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3月1日
デーヴィド
イギリスのウェールズの守護の聖人のデーヴィドは、5世紀の末にカーディガンで生まれた。伝説によると、彼が詩編の読み方を学んでいた時に、聖霊が鳩の形で彼の唇のところへ飛んで来て、神を賛美するよ
うに教えたということである。
聖パウリーノの許で教育された後、デーヴィドは12の修道院を設立した。彼が院長となったウェールズの西南部の修道院では非常に厳しい規則が守られて、修道士たちは絶対に必要な時にのみ話すことが許され、肉も魚も食べず、ただパン、野菜、塩のみで生命をつないだ。耕作は牛の助けなしで行なわれ、金曜日の夕方から日曜日の明け方まで、起きて祈っていた。
デーヴィドは、ペラギウスの異端に反対するためにカーディガンのプレスで開かれた教会会議に出席したが、彼の雄弁は、すべての人々を感動させた。その時も聖霊が鳩の形で彼の肩に止まったのが見られたという。
デーヴィドは、サクソン人に大勝利を得たが、ウェールズの兵士たちが、戦場で自分たちの仲間に容易に見分けがつくように、帽子ににらねぎ(リーキ)をつけるようにさせた。
プレフの教会会議で、彼はウェールズの首座司教に任命され、その時から司教座はカーレオンから現在のセント・デーヴィッズに移された。そこで、彼は、キリスト信者たちに向かって、次のように言いながら死去した。「信仰を、かたく守りなさい。あなたたちが、私といっしょにいた問に習った小さな仕事をなしとげてください」。
3月2日
ヘンリー・スーソ
ヘンリー・スーソは、1295年スイスで生まれ、15歳の時、コンスタンス市のドミニコ会修道院に入ったが、非常に苦しい霊的生活を経験し、神との神秘的な一致によって心の平和を得ることができた。彼は偉大
な説教家で、多数の改宗者があった。しかし嫉妬心に燃えた敵もいて彼を苦しめた。1人の子供がスーソに盗みととく聖の罪を着せた時、数人の大人たちは子供の言うこ
とを信じた。捨て子を拾って助けると、その子の父親だと誤解されたり、書物を人々に与えたり、奇跡を行なうふりをしたなどという根も葉もないうわさを立てられたりした。
ある日、1匹の犬が1枚の布をくわえて遊んでいるのを見て、スーソは、次のように書いた。
「私は考えた『この布は、犬のしたい放題に勝手にさせている。悪くとり扱われているのだ』と。それからまた考えた。『お前も同じようにしなければならない。誰かが、お前をほめたり、見下げたりする時には、それをおとなしく受け入れなさい。誰かにつばを吐きかけられても、それを受けなさい』」。
スーソは、その布を取って、小聖堂の自分の椅子にかけ、謙遜の徳の印とした。彼は1365年ドイツのウルムで亡くなった。
3月3日
クネグンダ皇后
1014年にパパリア王ヘンリーは、王妃クネグンダと共にローマヘ行って、教皇から神聖ローマ帝国の皇帝として冠を受けた。教皇ベネディクト8世は後にヘンリー2世の国を訪問してカテドラルを祝別し、バンベルグに修道院を開いた。2つとも皇后の希望で皇帝が建てたものであった。クネグンダはヘンリー2世の死後、修道女になることを望んで、自ら建てたベネディクト会修道院に入り、一修道女として規則を忠実に守って、15年後に安らかに死去し、遺体はバンベルグの聖堂に葬られた。
3月4日
カシミロ王子
カシミロは、平和をもたらす人として知られていた。父はポーランド王カシミロ4世であった。1471年、ハンガリーの貴族たちが国王マチアス・コルヴィノに不満を抱いて、カシミロ王に助けを求めたので、王は自分の第2王子カシミロをハンガリー王にすることに決めて、国境まで送った。その時、カシミロはわずか13歳であったが、自分が王位につくことを教皇が反対していることを知り、また、戦争で人々が血を流すことを嫌って、クラクウヘ帰った。父のカシミロ王は怒りのあまり、王子が首都へ入ることを許さず、ドブスキー城にとじこめた。
