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2月1日
ブリジッタおとめ
5世紀の中頃、ブリジッタはアイルランドの族長の娘として生まれた。幼い時から修道女になることを志望して、18歳の時、7人の仲間と共にクロガン・ヒルという所で神に奉仕する生活を始めたが、470年頃、アイルランドにおける最初の修道院をキルダラ(樫の木の教会)として知られている場所に創立して、修道士と修道女の修道院長となった。
ブリジッタは子供の頃から貧しい人々を大切にして、施すことが好きであった。大人になってからの話であるが、彼女がのどの渇いた見知らぬ人に飲み水を与えると、それがミルクに変わったと伝えられている。
ブリジッタは、体と精神が必要とするものは、両方とも与えられなければならないことをよく悟っていたので、自分の周囲の人々の霊的・物質的生活を向上させるために非常な努力をした。そのために自分の修道院を学問と芸術の場所として貴重な手書きの写本や書籍を写したり、すばらしい絵を描かせたり、勉強させたりした。
アイルランドの教会会議の間に、1人の聖なる司教が、聖母マリアが信者の中に出現される夢を見たと告げた。ブリジッタが到着した時、「私が夢の中で見た聖女が来た」と彼は叫んだ。その時からブリジッタは「ゲール人のマリア」として知られるようになった。
ブリジッタが亡くなったのは、525年2月1日であった。デーン人がアイルランドに侵入した時、彼女の遺体はキルダラからダウンパトリックヘ運ばれて、聖パトリックのそばに葬られた。ブリジッタと同じように聖パトリックもアイルランドの守護の聖人である。
2月2日
レストナックのヨアンナ
ヨアンナは1556年フランスのボルドーで生まれ、母はプロテスタントであった。ガストン・ド・モンフェランの妻となり、1人の息子と3人の娘をもうけたが、24年間の幸福な結婚生活の後、夫と死別した。
その頃2人の娘は修道女になりたいと望んでいた。ヨアンナもシトー会の修道院に入ったが、生活が厳しすぎて重病になった。しかし、彼女の賢明な長上はヨアンナのすぐれた人格を認めて、聖母マリアに奉献された修道会を創立するよう勧め励ました。ヨアンナは若い女性たちを集めて共同生活を始め、最初の仕事としてボルドーで流行した伝染病の患者たちを看病した。
多くの司祭たちがヨアンナの熱心な仕事を認め、彼らの助けでヨアンナはボルドーの大司教に自分の修道会を支持するように願った。1610年にヨアンナは総院長となって、その地方に多くの学校を建て、希望する少女は誰でも入れるようにした。しかし教育事業が栄えだした頃、ブランシュ・エルベという修道女がヨアンナの悪口を言いふらしたのが教会の権威者の耳に入って、ヨアンナは院長職をやめさせられた。
ヨアンナは、屈辱を柔和をもって耐え忍んだので、ブランシェ・エルベも自分の非を悟って悪事を告白した。しかしヨアンナは院長として働くことは望まず、1640年2月2日に平和のうちに帰天した。
2月3日
ブラジオ司教殉教者
ブラジオはアルメニアのセバステの司教であった。総督がキリスト信者たちを迫害し始めた時、ブラジオは山の中に隠れたが、間もなく発見されて総督の前に引き出され、棄教するように命じられた。ちょうどその
時、ある母親が息子を連れて来て、「この子ののどに魚の骨がささって、窒息しそうなので、助けてください」と聖人に頼んだ。聖人がその子ののどに手を当てて十字架の印をすると、たちまち治った。ブラジオは
その時から、のどの病気をいやす聖人として知られている。
総督は、ブラジオが教えを棄てないので柱に縛りつけ、鉄の熊手で体を引き裂かせた。それでも異教の神々に犠牲をささげることを拒んだため、首をはねられて殉教した。316年であった。
2月4日
アンドレア・コルシーニ司教
