセフ会という新しい修道会を創立するために4人の友人を集めた。その後メリーランド州エミツバーグの近くに貧しい子供たちのための学校を開いた。
1812年までに小さな共同体のメンバーは19人となって正式な修道会として承認され、エリザベス・シートンが最初の長上となった。彼女が修道女として誓願を立てたのは1813年であった。彼女の理想は各地方に広まり、彼女が亡くなった時には24の修道院が設立されていた。
1月5日
柱の行者シメオン
シメオンは少年の頃羊綱いをしていたが、ある日福音書の山上の説教を読んで、イエズスが「苦しみが大きな幸福をもたらす」と言われたことについて、いろいろと思いめぐらした。そのあげく、このみことばを心にとめてある修道院に行き、もっとも低い者として受け入れてくれるように願った。そこに2年間住んで皆に愛されたが、彼はもっと厳しい生活を望んで規則の厳しい修道院へ移り、四句節中は何も食べないことを決心した。この計画を打ちあけられた1人の司祭が心配して、シメオンが餓死しないように監視した。
その後シメオンは、アンチオキアの近くのテレアニセ山頂で、屋根のない小屋に住むことにした。しかし彼の名は有名になり、多くの男女が集まって来て、じゃまをしたので、彼は柱を作って彼らから逃れることにした。柱の高さは絢3メートルで、頂上の広さは2メートル四方も無かった。そこに4年間住んだが、それでも群衆が来たので、柱の高さを6メートルにし、次に12メートル、最後に20メートルにした。彼は37年間そこに住んで、その間1日に2度ずつ説教した。
1月6日
バルタザール、カスパル、メルキオール
イエズスがベトレヘムで生まれた時、東方から賢人が来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか一私たちは東方でそのかたの星を見たので拝みに来たのです」と言った。当時の支配者であったヘロデ王は不安になり、イエズスを見つけて、その居場所を自分に報告するように賢人たちに命じた。賢人たちが星に従って行くとベトレヘムに着いて、幼児の母マリアとその夫ヨセフと、馬ぶねに横たわる幼児イエズスを発見した。彼らはイエズスの前にひざまずいて黄金、乳香、投薬の3つの贈り物をささげた。その後で、「へロデには何も言うな」という夢を見たので、賢人たちはイエズスの居場所をへロデに告げずに自分たちの国へ帰った。
福音書のどこにも、賢人の数は3人だったとは書いていない。しかしキリスト信者たちは贈り物の数から察して3人だったと推論した。旧約聖書の詩編には、「タルシシと島々の王たちは贈り物をささげるであろう。アラビアとサバの王たちは贈り物をもたらすであろう」と書いてある。キリスト信者たちは、この預言と賢人たちを結びつけて、3人の王が居たに違いないと結論したのである。
この3人はイユズスを拝んだ最初の異邦人であった。キリスト教初期のころには、3人の王はキリスト教美術の題材によく使われ、2世紀の初めにカタコンプの壁に描かれた。3世紀になり、この3人にバルタザール、カスバル、メルキオールという名がつけられて、それぞれ若者、中年、老人として描かれた。後に、画家たちは、もしこの王たちが東方から来たならば、少なくとも1人は黒人にちがいないと言った。まもなく信者たちは3つの贈り物の重要な意義を考え始めた。黄金はすべての国の王であるイエズスを象徴し、乳香は3賢人およびすべての異邦人のイユズスに対する崇敬を表わした。しかし投薬は死者の体に塗るものであったので、この贈り物はイエズスの十字架上の死、すなわち私たちの救いを暗示するものであった。
1月7日
ライムンド
ライムンドは、1175年スペインのカタロニア州ベニヤホルで生まれた。幼時から秀才で、バルセロナで勉強を始め、イタリアのポローニヤ大学に留学して、民法と教会法を学んだ。卒業後、その大学教授となったが、47歳の時ドミニコ会に入会した。彼は修練長に頼んで、最も厳しい苦行をする許可を得て忠実に修道生活を送った。
修練期を終えたライムンドは、会憲に従って祈りの生活を送ると共に、説教と宣教の使徒的活動を精力的に行なって、特に異教徒の改宗には非常な努力をした。