カシミロが戦争を嫌ったのは、性格の弱さのためではなかった。父王が留守であった時には、代理としてポーランドを治めたこともあった。しかし、すべてに越えて彼が愛したものは、祈りの生活と貧しい人々の世話であった。
「ああ主よ、私の魂をみ手にまかせます」と祈りながら息をひきとったのは1484年で、26歳のときであった。
3月5日
クレモナのエウゼビオ
エウゼビオが聖ヒエロニモにローマで初めて会った時、ヒエロニモはダマソ教皇の秘書をしながら、きびしい修徳の道を人々に説教していた。エウゼビオはこの厳格な聖書学者に心をひかれて、彼に従って聖地に行った。
途中のアンチオキアで、ヒエロニモの友人であった聖女パウラとその娘の聖女エウストキウムが加わり、4人は、イエズスが地上で過ごされた地所を巡礼し、最後に、ベトレヘムで住むことに決定した。
ヒエロニモは、非常に貧しい人々が多数ベトレヘムに来ることに感動して、彼らのために宿舎を建てることにきめ、エウゼビオをダルマチアとイタリアに送って資金を集めさせた。聖女パウラは、このためにローマの土地を売り、エウゼビオもクレモナの自分の土地を売って助けた。
400年にエウゼビオはクレモナに帰り、死ぬまでそこに住んだと伝えられているが他の説によると、彼はベトレヘムに帰ってから、ある修道院の霊的指導者となって余生を過ごし、死後、その遺体はヒエロニモのそばに葬られたという。ご誕生の教会の地下の祭壇の1つは彼の名でささげられている。
3月6日
フリドリノ司祭
フリドリノ(右)は7世紀にアイルランドで生まれ、ゴールやドイツ、スイスなどを常に旅行しながら説教していたので、「さまよう人」というこツク・ネームをつけられた。彼は多くの修道院を創立したが、ヴアングル人がポアチエ市の修道院を破壊した時に失われた聖ヒラリオの遺体を発見したことで特に有名である。
彼はライン川の島に少年たちの学校を設立して、種々なゲームをするように励ましたと伝えられている。
3月7日
ペルペトゥア、フェリチタスとその仲間たち
203年、カルタゴで6人のアフリカ人が洗礼志願者として捕えられた。そのうちの2人は女性で、ヴィヴイア・ペルペトゥアという貴族出身の22歳の人妻は自分の乳児に乳を飲ませていた。フェリチタスは妊娠中の奴れいであった。他の4人の仲間はサトゥルニノ、セクンドウロ、サトウロ、レボカートという男たちであった。
ペルペトゥアとサトウロによる獄中記には、この囚人たちの苦しみがどのように大きなものであったかが記されている。裁判官の前では誰も恐れず、「今、あなたは私たちを裁いていますが、今に神様があなたを裁判なさるでしょう」と言った。
ペルペトゥアはある日、天国の美しいまぼろしを見た。羊の乳をしぼっていたひとりの老人が彼女にミルクを与え、神のみ前にいた人びとは、彼女に楽しく遊びましょう、と呼びかけた。
処刑の日になると、これまで飢えさせていた豹と熊といのししがキリスト信者たちに勢いよくおそいかかった。
ペルペトゥアとフェリチタスは野生の牛に角で体をつき刺されたが、苦しみながら慰め合った。
最後に、2人ののどにとどめの剣が突きささって2人は殉教の栄冠を得た。
3月8日
神のヨハネ
ヨハネは1495年、ポルトガルで生まれ、幼児期にはキリスト教的なよい教育を受けたが、軍人となってから不品行な生活をしていた。しかし、アビラのヨハネの説教を聞いて深い感銘を受け、自分の過去の罪を痛悔し、公衆の面前で告白して罪の赦しを求めた。しばらくの問、精神科の病院に入れられたが、アビラのヨハネに慰められ、気を落ちつかせて、1539年貧しい人々のために病院を設立した。グラナダの大司教が彼を支援し、資金は乏しかったが、事業は成功していった。
彼は富裕な貴婦人たちから寄付をつのるに当たって、次のように書いた。
「私たちは、種々の人々をここに受け入れます。身障者、中風患者、ハンセン病者、耳のきこえない人、口のきけない人、精神病患者、皮膚病患者、老人、子供、巡礼者、浮浪者など、誰でもよろしい」。
多くの人々がこの仕事を助けに来て、聖人の死後、「聖ヨハネ病院修道会」は、イタリア、スペイン、フランスなどヨーロッパ諸国に広まった。