イタリアのフィレンツェ市の貴族であったコルシーニ家に生まれたアンドレアは、酒飲みの少年で悪友たちと金を浪費して暮らしていたが、ある日母親が、彼が生まれる前に狼を産む夢を見たという話を彼に聞かせた。その時、アンドレアは自分が野獣のような生活をしていることに気づいて、教会に行って祈り、新しい生活を始めることを決心してカルメル会に入った。
アンドレアは、カルメル会員として模範的であったので、やがて修道院長に選ばれた。1360年フイエゾレの司教に任命された時は、自分の値打ちのなさを感じて身を隠したが、発見されて司教の職についた。その頃総督と人民が争っていたポローニャヘ、教皇がアンドレアを派遣して、仲直りをさせたということもあった。
富裕な家で育った彼は、貧しい人々に仕えることを望み、毎木曜日に彼らの足を洗った。彼が帰天したのは71歳の時であったが、フィレンツェの人々は、ただちに彼を聖人だと宣言してやまなかった。
2月5日
アガタ殉教者
アガタは3世紀にイタリアのシチリアに住んでいた。シチリア島の知事クインチアノが、アガタの美貌に心をひかれて妻にしようと望んだが、拒絶されて大いに怒り、彼女を罰するために売春婦の宿に入れて誘惑した。しかし、アガタは全力を尽くして反抗したので、知事は彼女をキリスト教徒として法廷に引き出し、最も残酷な刑罰を加えることにした。最初に乳房が切り落とされ、薬も包帯も許されなかった。出血多量と衰弱のためアガタが虫の息で祈っていると、聖ペトロが現われて彼女を慰め励まし、その傷をすっかり治したという伝えがある。
アガタは苦しみの最中に神に祈った。「主イエズス・キリスト、私が何を望んでいるかよく御存知です。私のすべてをささげます。どうぞ私をあなたのものにしてください」。
知事はアガタを拷問台の上に横たえ、次に、裸にして燃えさかる炭火の中に投げこんだ。アガタは血まみれになり、息も絶えだえになった。彼女は再び牢獄へ運ばれ、祈っているうちに亡くなった。その死はアガタを苦痛から解放し、主キリストの御腕に彼女を連れて行ったに違いない。それは251年のことであった。
このような大きな責苦を受けたアガタは非常に尊敬された。大聖グレゴリオ教皇は、ローマでゴート人たちが使った教会を再建して、聖女アガタに奉献した。その教会は今でも存続し、殉教した聖女を記念している。
2月6日
ドロテアおとめ殉教女
4世紀の初め、小アジアのカパドキアにおいて、ドロテアというひとりの美しい少女がキリスト教信者として捕えられて投獄された。彼女は牢番の女2名を改宗させたので、総督のサプリチオは大いに怒って、彼女に死刑の宣告を下した。刑場に引かれて行く途中、テオフイロという判事が「どうして、おまえはあのような苦痛に耐えられたのか」と尋ねると、ドロテアは、「天国へ行くからです」と答えた。判事はドロテアに天国から果物と花を贈ってくれるように頼んだ。この願いは奇跡的に聞きいれられて、判事はキリスト信者になり、まもなくドロテアの後を追って殉教したということである。
2月7日
テオドロ軍人
テオドロは小アジアのヘラクリアの住民で、リシニウス皇帝の軍隊の司令官であった。彼は政治的な手腕もあり、リシニウスの領土の一部を統治していた。
ある時、テオドロが偶像を礼拝することを拒絶したことによって、部下の兵士たちは、彼がキリスト教徒になったことに気づいた。
そのためにテオドロは投獄されて責苦を受けた後、一時釈放された。
ところが異教の女神に奉献されていた寺院に放火したので、再び捕えられて火あぶりにされた。しかし息をひきとる前に天国のまぼろしを見て慰められた。
彼は軍人の保護の聖人として東方教会で崇敬されている。
2月8日
ヒエロニモ・エミリアニ
孤児や捨て子の守護の聖人のヒエロニモ・エミリアこは、1481年、北イタリアのヴェネツイアで生まれ、15歳の時、軍隊に入った。カステル・ヌオヴォ城が敵軍に攻撃された時、ヒエロニモは鉄の鎖につながれて地下の牢獄に入れられたが、聖母マリアに祈って脱出することができたので、トレヴィゾの教会へ行って鉄鎖を壁にかけて感謝した。