その頃スペインはイスラム教徒のムーア人に包囲されていたので、その異端が広まらないように、ライムンドは努力し続けた。もしキリスト教徒の生活が模範的であれば、どんな異教徒でも改宗させることができるというのが彼の持論であった。
1230年、教皇グレゴリオ9世は、彼をローマに招いて教皇付司祭に任命し、諸問題についての相談相手とした。なお彼が教会法の権威であったので、教会法令の体系的な集大成を編纂させたが、それは教会法の最初の完全な定本としてその業績は高く評価された。
その翌年、ライムンドはタラゴナの大司教に叙階された。しかし極度の気遣いと過労から病気になったので、辞任して故郷のバルセロナに帰った。修道院で、また一般の修道土として祈りと黙想の生活に入ると健康はまもなく回復し、2年後にはドミニコ会の3代目の総長に選ばれた。65歳で退任するまでにドミニコ会の会書を作り上げ、それは他の修道会が会寮を作る時、いつも模範とされた。
ライムンドは1275年に100歳で帰天した。列聖されたのは1601年であった。
1月8日
ノリクムのセヴユリノ
セヴェリノはローマ市民であったが全財産を捨ててエジプトの砂漠へ行き、独居生活を始めた。しかし末信者の改宗のために働きたいという望みを抑えることができず、エジプトを出てオーストリアの宣教師となったが、仕事は容易でなく、多数の人々が彼の説教を無視した。しかし彼は失望せずにダニュープ川の岸に修道院を建てて、異教国のキリスト教的オアシスと呼んだ。
やがて貧しい男や女が助けを求めて来るようになり、彼は全力を厚くして彼らを救い、善行をするように勧めた。ある時いなごの災害で、その土地が飢餓におそわれそうになったが、彼の祈りで追いはらわれたという奇跡もあった。
徐々に多数のオーストリア人がキリスト信者になったが、セヴユリノは孤独の生活を愛して長時間を祈りで過ごした。彼を訪問した者は、彼が天井の低い部屋に住んで、立ち上がることも困難な状態にあることに驚いた。彼は日没まで何も食べず、冬でさえも靴をはかなかった。自分の親友の失明を治そうと試み、不可能に終ったので悲しんだが、神に信頼して祈り続けた。彼が肋膜炎で死にかけていた時、周囲にいた人々は、彼が詩編の言葉の「生命あるすべてのものは神を賛美せよ」を唱えながら安らかに帰天するのを見守った。
1月9日
カンタベリーのアドリアノ
カンタベリーの大司教デウスデディトが664年に死去した時、教皇はイタリアのナポリ市の近くの修道院長をしていたアドリアノというアフリカ人を最適任者として後を継がせることに決定した。イギリスの有名な歴史家で修道者であった福音ベーダによると、アドリアノは非常にすぐれた聖書学者であると同時に、教会や修道院の管理にも経験があり、ギリシャ語とラテン語の深い知識もあった。
しかし、アドリアノはこの高い地位を望まず、自分は不適者だから代わりによい人物を探すと言った。最初に彼が推薦した人が病気になった時、教皇は再度アドリアノに大司教になるように頼んだが、彼は辞退した。そして当時タルソからローマに来ていたテオドロという修道士を推薦した。テオドロは、もしアドリアノがそばに居て助けてくれるならば大司教になってもよいと言ったので、668年3月、彼は叙階され、2か月後にアドリアノと共にイギリスヘ向かった。
彼らは完全なチームとなった。テオドロはアドリアノをカンタベリーの聖ペトロ・聖パウロ修道院長に任命した。アドリアノの聖徳と深い学問は、多くの人々を引きつけ、遠方から来た学者もいた。アドリアノは39年間、大きな感化を学生たちに及ぼしながら教え、彼らはラテン語とギリシャ語を自分たちの国の言葉と同じように流暢に話すことができるようになった。語学の他に、聖書学や天文学、数学も彼らに教えた。
ベーダは、次のように言った。「アドリアノは学生たちの頭の中に健全な知識を毎日注ぎこんだ。聖人は皆を幸福にした。イギリス人がブリテンに定住してからこんなに幸福な時はなかった」。
彼は710年に死去した。
1月10日
マルシアノ