1550年、ヨハネは溺れかかったひとりの子供を救おうと川の中へ飛びこんだ。そのため彼は重病にかかり、55歳でこの世を去った。
3月9日
ローマのフランシスカ
フランシスカは11歳の時から修道院に入りたいと望んでいたが、2年後に、両親の望みに従ってローマの貴族と結婚した。その結婚生活は苦難に満ちて、 1408年ナポリのラディスラウス王の軍隊がローマに侵入した時には、居住していた邸宅を荒らされた。後に、教皇権についての紛糾が激しくなった時、夫のロレンツオは教皇軍を指揮していたが戦いに敗れて追放され、1414年半病人となって帰り、2人の子供も相ついで亡くなった。
しかし、フランシスカの深い信仰と、苦しむ人々を助ける熱意は何ごとにも妨げられることなく、疫病の流行と戦争の災害は、不幸な人々のために献身する多くの機会を彼女に与えた。1425年、慈善事業に厚くす女性のグループを作って、モンテ・オリベトのベネディクト会修道院に所属しながら、世俗にあって貧しい人々のために、自分たちの所有物を売って、働いた。このグループは初め「マリアの献身者会」と呼ばれ、1436年、フランシスカが夫を亡くした時、彼女は仲間たちと共に住み、修道院長として最後の4年間を過ごし、1440年、56歳でこの世を去った。
3月10日
セバステの40人の殉教者
320年頃、リチニウス皇帝がカバドキアのキリスト教信者全部に教えを棄てるように命じた。これは313年にコンスタンティヌス皇帝が発布した政令とは全く反対のものであった。
総督アグリコラウスはセバステに駐屯していた軍隊に命令を下して棄教させようとしたが、40人の兵士たちはきっぱりと拒絶した。そこで彼はある計画を立てた。市外の氷のはりつめた大きな湖に彼らを連れて行き、衣服を脱がせて氷の上に横たわるように命じた。そして、湖の端には暖かい風呂をわかして見せつけ、教えを捨てるように誘惑した。
1人の兵士が辛抱できずに湯の中に飛びこんだ。しかし、急激な温度の相違から、彼は気を失って死んでしまった。この時、彼らのすばらしい信仰に感激した 1人の兵士が衣服をぬいで仲間に入って、40人全員が殉教した。最も若い兵士であったメリトは、最後に息をひきとった。
3月11日
ソフロニオ司教
ソフロニオは、若い時には隠修士になりたいと望んで、聖サバと聖テオドシオの修道院でヨハネ・モスコという有名な神秘家の親友となり、エジプトの修道院に巡礼し、きびしい修業をしながら聖書や哲学の勉強をした。
634年、エルサレムの総大司教に任命されたソフロニオは、キリスト教会に対する2つの危険と戦った。1つは異端で、1つはサラセン人の侵略であった。
異端はモンテレティズムと呼ばれ、イエズスが神の意志と人間の意志の2つを持っておられたことを否定したので、ソフロニオは全力を尽くしてこれと戦い、教皇およびコンスタンティノープルの総大司教に手紙を書いて、自分の味方をするように依頼した。正しい教義を確立することは彼にとって非常に大切であったので、正統教義を守るために自分の補佐司教ステフアノを10年間ローマに滞在させたりした。
第2の問題もソフロニオにとって大きな苦難であった。
636年、サラセン人はダマスコを占領し、2年後にエルサレムに侵攻して来たので、信者たちはベトレヘムヘ行ってキリストの誕生を祝うことができなくなった。カリフ・オマールがエルサレムを占領した時には、ソフロニオは、市内の聖所へ彼を案内して歩いて、キリスト信者に対して寛大な処置をとるように頼みこんだ。
あらゆる困難の中で、ソフロニオは、規律正しい修道士のように生活した。ソフロニオが亡くなったのは638年頃で、カリフ・オマールが、エルサレムを征服した後であった。
3月12日
マクシミリアノ
275年、23歳のマクシミリアノは、ローマの軍隊に入るのを拒否したので、法廷に引き出された。兵士の多数は志願制であったが、退役軍人の息子は徴兵として戦わねばならなかった。父フアビウス・ヴィクトールは、息子と同じくキリスト信者になったので、息子の徴兵拒否を支援した。法廷はアルジェリアのテベサで開かれた。