この時から、ヒエロニモは余生を神にささげて司祭となり、当時、伝染病がはびこっていたヴェネチア市内で、病気と飢えに苦しんでいた子供たちを自分の家にひきとって世話をした。丈夫で働ける路上生活者には職を見つけ、幼い孤児たちを集めて衣食を与え、教理を教えて信仰に導いた。
やがてイタリアの数か所に孤児院を設立し、同志の人々を集めて、主として捨て子の世話と教育に従事する修道会を創立し、本部の所在地にちなんでソマスコ会と称した。なお、ヴェロナ市にも病院を建てて病人のために尽くしたが、1537年にペストがベルガモ市に蔓延した時、ヒエロニモも感染し、会員にみとられながら天国の光栄に召された。
2月9日
アポロニア殉教者
聖女アポロニアを描いた画は、歯を抜くために使ったペンチを持った姿、または、自分の歯で作った首飾りをかけた姿を示している。その理由は249年キリスト信者に対する大迫害がアレキサンドリアで起きた時、アポロニアも捕まって、まず最初に歯を1本ずつ抜き取られたからである。
次に迫害者たちはアポロニアを市外に連れて行って、火あぶりの刑にすることになった。刑場に山のように積まれた薪に火がつけられると、刑吏たちは彼女を燭の前に引き出して、もし彼女が神を呪わなければ火中に投げ入れるとおどかした。そこにはアレキサンドリアの司教ディオニシオも居て、老年のアポロニアの勇ましい姿を見ていた。アポロニアが火で焼かれて殉教したのは紀元250年のことであった。
2月10日
スコラスティカおとめ
スコラスティカはベネディクト会の創立者聖ベネディクトの妹で、兄のようにイエズスに忠実に仕え、兄の創立した女子修道院の院長となり、姉妹たちを完徳へ導いた。
ベネディクト会の会則によると、ベネディクトとその妹は相互の修道院に出入りすることは許されなかったので、毎年1回だけ、2人はモンテ・カッシーノ修道院の外の家で出会って共に祈り、神の愛について話し合った。
543年、スコラスティカは自分の死期の近づいたことを知って、兄が来た時に天国について話すために一晩過ごすように頼んだ。しかしそれは会則に反することだと言って兄が拒んだので、スコラスティカは祈り始めた。すると、にわかに嵐が起きてベネディクトは帰れなくなったので、妹を叱った。スコラスティカは笑って答えた。「お兄様が私の願いを聞いてくださらないので、神様にお願いしたら、早速聞き入れてくださいましたね」。
3日後にスコラスティカが亡くなった。ベネディクトは彼女の霊魂が天国へのぼって行くまぼろしを見た。ベネディクトは、スコラスティカの遺体を自分のために準備した墓に埋葬して、自分の死後、その休もそこに納めるように手配した。大聖グレゴリオ教皇は、「イエズスにおいて心が常に一致していたこの2人の体は、死後も離れることはなかった」と言った。
2月11日
教皇パスカーリス1世
パスカーリス1世教皇は宗教的な美術を愛したが、その時代は東方教会で多くの人々が、キリストや聖母マリアや聖人たちの画を偶像崇拝の対象になるものとして破り捨てていた。また、ある所ではキリスト教の教会の中に聖画を飾ったために殺された人もあった。
パスカーリスはこのような時代にあって多くの偉大な宗教的作品が破壊されていくのを防ぐために全力を尽くした。
特にスタディウスのテオドロ修道院長が聖画とイコンを守ったために投獄された時には、その救出を計ると共に、多数のギリシャにいた修道土たちをも安全な場所にかくまった。
結局パスカーリス教皇はこの争いを終らせることはできなかったが、817年から824年までの問に、東方の芸術家の作品の影響はローマ市内の教会の中で見ることができた。
その他の事業として、教皇はトラステヴェレの聖セシリア教会を再建して、聖女の遺骨を納めるのにふさわしいものとした。それと共にローマのサンタ・マリア聖堂も再建した。
それらの教会は、今日に至るまで残り、パスカーリス教皇の深い信仰を表わしている。
2月12日
ユリアノ看護人