マルシアノはコンスタンティノープルの人で、洗者聖ヨハネに倣って、常に祈りと断食をして神に仕えていた。しかしヨハネと違って彼は富裕な家庭に生まれ、仲間の人々に知られないように貧しい人々に多くの金銘を施した。
時々迫害された。ある日1人の迫害者が「お前は死にたいと望んでいるのに、なぜ生命について話すのか」と尋ねると、彼は「私は永遠の生命を望んでいるのだ。この世の生命ではない」と堂々と答えた。
人々は彼の善徳を尊敬するようになった。
その頃コンスタンティノープルには、多くのこわれかけた教会があったので、マルシアノはそれを元通りの美しい建物にするとともに、新しい教会も建てた。
ある日、新しい教会の祝別式に急ぐ途中、ほとんど何も着ていない乞食に出会ったので、かわいそうに思った彼は自分の衣服を全部与えてしまい、残ったものは祭服だけであった。
教会に居た人々は、マルシアノの祭服の下に金色の衣を見たような気がしたが、後にゲナヴィオ大司祭が派手な衣服を着こんでいるのではないかと疑って答めると、彼は祭服を脱いで、下に何も着ていないことを明らかにした。
彼は710年に帰天した。
1月11日
テオドシオ修道者
テオドシオは423年にカバドキアで生まれた。エルサレムヘ巡礼した時、ロンギノという徳の高い修道者に指導を頼んで修業を始めたが、その頃、ある富裕な女性がエルサレムの近くに教会を建ててその主任司祭となる人を探していた。テオドシオのすぐれた聖性を見抜いたロンギノは、彼に勧めて赴任させた。
まもなくテオドシオの評判は全地方に広まり、多くの人々が教えを聞きに集まったので、テオドシオは孤独の生活を愛して人里離れたユダの山中に入り、30 年間祈りと苦行の生活をした。しかし多数の男女のためについに山を出てベトレヘムの近くに大きな修道院を建てた。同時に老人と病人および精神障害者用の3 つの病院も付設した。
修道院ではギリシャ人、アルメニア人、ペルシャ人たちが仲よく祈り、働き、彼らはどんなに貧しくとも訪れる人々には常に食事を与えて親切にもてなして帰した。
1月12日
アルカディオ
4世紀の初め、ローマ帝国のキリスト信者たちが厳しい大迫害を受けていたころ、偶像を礼拝しなければ死刑に処せられるので、アルカディオは田舎に身を隠していた。彼の不在に気がついた迫害者たちは親戚の1人を捕えて、彼が発見されるまで牢獄に入れた。
アルカディオはそれを知って自ら名乗り出て、自分の身代申りになった者を釈放するように頼んだ。裁判官が偶像に供え物をするように命じた時、彼は拒絶して言った。「どんな責苦にあっても私は私の神を裏切るようなことは決してしません。死の恐怖のために私が義務を果たさないようなことは決してありません」と。
その当時、偶像を拝むことを拒絶した者は首を切られるのが普通であったが、彼の場合は最初に手の指が切り落とされ、次に上肢を少しずつ切られていった。そして足の指と両足が切断されたが、彼は「主よ、あなたの知恵を教えてください」と、くり返して祈った。最後に残ったのは彼の胴体と頭だけであった。
それから驚くべきことが起こった。死にかけていた聖人は、ばらばらになった自分の四肢、地上に散乱した体の各部分を眺めてまだ話すことができたので叫んだ、「私の体の手足は幸福だ。今こそ神のものだから。おまえたちは今、全部神にささげられた」。
最後の言葉はそばに立っていた人々に宛てられた。「私の責苦から、あなたがたの偶像はつまらぬ物だということを学んでください。唯一の真の神は、私がそのために苦しんで、今死のうとしているかたです。神のために死ぬことは生きることです」。
1月13日
ポアティエのヒラリオ
ヒラリオは320年頃フランスのポアティエ市で生まれ、学生時代にキリスト信者となった。350年、彼は司教に任命された後、キリストの神性を認めないアリウス派の異端に対して全力を尽くして戦った。
コンスタンチウス皇帝は、彼をミラノのシノドス(教会会議)に呼んで聖アタナジオの教えを非難するように依頼したが、彼はアタナジオの教えを正しいと信じていたので、出席を拒否した。