軍役を拒否する者は死刑に処せられることになっていたので、緊張がみなぎった。
賢明な裁判官デイオンが尋問した。「ほかのキリスト信者たちは、兵士として服役している」。マクシミリアノは答えた。「それは彼らの自由で、私のことではありません。私もキリスト信者です。しかし、兵士になることはできません」。
デイオンはマクシミリアノの父に向かって、「あなたの息子を正常にしなさい」と言ったが、父は答えた。「私の息子は、自分が信じていることを知っています。彼は、志を変えないでしょう」。デイオンは士官に命
じて、階級の印のバッジを与えようとしたが、彼は「それはいただけません。もし、私に無理につければ、それを傷つけます。キリスト信者として私は鉛の印をつけることはできません。私はすでにキリストの聖なる印をつけています」。
デイオンは、威嚇して言った。「もし、おまえが軍務を拒絶するなら、おまえはすぐにキリストの所へ行くのだ」。すると「それは私が最も望むことです。早く行かせてください。そこにこそ私の栄光があります。私は死なないでしょう。この地上から出る時、私の魂は、私の主キリストと共に生きるでしょう」とマクシミリアノは答えた。「私は、軍隊を侮るというかどにより、おまえに死刑の宣告を下す」とデイオンは言って、法廷の裁決を読み上げた。「マクシミリアノは、軍人の誓いを拒絶した。ゆえに彼を斬首の刑に処す」。
聖人はすぐさま刑場に連れて行かれて、首をはねられた。父は自分の息子が、彼の主キリストに栄光を帰して勇ましく死を選んだことを喜んで、家に帰った。
2月13日
エウフラシア修道女
エウフラシアは380年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに生まれた。父はアンティゴヌスという元老院議員で、皇帝の親戚であった。当時の習慣に従って、エウフラシアが5歳の時、皇帝は彼女のために金持ちの元老院議員を未来の夫に選んだ。母は、アンティゴヌスが亡くなった時、7歳の娘を連れてエジプトヘ行き、タベニシという所の修道院の近くに住んで、度々、修道院を訪れた。エウフラシアは、修道生活に心をひかれて、一生涯そこで暮らす決心をした。その頃、ある修道女たちは1週間ぐらい、何の食物もとらず、また、1か月間、夜中、壁によりかかって眠るなどの厳しい苦行をしていたので、幼い彼女は、そのような生活になじめず、すぐ帰ってしまうだろうと思われたが、彼女は喜んで修道生活を続け、13歳の時、皇帝から、婚約していた元老院議員と結婚するようにと勧められた時も、手紙を書いて辞退し、皇帝もその願いを聞きいれたのだった。
修道女たちが、エウフラシアの財産を受けることを断ったので、彼女はそれを皇帝に依頼して貧しい人々に施し、自分の奴隷を皆、解放した。
エウフラシアは、世間の楽しみを思うこともあったが、いつも修道院内の最もいやしい仕事に精を出して、誘惑に打ち勝ち、子供の時のような謙遜な態度を保っていた。彼女は420年頃、帰天した。
3月14日
マチルダ皇后
マチルダは、ドイツのハインリッヒ皇帝の皇后として23年間、幸福に過ごした。皇帝が亡くなった時、5人の王子たちのうちで、次男のハインリヒが長男のオットーよりも皇位継承者として適任だとマチルダは信じたが、オットーが選ばれた。けんか好きとして知られていたハインリヒは、無理やりに皇位につこうと試みたが、失敗したので、マチルダは、彼がパパリアの王になるように尽力して、2人の間に平和をもたらした。しかし、2人は、マチルダが貧しい人々のために国の財産を使いこんだと非難した。
オットーは妻のエデイトの忠告で自分のあやまちを認めて、マチルダに謝罪した。彼が戴冠式のためにローマに行っていた留守中は、マチルダが国政をとりしきった。しかしマチルダの大きな慰めは、修道院を創立することであった。そして最後には、自ら創立したノルドハウゼン修道院に隠退して余生を送り、自分の財産を全部施して、968年に亡くなった。
3月15日
クレメンス・ホフバウエル司祭