旅人と渡し守の守護者とされているユリアノは若い時に、普通の常識で考えたらあり得ないような大罪を犯した。それは、ある日彼が自分の城に帰り寝室に入った時、2人の人が寝台に寝ていたので侵入者と思ってその場で切りつけて殺してしまったのであった。ところがその2人はユリアノの両親だったのである。彼らは外出先から帰った時にあまり疲れていたのでユリアノのベットに入ったが、ベットにかけてあった布が両親の身体を覆っていたのだった。
その瞬間ユリアノが抱いたもう1つの疑いは、どこかの男性がユリアノの妻と寝ていたのではないかということであった。しかし彼女は教会に行っていたのである。彼女が帰って来るなり、とり乱した夫が出て来て、自分はもはや立派な人々といっしょに暮らすことはできないから、彼女と別れて城を出ると告げた。しかし彼女はそれを拒絶した。2人で彼の罪を償うことを決め、城から出て、流れの急な大きな川のそばに行き、貧しい人々のために病院を建てた。そのほかにユリアノの罪の償いのために、急流を渡る旅人たちを助けることにした。
それから数年の後、ある寒い夜にユリアノは河の向こうから助けを求める声を聞いたので、行ってみると、ひとりの男が凍死しかけていた。エリアノはその者を連れて帰って自分の床に寝かせ、暖めて生命をとり戻させた。その男はハンセン病者であったが、ユリアノはかまわずに彼を看護した。
彼が回復した時にわかったことは、神がこの人を遣わしてユリアノの親切を試されたということだった。「ユリアノさん、神様はあなたの償いを受け入れられました。私は神様からこのメッセージをあずかって来ました」と、その男の人は言った。
2月13日
カタリナ・リッチおとめ
カタリナ・リッチは、生涯の大部分をイタリアのトスカーナのドミニコ会修道院で過ごし、イエズスから与えられた様々のヴイジョン(まぼろし)で有名になった。1542年の四句節にイエズスの十字架刑について深く黙想した時、重病にかかり、聖土曜日に、復活されたイエズスがマリア・マググレナに話しかけられるまぼろしを見るまで回復しなかった。12年間、毎木曜日にカタリナは脱魂状態になって、イエズスがゲッセマネの園で捕われるところから、むち打ち、裁判、ゴルゴタヘの苦しい道行と十字架刑まで全部を自分の体で表わし、次の日には意識をとり戻した。
こういうことは多くの人々にとって異様で信じ難いように思われたであろうが、カタリナは自制心の強い常識的な修道女であったために、院長に選ばれて、修道院をよく統治した。彼女は脱魂することを決して誇らず、仲間の修道女たちと共に神に祈って、まぼろしが中止されるように願った。その祈りは1554年に聞き入れられて、好奇心に燃える訪問客も来なくなり、修道院に平和がもどった。
2月14日
チリロとメトディオ
この両聖人は兄弟で、ギリシャのテサロニケで9世紀の初めに生まれた。チリロは有名な哲学者となってコンスタンティノープルの大学で教え、メトディオはスラブ地方の知事になったが、2人とも社会的地位を離れて修道院に入った。
861年に、2人はロシアの奥地に行って宣教したが、帰ると間もなく、コンスタンティノープルの総大司教によってモラヴィア人を改宗させるためにモラヴィア(現在のチェコスロバキア中部地方)に派遣された。そこでの伝道は困難な仕事であった。しかし彼らのすぐれた説教や典礼運動によって多くの人々がキリスト信者になった。
ローマでは、2人の仕事のよい評判を聞いた教皇ニコラス1世が、2人に会いたいと思って呼んだが、彼らが到着する前に教皇は亡くなった。後継者の教皇ハドリアノ12世はチリロとメトディオを歓迎し、彼らを司教に任命したいと言った。しかしチリロは突然重病にかかって死去し、ローマのサン・クレメンテの教会に葬られた(1880年に遺骨が発見されて、今は2人の兄弟にささげられた小聖堂内に安置されている)。