その結果皇帝はヒラリオをフリジアに追放した。彼は何の不平も言わず出かけたが、異端者と論争して大成功したのでフリジア人たちは困って、彼を、またポアチエに呼び戻すように皇帝に頼んだ。3年の流刑中にも彼は、信仰を擁護するためによい著作を書いたり、土地の人々に福音宣教を試みた。
異端者たちが彼らの誤った思考を広めるために賛美歌を使うのを見て、ヒラリオは、キリスト信者たちも同じ方法で宗教を広めることができると確信し、キリスト教会では最初の聖歌集を作った。
今でははとんど全部の聖歌は失われたが、「荒野のイエズスの誘惑」「復活」「三位一体」の歌は今日まで残っている。
1月14日
サヴァ
サヴァは、17歳の時ギリシャのアトス山の修道士となった。彼の父は国王であったが1196年に退位したのち、サヴァといっしょにこの聖山の上に修道院を創立し、自分の国のセルビアから来た修道士たちを住まわせた。
サヴァは彼の兄弟たち(その1人はセルビア国王)が非常に不和であることを聞いた時、早速帰国して仲直りをさせてセルビアに新しい空気をもたらした。彼の努力がなかったならば、この国は確かに分裂してしまったに相違ないので、今日でもサヴァはセルビアの守護の聖人として崇められている。
これらのことは、サヴァの長い生涯のほとんど終わり頃になって成就されたことであった。
彼は17歳から70歳までの長い間世間から隠れた生活をして、活動的な仕事から遠のいていたが、セルビアの大司教になったのちは新しいエネルギーをもって八つの司教区を作るとともに、国中に学校を設立した。セルビア人、ギリシャ人、ラテン語を話す人びとが、彼の指導のもとに生活し、彼の知恵に感嘆して、彼のことを「啓発する聖人サヴァ」と呼んだ。彼の知恵はすべてのことに及んだが、その一つは畠の新しい耕し方であった。
1月15日
パウロ隠修士
最初の隠修士としてよく知られているパウロは、エジプトで生まれ、244年15歳の時、両親に死別した。彼はエジプトの文化を愛し、ギリシャ語にも通じていた。その頃、デシウス皇帝がキリスト教徒を迫害したので、彼は異教徒の友人の家に隠れたが、自分の財産を狙った義兄に裏切られて身が危うくなり、砂漠に逃れて、洞穴の中に隠れた。
パウロは孤独の生活を愛し、やしの葉で作った衣服を着て、小川のそばに住んで祈りと黙想をした。43歳まで彼の食物はやしの実だけであった。
聖ヒエロニモの伝えるところによると、その後は1羽のからすが毎日パンの半分をくわえて来るようになった。
その頃、アントニオも隠修士で、90歳の時、パウロを訪ねて来た。するとからすは、2人が十分に食べられるようにと1つのパンをくわえて来た。それまで 60年間、そのからすは毎日半分のパンだけしか持って来なかったのに、その日は1つのパンをくわえて来たのであった。しかし2人はなかなか食べ始めなかった。パウロは、アントニオが客だから先にパンをさくべきだと言い張り、アントニオは、パウロが年長者だから主人として行動すべきだと言った。しかし最後に、2人は同時にパンをさいたのであった。
パウロが亡くなったのは、113歳の時であった。アントニオがその直前に訪ねて来た時、パウロは横になって祈っていたので、しばらくいっしょに祈っているうちに息を引きとった。
アントニオはパウロが着ていたやしの葉の衣を大切にして、教会の重要な祝日にそれを着用した。
1月16日
マルチェロ1世教皇
マルチェロが教皇になった頃、ローマのキリスト信者たちは迫害の危険にさらされていた。教皇の座は3年半ほど空席であったが、マルチェロも教皇ヒしてわずか7か月と20日間在位しただけであった。
マルチェロを世話したのはルチナという熱心な信者の未亡人で、教皇は彼女の家に祈祷所をつくり、信者たちの祈りの場所とした。しかしマクセンチウス皇帝はマルチェロ教皇を苦しめるために、その祈祷所を馬小屋にして、教皇を馬丁として働かせるように強制した。老教皇はその労働の激しさに耐えられず、309 年に死去し、その遺体はローマの聖プリシラ墓地に葬られた。
3年後にマクセンチウス皇帝は、信者となったコンスタンティヌス皇帝との戦いで征服され、祈祷所は正式の礼拝所となった。