クレメンスはチェックの生まれで、もとの名はヨハネであった。司祭になりたいと望んでいたが学費がなかったので、バック市の修道院の修道士たちのためのパン焼き職人になった。隠修士になる決心をして隠修所を探し求めたが、どこの隠修所も閉ざされて志をとげることができず、ウィーンで再びパンを焼き始めた。
ちょうどその頃、2人の貴婦人に出会って、彼女たちの援助でウィーン大学で勉強を始め、名前をクレメンスと変えて、1783年、レデンプトール会に入会し、ローマで司祭となった。
その後、彼はポーランドのワルシャワに行き、宣教のために働いた。
毎日、ポーランド語とドイツ語で説教し、孤児院や少年の学校を設立したが、1808年にナポレオンによってワルシャワから追放されて、ウィーンに帰り、使徒的活動に一身をささげた。
教会の活動に対する政府のコントロールがどんなに悪い影響を人々にもたらすかを体験したクレメンスは、最後の12年間、それを減らすために雄弁をふるい、非常な努力をした。
彼が亡くなったのは1820年であった。
3月16日
へリベルト大司教
へリベルトは、998年にケルン市の大司教に任命されて、翌年のクリスマスの前日叙階されたが、寒気にもかかわらず靴を脱いで素足のまま市内を歩いた。そして、その日から大司教の衣の下に常に毛衣を着けていた。
彼は中部ドイツのウォルムス市で生まれ、ロレインの修道院で教育を受けて、その時代の最も強く、最もすぐれた政治家の一人となった。994年には皇帝づきの高官となったが、大司教になった後もこの任務は解かれず、オットー3世皇帝がイタリアを訪問中、病死した時も随行していた。
ヘリベルトは皇帝の遺体をアーへン市に持ち帰って葬儀を行なった。その時、皇位につきたいという野心を持った人々をヘリベルトは抑制した。新しい皇帝となったハインリヒ2世は、長年の間へリベルトに恨みを持っていたが、最後には、彼の知恵と誠実さを認めるようになった。
政府に関係していた当時の多数の聖職者たちは、国の仕事のために霊的な務めをゆるがせにしていたので、へリベルトは彼らをいましめ、信心生活を励ました。大司教として所有していた財産は教会と貧しい人々のために分けてやり、自分のためにはほとんど何も残さなかった。へリベルトは1021年に帰天した。
3月17日
パトリック司教
アイルランドの守護者である聖パトリックは、イギリスで生まれ、14歳の頃、403年にアイルランドから来た侵略者たちにさらわれ、むりやり船に乗せられて、奴隷となった。家畜の番をしながらパトリックが覚えたことは、祈ることであった。
ある日、彼は、脱走して港へ行き、折よく出港しようとした船に便乗してゴールヘ着くことができた。そこで、彼は聖ジェルマノの弟子になって神学を学び、レリン修道院でも諸学科を勉強した。こうして15年滞在しているうちにアイルランドの夢を見て、宣教師としてそこへ帰ることを決心した。聖ジェルマノによって司教に叙階された後、432年にアイルランドヘ帰って、ローゲアー王に福音を説き、ドルイド教の祭司たちや王の娘たちを改宗させた。
信者の数が増加するにつれ、パトリックは、組織的に布教を始め、現地人司祭を養成して司教区を作り、アーマーを大司教区に定めて、アイルランド教会の中心とし、461年、ダウンパトリックの近くのサウルで逝去した時には、事実上アイルランド全体のキリスト教化を完成していた。
3月18日
フレディアノ修道土
フレディアノという名はイタリア人の名であるが、彼はアイルランド人でウルスターのウルタク王の王子として生まれ、アイルランドの修道院で教育を受けて司祭となった。後にイタリアヘ巡礼してモンテ・ピサノで隠修士になった。教皇ヨハネ2世が566年にルツカ市の司教に任命した後も、彼は祈りと孤独の日を過ごすために、度々町を出て隠遁所に行っていた。
伝説として伝えられている有名な奇跡の1つは、セルキオ川の奇跡である。この川の奔流が度々土手の上にあふれて来て、ルツカ市に大災害をもたらした。市民たちがフレディアノ司教に助けを求めると、彼は一般によく使われている熊手を持って来させて、祈りをしてから、川に向かって、熊手に従って流れるように命じた。市の壁に水が当たらないように、そして、耕やされた畑も避けて流れるように彼が祈ると、川は水路を変更して奇跡的に聖人の命令に従ったのであった。