メトディオはチリロの死後、再びモラヴイアに帰って独力で奮闘して、度々危険な目にもあった。教皇は彼を支援したが、多くのドイツ人の司教たちは、モラヴィア人のためのメトディオの働きを不愉快に思い、ルードヴィヒ王に訴えて彼を2年間投獄させた。それは870年のことであった。教皇はこれを残念に思ってメトディオを助け出し、コンスタンティノープルヘ送り返した。ここでメトディオは、自分と同じく「スラブ人の使徒」であった他の兄弟と共に、かつて始めていた聖書の翻訳を完成したのであった。
2月15日
ジークフリード
スウェーデンの守護の聖人ジータフリードは、イギリス人でグラストンベリーの修道士であった。その頃、ノルウェーのオラフ王がイギリス人の宣教師をノルウェーに派遣するようにイギリス王エセルレッドに頼んで、彼が選ばれた。ノルウェー王は、イギリス人の聖アルフエージによって改宗した王であった。ジータフリードはノルウェーで多数の人々を改宗させた後、スウェーデンに行って国王に洗礼を授け、南部のベクシェ市に木造の教会を建てた。
ある時、ジータフリードが3人の甥に留守を頼んで出かけた間に、スウェーデン人たちは3人の首を斬って湖に投げてしまった。ジークフリードが帰り、3人の首を発見して、それがまだ話すことができたと皆に発表した。「この罪は復しゅうされるだろうか」と尋ねると、第1の頭が「はい」と答えた。すると第2の頭が「いつ?」と尋ね、「第3代目です」と、3番目の頭が答えた。その通りになり、聖人は生きている敵を恐怖におとしいれた。
聖人は非常に有名になったので、ドイツ人たちは彼をドイツの守護の聖人としたいと望んで、彼の出生地はプレメンまたはハンブルグだと主張した。ベクシェ教区の司教であった彼は年をとってから亡くなり、ベクシェ市の大聖堂の祭壇の下に葬られた。
2月16日
ユリアナ
中世の絵画やステンド・グラスで、ユリアナはつばさのある悪魔と戦っている姿で度々描かれているが、彼女は普通、獣をしばる鎖を手に持っている。彼女と悪魔との戦いは、中世の教会で好まれた物語の1つであった。
悪魔は光の天使を装ってユリアナに現われ、彼女が世の中で捨てたものは実際によいものであったことを悟らせようとした、と言われている。
悪魔の言うことは正しいように見えた。
ユリアナはキリスト信者となって父に背いたので、父からさげすまれ、エビラシウスというローマの知事の求婚に対しては強く拒絶したので、牢獄に投げこまれた。
そこで彼女は天使に変装した悪魔と戦って、度々悪魔をしばって床に投げ倒したといわれる。
ユリアナは最初、火焔の中で焼かれ、次に煮えたぎった油の大がまの中に投げ入れられたが、最後には首をはねられて殉教した。
2月17日
聖母のしもべ会七聖人
1233年、イタリアのフィレンツェの富裕な7人の貴族が、聖母マリアヘの特別な信心を行ないながら、神に仕えるために共同生活を始め、祈りと苦行に励んだ。当時フィレンツェの人々は党派に別れて争っていて、不安な時代であった。
初めに7人は市の門外に住んで司教の指導のもとに生活していたが、聖なる生活が評判になって大勢の人々が教えを学びに来て騒々しくなったので、さらに静かな所を探してモンテ・セナリオに行って修業し、七年間そこで過ごし、その間志願者は1人も受け入れなかった。しかし1240年に司教は志願者を入れるように主張して会則を与え、アウグスチノ会の黒い修道服を着用させた。そして彼らは托鉢修道者として生活することになった。
その頃から彼らは「聖母のしもべ」として知られるようになったが、その理由は、彼らが特にイエズスのおん母マリアがその生涯中に耐えしのばれたおん悲しみを黙想したからであった。
やがて多くの人々が入会したので、新しい修道院がトスカナ市の近くに建てられた。1250年、7人の創立者はフィレンツェに「聖母のお告げの教会」というすばらしい聖堂を建てた。この修道会は聖母に献身する男女をひきよせ、多くの修道院では子供の教育や貧しい人々、病人の世話などが行なわれている。
2月18日
シメオン殉教者