今日まで聖人の遺骨はローマのサン・マルチェロの教会に保存されている。
1月17日
アントニオ修道院長
276年、アントニオの両親は莫大な財産を残して亡くなった。
彼は、イユズスが富裕な青年に、すべての持ち物を売って貧しい人々に与えるようにと言われたことを聞いてその通りに実行し、砂漠に行って孤独の生活を始め、祈りと苦行をした。アントニオは度々悪魔の誘惑に苦しめられたが、常に打ち勝った。
長年の間に彼が会った唯一の人は、6か月に1度彼の所にパンを持って来た人であった。
彼は孤独を愛していたが、彼の教えを受けるために集まった多数の人々のために修道院を設立し、105歳で亡くなった。
1月18日
ハンガリーのマルガリタ
マルガリタは、ハンガリーの国王ベラ4世とマリー・ラスカリス女王の王女として生まれた。ところが当時ハンガリーは外部からの大きな危機に直面していたので、両親はマルガリタを神にささげるならば災害から救われるだろうと期待して、彼女を修道院に入れた。
マルガリタは喜んで修道生活を始め、最も低い仕事を選んで働いた。そのうちボヘミアのオトカル王がマルガリタの美貌に心をひかれて王妃として迎えようとしたが、彼女は神に仕える生活を愛していたので、これを拒絶した。
マルガリタは四句節中は、ほとんど何も食べず、また眠る時間さえ少なかった。1270年にわずか28歳の若さでマルガリタが亡くなった時、彼女の多くの友人たちや知人たちが、マルガリタを列聖するようにと願った。その中のひとりで、マルガリタの王女の頃の召し使いをしていたアグネスは、マルガリタは王女として生まれながら修道院の中で最も低い仕事をしたとはめたたえた。
1月19日
マリオとマルタ
マリオとマルタは、ペルシャの富裕な夫婦であったが、全財産を貧しい人々に施した。当時ローマではクラウディウス皇帝がキリスト信者を迫害していたが、夫婦は2人の息子を連れてローマを訪ねたところ、皇帝は軍隊に命じて、信者たちを円技場に集めて殺し、死体を火中に投げさせていた。マリオとマリタが息子たちといっしょに信者たちの焼かれた遺骨を埋葬すると、総督が非常に怒って彼らを捕え、責苦を加えた後、死刑に処した。
敬虔な信者たちはこの殉教者たちの体を大切に葬った。13世紀後に彼らの遺骨が発見されたが、現在は別々にローマのクレモナとドイツのセリゲンスタットの教会に納められている。
1月20日
セバスティアノ殉教者
セバスティアノが、ディオクレチアヌス皇帝の迫害時代に自分がキリスト信者であることを隠したのは、恐怖からではなく、毎日信仰のために殉教する人々を慰め、力づけるためであった。彼はフランスのナルポンヌ市に生まれ、283年にローマ市の兵士となった。忠実に軍務を果たしながら、彼は殺されていくキリスト信者たちを励まし、信仰を棄てないように助けた。そして囚人の係であった異教徒ニコストラトゥスと、その妻のゾェを改宗させた。
セバスティアノがローマ総督の痛風を治したので、総督もキリスト信者になって、多くの信者たちを牢獄から解放した。ディオクレチアヌス皇帝は、セバスティアノのよい評判を聞いて近衛兵の隊長にしたが、それは長続きしなかった。まずニコストラトゥスの妻ゾエがキリスト信者であることが発見され、ゾエは烈火の上に吊るされて殉教した。ニコストラトウスと改宗した総督も捕えられて苦しめられ、死刑にされた。セバスティアノが信者であることを皇帝が知った時、皇帝は非常に失望して彼を弓で射殺するように宣告した。しかしセバスティアノは、たくさんの傷を受けたにもかかわらず生命をとりとめ、イレネという信者の未亡人に世話されて健康をとり戻した。
セバスティアノは、仲間のキリスト信者たちを激しく迫害する皇帝と対決することを決意して、ある日皇帝の前に出て、信者たちに対する残酷な迫害を公然と非難した。皇帝は非常に驚いて一瞬間何も言えなかったが、次にセバスティアノを円技場に連れて行って、こん棒でなぐり殺すように命じた。その死体は下水溝に投げこまれたが、信者たちによって発見され、アッピア街道そばに葬られた。今日そこに聖セバスティアノ教会が建っている。