3月19日
ヨセフ
イエズスの母マリアの夫、ヨセフはナザレトの大工であった。マタイ福音書は彼を「正しい人」と記している。マリアが身ごもっていることが分かった時、ヨセフは、マリアのことを表ざたにすることを望まないで、ひそかに縁を切ろうと決心した。しかし、幸いなことに神の天使が夢に現われて言った。「恐れずマリアを妻として迎え入れなさい。マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエズスと名づけなさい」。
ヨセフは、父としての責任を完全に果たした。へロデ王が赤児のイエズスを殺そうと計画していることを夢の中で天使から告げられた時、彼はマリアとイエズスを連れて、夜エジプトへ逃げて救い主の生命を救った。
ヨセフは、イエズスが生まれた時ベトレヘムの馬小屋の中にマリアと共にいた。羊飼いや賢人たちが拝みに来た時、ヨセフは母と子イエズスを世話していた。エルサレムの神殿でイエズスを神にささげるためにマリアとイエズスを連れて行ったのもヨセフであった。イエズスが12歳の時、エルサレムからの帰路で見失った際に、ヨセフはマリアといっしょに心配した。
このできごとの後、新約聖書には聖ヨセフについて何も記されていない。イユズスの十字架刑の時も、そこに居合わせたという記録はなく、ヨセフはイエズスが30歳になる前に、亡くなったと思われる。しかし多くの画家は彼を老人として描いた。
イエズスの義夫としてのヨセフは、中世紀の教会に影響を与え、聖ヨハネ・クリゾストモは、ヨセフが忍んだ心配をすべてのキリスト信者たちが経験し、神によって助けられる苦難の型として考えた。
15世紀にフランスのジャン・ジェルソンは聖ヨセフを賛美する12の詩を作った。
アビラの聖女テレジアは、カルメル会の修道士と修道女の模範として、聖ヨセフを選んだ
3月20日
クトベルト司教
イギリスの最も偉大な聖人で宣教師であつたクトベルトは、651年にメルローズ修道院に入った。院長のボアジルがクトベルトに聖書と信心生活を教えた。ボアジルの死後、クトベルトが後を継いで院長となったが、馬に乗って近隣の地方を巡って教えを説き、多くの人々をキリスト教信仰に導いた。
しかし、クトベルトは隠修士の生活を愛して、大院長の許可を得てフアーンという淋しい島に隠遁して、8年間祈りと黙想の生活をおくった。
684年、彼はヘクザムの司教に任命されて、心ならずも司教就任を受諾したが、ヘクザム教区の代わりにランジスフアーン教区を司牧させてもらうことになった。
684年にクトベルトは司教に叙階されたが、2年後の686年に亡くなった。彼の死後、その墓では多くの奇跡が行なわれ、巡礼者も多かった。
船員たちは彼を保護の聖人として仰いでいる。
3月21日
フリューエのニコラス
1481年、スイス連邦は崩壊しかけていた。戦争でほとんどの敵を敗北させたが、戦利品の分配の仕方や、フリプールとソルールとを連邦の中に入れるべきか否かの問題についても争っていた。
その時、相談を持ちかけられたのは、ランフト村の聖堂の近くの小屋に住んでいた64歳の老隠修士のニコラス・フォン・フリユーエであった。彼は読み書きもできなかったが、スイスでは最も賢明な人物とみなされていたのである。聖人の勧告により、代表者たちは有名なスタンスの布告を作りあげた。それは、国の平和と一致を救うものであった。
彼は、ウンターワルデンの近くの豊かな土地に生まれ、初め農業をしていたが、後に軍隊に入ってチューリッヒと戦い、14年後には司令官として再び戦った。
敬虔な女性ドロテア・ウイスリングと結婚して10人の子供に恵まれたが、隠修士として余生を過ごすことを望んで、19年間、大部分を祈りと黙想にささげ、午後は、彼の勧めを受けに来る人々に面会した。
こコラスは死んでから、愛国者および聖人としてスイス国じゅうで崇められるようになった。
3月22日