イエズスの従兄弟の1人であったシメオンは、イエズスの教えをよく理解し、イエズスの神性を認めていた。あるキリスト教信者たちは、このシメオンが、非常に強いユダヤ民族主義の党派に属していたために「熱心党」とあだ名をつけられたイエズスの弟子と同じ人だったと信じている。
シメオンは、主が復活されてから聖霊降臨までエルサレムで祈っていた弟子たちの仲間に入っていたと伝えられている。66年にユダヤ人たちがローマ人たちに反抗して立ち上がった時、シメオンはローマ軍の復しゅうを予見して、多くのキリスト信者たちと共にペラ市へ逃れた。
ローマ皇帝トラヤヌスの迫害の時、シメオンは捕えられて十字架にはりつけにされ、殉教した。
2月19日
コンラド
マリオとマルタは、ペルシャの富裕な夫婦であったが、全財産を貧しい人々に施した。当時ローマではクラウディウス皇帝がキリスト信者を迫害していたが、夫婦は2人の息子を連れてローマを訪ねたところ、皇帝は軍隊に命じて、信者たちを円技場に集めて殺し、死体を火中に投げさせていた。マリオとマリタが息子たちといっしょに信者たちの焼かれた遺骨を埋葬すると、総督が非常に怒って彼らを捕え、責苦を加えた後、死刑に処した。
敬虔な信者たちはこの殉教者たちの体を大切に葬った。13世紀後に彼らの遺骨が発見されたが、現在は別々にローマのクレモナとドイツのセリゲンスタットの教会に納められている。
2月20日
エレウテリオ
エレウテリオは、486年に自分の故郷ベルギーのトゥルネー市の司教になり、多くの人々が彼の説教によって改宗した。
ある時、ひとりの若い少女が彼を愛し始めたが、相手にされなかったので病気になり、昏睡状態におちいった。
エレウテリオは彼女の父に、もし改宗すると約束すれば、彼女を治してあげようと言った。娘は治ったが、その父は約束を守らなかった。するとその土地に疫病が流行したので、父は改心してキリスト信者になった。エレウテリオは532年に亡くなった。
2月21日
ペトロ・ダミアノ司教
ペトロは、イタリアのラヴェンナで、1001年に生まれた。両親に早く死別して長兄の家に引きとられたが、奴隷のようにこき使われていた。豚を網っている姿を次兄が見てかわいそうに思って、彼をファエンツァとパルマの大学に送って教育を受けさせた。この兄は司祭であって、ペトロは彼の洗礼名を取ってダミアノという名をつけた。
ペトロ・ダミアノは学問に精を出して大学教授となったが、神にもっとよく仕えたいと望んで、34歳でフォンテ・アヴェラナのベネディクト会修道院に入って厳しい生活を始めた。
1043年に院長となり、多くの人々が彼の生活に倣いたいと希望したので、彼らのために5つの修道院を建てた。オスチアの司教を短期間つとめた後、再び修道院に戻って有益な著作に従事した。そのほか、教皇に依頼されてイタリア、ドイツ、フランスを巡って説教し、ある時はドイツ皇帝に王妃と離婚しないように説得して成功したこともあった。
ペトロ・ダミアノは、決して自分の学識を誇らず、「大切なことは神に祈ることであって、神について書くことではない。もし神に祈らないならば、神の言葉を含む文を文法的に正しく書いても何にもならないのである」と言った。
2月22日
コルトナのマルガリタ
マルガリタは1247年にイタリアで生まれ、17歳の時家出してモンテプルチアノの城の住みこみ手伝いとなった。ところが若い城主は美しいマルガリタを誘惑し、自分の妾として9年間過ごした。その間に一子が産まれたので、マルガリタは正式に結婚したいと望んだが拒絶された。ある日、城主は悪人に殺され、その遺体は森林の穴の中で発見された。
マルガリタは絶望してコルトナに帰り、公に自分の罪を告白した。自分の家に帰りたいとも望んだが、父に拒絶された。途方に暮れていた時、フランシスコ会の第三会員として受け入れられ、心の平和をとり戻すとともに、祈りと償いの生活を始めた。彼女はイエズスの愛を経験し、罪が赦されたことを感じたのであった。彼女の息子はアレツツオで教育をうけ、やがてフランシスコ会に入った。