1月21日
アグネス
「キリストは私の花婿です。キリストが最初に私を選んでくださったのですから、私はキリストだけに属しています」と、アグネスは宣言した。
その言葉を聞いた4世紀の初めの頃のローマの若者たちは非常に心を悩まされた。というのは、アグネスは金持ちの名門に生まれた美しい少女で、多くの求婚者があったからである。しかしアグネスは全く受けつけなかったので、彼らはアグネスをキリスト信者として訴えて、むりやり結婚させようとたくらんだ。
彼らの計画は、アグネスの信仰とキリストに対する忠誠を全く棄てさせることであった。当時はディオクレチアヌス皇帝の迫害時代であった。アグネスは種々の責苦で脅迫されたが、いつも「主はご自分の者を守ってくださる」とくり返して、信仰をかたく守った。
ローマの執政官は、アグネスを売春宿に入れて誘惑しようと決定して、望む者は誰でも彼女に近づくことを許した。しかしアグネスの柔和と潔白さは皆の感嘆の的となり、誰も彼女に触れる者はなかった。執政官は怒って、13歳のアグネスを殺すことに決めた。彼女が首を切られたか、またはのどを突きさされて死んだかは知られていない。しかしとにかく彼女は死刑執行人におとなしく自分の首をさし出して殺されたのであった。
アグネスの友人たちは、彼女をローマの近くのヴィア・ノメンタナに葬った。そのうちにアグネスの名が知れ涯ってコンスタンティヌス皇帝は自分の娘にアグネスの墓のそばで洗礼を受けさせた。アグネスの死後2、3年後に、墓の上に聖アグネス教会が建てられ、長年の問に形は変わったが、今日まで残っている。キリスト教美術で、アグネスの象徴は小羊である。
1月22日
サラゴサのヴィンセンチオ
4世紀の初め頃に、キリスト信者たちが異教徒から受けた迫害の残酷さは、際限のないものであった。ヴィンセンチオがスペインのサラゴサ市で助祭に叙階され、その地方で働くことになった頃、ダチアン総督が全力を尽くして、キリスト教を撲滅しようとしていた。ダチアンはサラゴサで303年に18人の信者を殺し、次に、ヴィンセンチオを捕えた。
ダチアンは、サラゴサの司教を追放したが、ヴィンセンチオには、強く棄教を迫った。しかし、ヴィンセンチオはかたく信仰を守ったので、ダチアンは、彼の体を鉄の格子の上にのせ、大きい熊手で引きさくように命令を下した。それから強い火で焼かれた鉄板の上に体を横たえさせたが、ヴィンセンチオは苦しみに耐え、決して信仰を棄てるとは言わなかった。
最後に、ヴィンセンチオが宗教書を差し出すように命じられた時も、彼は断固として拒絶した。信仰の本をすべて没収して、焼いてしまおうとした総督の計略は、水の泡となった。
総督は、ヴィンセンチオのかたい決心をくじき得ないと知って、拷問をやめて、彼を牢獄に投げこませると、数人の信者たちが来て、彼の傷を洗い、柔かいベッドに寝かせた。しかし、あまりにもひどい苦痛を受けていたために、生きのびることはできず、彼はイエズスを賛美しながら息を引きとった。
ダチアン総督は、ヴィンセンチオの死後も彼を憎んで、死体を培池に投げこませて葬式ができないようにした。こうすれば、野獣が来て、遺体を食べてしまうだろうと思ったのであったが、動物や野鳥が近づく度に、からすが飛んで来て追い払ったのであった。
1月23日
イルデフォンソ
スペインのトレド市の大司教聖イルデフォンソが、ある日、大聖堂の司教座に腰かけていた時、聖母マリアが彼に祭服をくださったまぼろしを見た。
この賜物は彼にとって、ふさわしいものであった。彼は聖母に対して深い信心を持ち、キリスト信者の最高の義務であるイエズスヘの信心も、聖母マリアの目を通して、イエズスを黙想することによって果たされると信じていた。
スペインの貴族であったイルデフォンソの両親は、彼が修道者になることに強く反対した。
それにもかかわらず、彼はトレドの近くのアカリアの修道院に入った。仲間の修道士たちは彼の深い霊性と知性を認めて、彼を院長に選んだが、絢15年後、彼は大司教に任命されて、9年間、教会を賢明に治め、667年に、平和のうちに帰天した。