カルタゴのデオグラチアス司教
約100年後の439年頃、アリウス派のパンダル人たちがカルタゴを占領して、司教を追い出した。14年間そのままであったが、アリウス派のリーダーがあわれに思って、デオグラチアスという司祭を司教に任命することを許した。
2年後にゲンセリックがローマを占領して数百人の捕りょを追放した。ゲンセリックと捕りょたちが帰ったアフリカでは、キリスト信者の家族たちが奴隷として働かされていた。
デオグラチアスは、彼らを自由にすることを決心したが、唯一の方法は身代金を払うことであったので、そのために司教は教会の貴重な金や銀の皿、装飾品などを売りさばいて多数の家族を救い、カルタゴでは彼らを収容する場所がないほどであった。しかし、デオグラチアスは自分の教会内に彼らを泊めて毎日世話していた。
多数のアリウス派の人々は、司教の働きを不愉快に思って、殺そうとしたが失敗した。
しかし、激しい労苦に疲れ果てた司教は病にかかり、就任後わずか3年で帰天した。
3月23日
グイニア殉教者
パトリックが5世紀にアイルランドを改宗させようと努力していた時、クリト王の宮廷で侮辱され、追い出されたことがあった。しかし、王子のグイニアは父王よりも礼儀正しく、まだキリスト教徒ではなかったが、パトリックの信心深さを認めて、自ら立ち上がって自分の椅子を彼にさし出した。後に、狩りをしながらキリスト教について考え、ついに信者となった。そして自分の馬を手離して隠修士として暮らし始めた。クリト王の死後、彼は宮廷に帰ったが、王位にはつかずに、770人の男女の信徒(改宗した妹のピアラも含めて)を集めて、ウエールズとブリタニーにキリスト教を広めた。
ブリタニーのプビグナーで聖人が行なったと言われる奇跡の1つは動物に対する愛を示すものであった。水が不足したので聖人が地面を打ちたたいたところ、3つの泉がわき出たので、その1つは自分のため、他の2つは彼の犬と牛のためとした。
聖人とその仲間の多くは殉教者として天に召された。英国コーンウォールの暴君チューダーはキリスト教信者たちを長い間憎み、湖の中に爬虫類をたくさん入れておいて、自分の嫌いな人々を投げ入れた。チューダーは、グイニアの仲間の後をつけてきて、彼らを殺したと言われている。
グイニアは、彼らの死体を見て自分の殉教も遠くないことを知って、残された自分の仲間に言った。「みなさん、ここは私たちの休む場所です。神様は、私たちが働きを止めるようにと定められました。ですから喜んで私たちの生命を神のためにささげましょう。体を殺す者を恐れてはなりません。むしろ体と魂の2つを地獄に投げ入れるカを持つかたを恐れましょう」。
まもなく、グイニアはチューダーに捕えられて首を切られた。彼の墓の上には後世、教会が建てられ、グイニアという村の名が今に至るまで残り、ブリタニーで尊敬されている。
3月24日
ワドステナのカタリナ
カタリナは、スウェーデンの聖女ブリジッタの四女として1331年に生まれた。父はネリチアの王子ウルフであった。7歳の時、リスベルクの修道院に送られて教育を受け、14歳でドイツ生まれのエッガード・フォン・キュルネンという青年と結婚することになった。しかしカタリナはかねてから修道女になりたい望みを持っていたので、夫に頼んで貞潔な生活を送った。
やがてカタリナの父が亡くなり、母がローマに行った時、彼女は非常に悲しんだ。1349年に夫の許しを得て、ローマの母を訪ねている間に、夫の死去の知らせを受けて悲嘆にくれたが、気をとり直して、母と共に住んで病人を見舞い、助け、そのために祈った。カタリナはローマの聖堂を巡礼したかったが、当時のローマ市街は風紀が乱れていたので、母親はひとり歩きを禁じた。その頃、多くの男性が若くて美しいこの未亡人と結婚したいと望んだが、彼女は常に粗末な衣服をまとって彼らを避けていた。
1372年、カタリナは母と共に聖地エルサレムに巡礼したが、その帰途、母は病気になり、翌年ローマで亡くなった。母の遺志に従ってカタリナは、その遺骨をスウェーデンに持ち帰り、29年前に母が建てたワドステナ修道院に埋葬した。