マルガリタは貧しい病人たちの看護をする会を作りたいと望むようになり、機会を待っていたが、1286年にアレツツオの司教が認可して仕事が開始された。コルトナ市から支給された資金で、彼女は貧しい人々のための病院を作り、それをいつくしみの聖母に奉献した。
2月23日
ポリカルポ
スミルナの司教ポリカルポは、福音史家聖ヨハネの弟子であった。
マルクス・アウレリウス皇帝がキリスト信者を迫害した時、ポリカルポは偶像にいけにえをささげることを拒絶して、次のように言った。「私は今日まで86 年もの間キリストに仕えてきましたが、キリストは私に何も悪いことはされなかった。どうして私は私の王で救い主であるキリストをののしることができましょうか」と。
ローマの総督がポリカルポを火あぶりにすると脅迫すると、彼は「あなたは確かに消えてしまう火で私をおどかすけれど、悪人たちのためにある永遠の火のことをあなたは何も知らない」と言った。
今日まで伝わっている話によると、ポリカルポの体につけられた火は、ポリカルポを完全に焼き尽くせなかったので、異教徒たちは最後に彼を短剣で刺し、息の根を止めたという。
2月24日
エセルパート
カンタベリーの聖アウグスチノがイギリスに到着した時、彼はケントのエセルパート王の助けを非常に望んだ。王はキリスト教徒と結婚していたが、自分はまだ異教徒であった。とはいえ親切な王であった。
アウグスチノとその従者たちを、もしかすると魔法使いかもしれないと恐れたエセルパート王は、彼らを室内に入れなかった。万が一、逃げる場合のことを考えたからである。それでタネット島の野外で会見が行なわれることになった。アウグスチノと従者たちは銀の十字架とイユズスの姿が描かれた板を持って近づき、自分たちとイギリス人の救霊のために祈った。
エセルパート王はていねいに言った。「あなた方の言葉と約束は真に立派であるが、私にとっては新しくて異様である。私はそれを受け入れることもできないし、全イギリス人が長年信じてきた信仰を棄てることもできない。しかしあなたがたが遠方から来て、信じていることを私たちに教えたいとまじめに望んでいることは分かるので、あなた方に害を加えることはしない。私はあなた方を歓迎し、必要な物は何でも与える。自由に説教してよろしい。あなたがたの宗教に多くの人々が入ることを許す」と。
エセルパートはその後キリスト教信者になり、彼の臣下も大勢受洗した。その上、近隣の国の君主たちにも信者になるように勧めたりした。
ロチェスターに聖アンドレアにささげた大聖堂を建て、ロンドンにもいくつかの教会を建てた。教皇グレゴリオ1世は非常に喜んで、エセルパートに多くの贈り物をして、偶像をまつってある神殿をこわすように依頼し、王のよい模範により、国民の道徳のレベルを高めるように勧めた。
エセルパートは616年に帰天した。改宗後21年目であった。
2月25日
ワルバ−ガ
ワルバーガは、イギリスのデボンシヤの領主の娘として生まれ、ドーセットの修道院で教育を安けてそこの修道女となった。
8世紀のイギリスは、熱心な宣教の中心地とも言えた。聖ボニフアチオは、ドイツの改宗のためにイギリスの修道土や修道女に呼びかけたので、ワルバーガと兄のウインバルドはぞれに答えて2年間ビショスハイムでワルバーガが教理を説くと共に、医術で異教徒を助け、ウインバルドはハイデンハイムに男性と女性のための修道院を創立して、自分は修道土を指導し、妹を修道女の長上とした。
ウインバルドが亡くなった時、ちょうビアイヒシュテットの司教であったもう1人の兄が、ワルバーガを修道土と修道女の2つの修道院長に任命した。
779年にワルバーガは亡くなったが、彼女の名声はたちまちヨーロッパじゅうに広まった。彼女の遺骨は17世紀のバロック教会の中に納められ、現在は、その教会は宣教女であり、医者であった彼女にささげられている。
2月26日
ポルフィリオ
ポルフィリオは25歳の時、マケドニアの自分の家を出てエジプトの砂漠に行き、修道土になった。5年後にヨルダン川のそばの洞穴に移ったが、重病にかかった。その時彼は、エルサレムに行ってイエズスが過ごされた土地で余生を送ることを決心したのである。