彼の恩に感じたスペイン人たちは彼に教会博士の称号を与えて、今日まで尊敬している。
1月24日
サレジオのフランシスコ
フランシスコは、1567年フランスのサヴォイアで生まれた。彼は教会のために働きたかったが、父親は、彼の望みとは反対に世間的な出世を望んで、彼をパリの大学へ送って修辞学と哲学を勉強させた。しかし司祭になりたいと望んでいたフランシスコは、神学も学んだ。
その頃、彼は霊的試練にあって、自分は神に愛されていないのではないかと悩んでいた。しかし、熱心な祈りの結果、この試練はようやく終って、彼は同じような心の悩みを持って苦しむ人々を助けることができるようになった。
彼の温和さは、弱さから出たものではなく、多くの苦しみの経験の賜物によって出てくるものであった。
フランシスコが活動したジュネーブは、当時カルヴィン派の人々で占められていたが、1602年に彼はそこの司教になった。彼の深い信仰と信徒に対する愛は、しだいに彼を理想的な司教とした。彼の教えは、『神愛論』という著書にまとめられて、1616年に発行された。
死去する前に、1人の修道女が彼の最も望んだ徳は何かと尋ねた時、彼は「謙遜」と答えた。
1月25日
パウロの回心
はじめサウロと呼ばれたパウロは、タルソ出身のユダヤ人であった。キリスト教徒たちをユダヤ教の真理を拒絶する者と信じて非常に憎んだ。使徒行録に記されているように「サウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のところへ行った」のであった。最初のキリスト教の殉教者聖ステファノが、石殺しにされた時、サウロもそこにいたが、石は投げなかった。しかし「ステファノの死に同意した」と使徒行録に書かれている。ステファノの死体を信者たちが葬った後、サウロは会堂を荒らし、信者たちの家に侵入して彼らを引っ張り出して牢獄に送りこんだ。
あるとき、ダマスコの信者たちをエルサレムに連れて来て罰する許可を大祭司から得て、ダマスコヘ向かった。ところが、途中で、突然、天からの光に打たれて、サウロは地面に投げ出され、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエズスである」という答えが聞こえた。イエズスはサウロに、ダマスコヘ行ってアナニアというキリスト信者を訪ねるように命じられたので、サウロは光のために盲目になっていたが、命令に従って行った。アナニアは、サウロを恐れてはいたが、彼を歓迎した。
サウロは、キリスト教について学び、ユダヤ人の会堂で、自分はイエズスが神の子であることを信じていると宣言して、みんなを驚かせた。ある人たちは、サウロを殺そうとしたが、彼は夜半に籠に乗って、町の城壁づたいに、キリスト信者たちの助けで、吊り降ろしてもらって逃げることができた。
サウロの視力は回復し、新しい生涯を象徴するためにパウロという新しい名に改めた。彼の書簡は、キリスト教神学に大きな影響を与えている。
1月26日
パウラ
バウラは347年、ローマの貴族の家に生まれ、15歳の時結婚して幸福な家庭生活をしていたが、32歳の時に最愛の夫が亡くなり、非常に心を痛めた。しかし、4人の娘と1人の息子に慰められて過ごしているうちに、長女のプレシラが重病にかかって死去するという大きな悲しみを経験して、つくづくこの世のはかなさを感じた。彼女は富んでいたので、財産を貧しい人々に施し自分は貧しく暮らして、悲しみを切りぬけようとした。
その頃、有名な聖書学者の聖ヒエロニモがパウラに手紙を書いて、夫と娘の死を悲しむことは正しいことだが、彼らはこの世では比較できない幸福な世界に入ったことを悟るべきだと諭した。この時パウラは新しい生活を送ることを決心して、三女のエウストキアと共にローマを出て、アンチオキアでヒエロニモに会い、3人でパレスチナの聖地へ巡礼に行った。そして、最後にベトレヘムに住みついて、持って来た財産で貧しい人々のための宿泊所と、男子と女子の修道院を 1つずつ建てた。パウラが初めてベトレヘムヘ来た時、彼女は叫んだ。
「ベトレヘムはパンの家です。ここに天から降られた生きたパンがお生まれになったのです」と。
天よりのパンは、彼女のすべての必要を満たした。パウラとその仲間はぜいたくな食物は何もとらず、非常に貧しい生活に甘んじていた。事実、パウラは、たくさんの金銘を施したので、晩年には、困察の状態であった。しかし、何ごとにもわずらわされず、パウラは404年1月26日に、57歳で平和のうちに帰天した。そのなきがらは、イエズスがお生まれになった場所の近くに葬られた。
1月27日
アンジェラ・メリチ
16世紀に、アンジェラは女性のキリスト教的教育の必要性を洞察して、教育事業に献身する聖ウルスラ会をイタリアで創立した。現在、その会は世界の多くの国に広がって、少女たちの教育と宣教の仕事に従事している。
アンジェラはある日、若い女性のグループが天国へ達する大きな梯子を登って行く夢を見た。その時、彼女は奉献された女性たちを、いつか導くようになるであろうという声を聞いた。
彼女はこのまぼろしを決して忘れず、1535年プレシアで8人の仲間を集めて、惜しみなく神に身をささげる誓願を共に宣立した。
この新しい修道会は守護の聖人としてイギリスの女王で殉教者の聖女ウルスラを選んだ。アンジェラが亡くなったのは、1540年であった。
1月28日
トマス・アクィナス
世にも稀なすばらしい知性に恵まれたトマスが、ドミニコ会の修道士になることを望んだ時、家族は大反対して彼を父の居城に15か月間閉じこめたが、トマスは初志を貫いて入会した。パリとケルンで学んで、13世紀の最もすぐれた学者たちに出会い、彼自身もパリ大学の有名な講師となった。イタリアの多くの大学でも彼の出講を求めたが、1272年までパリに留まり、同年ナポリに大きな学校を創立した。
トマスは、神が存在し、神は愛であること、神の中にすべての完全さがあることを、人間の鈍い頭でもよく理解できるように証明しようと努力した。彼のすぐれた著作の中でも、特に『神学大全』は不朽の名著として残っている。
トマスは、内気であったが、面白味のない人ではなく、よく笑った。しかし、「大罪を犯した人(自分)が、どうして微笑できるか私には理解できない」と書いた。1274年彼はリヨン公会議に行く途中で倒れ、帰天した。
1月29日
サビニアノ
サビニアノは、3世紀にサモス島に住んでいた異教徒であったが、その島の社会と道徳状態を不満足に思ってゴールヘ行き、トロイで聖パトロクルスから洗礼を受けた。パトロクルスが259年に殉教した後、彼は26年間その仕事を続け、セーヌ河の上流地方で説教したり、洗礼を授けたりして、多くの人々を改宗させた。
アウレリアヌス皇帝の前に引き出されて信仰を棄てるように強制された時、彼は強く拒絶したので、残酷な刑罰を受け、首をはねられて殉教した。それは275年で、トロイの近くであった。
1月30日
マルティナ
1634年、教皇ウルバノ8世がローマのカピトリーノ丘のそばの古い教会を再建した時、ローマの貴婦人とその2人の男子の遺骨の入った墓が発見された。それは聖女マルティナと息子たち、コンコルディオとエビファニオの遺骨であることがわかった。芸術家ベルニーこによってすばらしいブロンズの納骨堂が作られ、聖人たちの遺骨はその中に納められた。それは今日でも聖ルカ聖マルティノ教会の中にあって絶えず灯火がともされ、多くの人が巡礼している。
マルティナの生前のことははとんど何も知られていないが、ローマの守護の聖女の1人である。
1月31日
ヨハネ・ボスコ
19世紀にイタリアで、青少年に宗教的、学問的に非常にすぐれた教育を施して、有名なサレジオ会を創立したヨハネ・ボスコ(ドン・ボスコ)は1815年北イタリアのトリノ市で生まれた。司祭に叙階された後、当時の不良少年たちの状態に心を痛めて、彼らの教育のために一生をささげる決心をした。「愛なくして信頼なく、信頼なくして教育なし」は、彼のモットーであったが、彼は若者からも限りなく愛された。
ドン・ボスコは、聖女マリア・マザレロを指導して、女子教育を目的ヒする扶助者聖母会も創立した。彼が帰天したのは1888年1月31日であった。 |