エルサレムでは毎日苦労しながら巡礼したが、「私は自分の罪の赦しを願うために来たのだから、私を助けないでください」と言って助力をことわった。
やがてポルフィリオは、キリストによって奇跡的に病気がいやされた。彼は以前には財産を持っていたが、それらは貧しい人々にほとんど全部を施してしまったので、貧窮の生活をして、靴を作ることでやっと生きていた。
393年に彼は司祭となり、3年後にガザの司教に任命された。その年、ガザはひどい干ばつにおそわれたため、異教徒たちは、キリスト信者たちに、ポルフィリオのような新しい人間をなぜ連れて来たのかと責め
て、彼をガザ市から追い出した。
彼が仲間たちと雨乞いの祈りをしながら歩いていると、雨が降り始めたので、また引き返すことを許された。ポルフィリオの死ぬ前に、ガザの大部分の異教徒はキリスト信者になっていた。
2月27日
アンジェラ・メリチ
ガブリエル・ポセンティは1838年に生まれ、父はアシジ市の市長であった。彼はイエズス会の学校ではいつも優秀な成績であったが、生活はぜいたくで、この世の快楽を追い求めていた。そのうちに突然重病になり、この世のはかなさを悟り、全快したら必ず修道院に入ると決心した。ぶしぎにも病気は治ったが、以前の誓いは忘れて再び享楽に心を奪われだした。まもなく病気がぶり返し、生命が危うくなった時、もし治していただければ今度こそ修道院に入ると誓って、 18歳で御受難会に入った。
彼は、「悲しみの聖母のガブリエル」という修道名を与えられ、祈りと苦行に全身をささげ、絶えず主のご苦難を崇敬し、また悲しみの聖母に対するすぐれた信心を表わした。1862年、彼は肺結核におかされ、25歳で2月27日に安らかに息をひきとった。
2月28日
教皇ヒラロ
449年ェフェソで司教会議があったが、あまりにも荒れたので、教皇レオ1世は盗賊的司教会議と呼んだ。教皇の2人の使節は話すことを禁じられた。コンスタンティノープルの総大司教フラヴィオは押し倒され、けられたり打たれたりして殺されたが、教皇使節の1人であったヒラロは逃げ出して無事にローマヘ帰ることができた。
ヒラロは福音史家聖ヨハネの特別な保簑によって助けられたことを信じて、ローマの聖ヨハネ・ラテラノ教会の中に感謝のしるしとして礼拝堂を建て、「解放者の福音史家聖ヨハネへ、キリストの僕で教会の司教のヒラロより」という言葉を記した。
461年にレオ1世教皇が亡くなった時、ヒラロが後を継ぎ、教会の自由を守るために全力を斥くし、国の最高権力者をも恐れず公に非難した。帰天したのは468年であった。
2月29日
ヨナ、バラキシオ兄弟殉教者
327年、ペルシャの王シャプール2世が国じゅうのキリスト信者たちに対してはげしい迫害を始めた。多くの信者が牢獄に入れられたので、ベト・アサ市に住んでいた2人の兄弟のヨナとバラキシオが、信者を慰めるために牢獄へ出かけ、捕縛されて裁判に渡された。裁判官は彼らに、ペルシャ王を崇めると共に太陽と月、火と水も礼拝するように命じた。2人はただ愚かな者だけが、天の不滅の神の代わりに、死をまぬかれない人間を拝むのだと答えた。
2人は野蛮な方法で殺された。恐ろしい責苦の後で、ヨナのめった切りにされた体はぶどうしぼり器の中に入れられて押しつぶされた。バラキシオも同じように残酷に扱われた。何百本もの芦を切って鋭い破片にし、彼の体に突き刺した。そして、地上をころがされて、長い破片が体を深く貫いた。
この恐ろしい苦痛に耐えている間に、裁判官は彼に向かって、まだ生命を助けることができると言った。
バラキシオは、「私の体をつくられた神は、それをとり戻されるでしょう。そしてあなたと王様を裁かれるでしょう」と言って、兄の後を追って殉教した。
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