この時から、カタリナはその修道院の修道女となって、母が創立したブリジッタ会の発展のために尽力し始めた。二つの修道院の男女修道者たちは、厳しい清貧の生活をしていた。しかし信心と勉学のために必要な書籍を買う権利は保っていた。当時は教皇庁がアヴィニヨンに移されていた暗黒時代であって、修道院の認可を得るためにカタリナは非常に苦労したが、ウルバノ6世教皇からやっと与えられた。
聖女が帰天したのは1381年3月24日であった。
3月25日
マリアヘのお告げ
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、このはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空手のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブうハムとその子孫に対して、とこしえに」。
聖母マリアの「マグニフィカト」の歌は、彼女の信心と謙遜を完全に示している。マリアは神のおん子をやどすために選ばれた喜びを歌う。
「おめでとう、恵まれたかた、主があなたと共におられる」と、大天使ガブリエルが告げた。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエズスと名づけなさい」と天使は続けて言う。マリアはとまどいながら、自分は男の人を知らないのに、なぜそのようなことになるのかと尋ねた。ガブリエルは答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。
マリアは答えた。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
3月26日
ルドゲーロ司教
ルドゲーロは、743年頃、オランダで生まれた。ユトレヒトで聖グレゴリオの教えを受けたが、後にイギリスヘ渡って、哲学と神学を学び助祭になった。その頃、オランダ人のひとりがイギリスの商人を殺したので、イギリスではオランダ人への恨みが生じてルドゲーロは滞在することができず、フリースラントヘ行って司祭に叙階された。そして司教の命令により、フリースラントで7年間宣教に従事し、多くの未信者や不熱心な信者を回心させ、多くの教会を建てた。しかしサクソン人の王ウィッキンドが侵入して教会を破壊、すべての宣教師を追い出した。
ルドゲーロはローマヘ巡礼し、のちにモンテ・カシーノ修道院に行って、祈りながら将来の布教活動の準備をした。3年後にフリソンヘ帰り、カール大帝の保護を受けてその地方の五州に布教した。数年後、トリールの司教に推せんされたが、ルドゲーロはこれを辞退した。しかし804年にミュンスターの司教に任命されてこれを受諾し、熱心に司牧を続けた。
ミュンスターには、1つの修道院が創立され、有名になった。最後の病気の時は、苦痛にもかかわらず死ぬまで説教を続け、809年3月26日に帰天した。
3月27日
ザルツブルクのルベルト司教
ザルツブルクのルペルトは、ドイツ人ではなくフランクの人で、フランスの王チルデリック3世が、彼に宣教師としてパパリアに行くことを勧めた時、ウォルムスの司教であった。
チルデリック王がルペルトに依頼したことは、パパリア公爵テオド2世を改宗させることであった。ルペルトは改宗した公爵と共に多くの人をキリスト教徒にした。当時の宣教師は異教の寺院を破壊したりしたが、ルペルトは彼らに倣わず、それらをキリスト教会として奉献して、レーゲンスブルクとアルテッティングに礼拝の場所を作った。教会として使用できるような建物のない場所には適当なキリスト教の教会を建てた。やがて信者の数が増加し、より多くの宣教師がフランコニアから到着した。
ルベルトの妹のエラントルドは、現在ノンベルグと呼ばれている所に兄が建てた女子修道院の最初の院長となった。今日、メンチベルグと呼ばれている所にも1つの修道院が建てられた。
ルペルトが自分の仕事の中心地として選んだのはジュパブムという古い町で、塩が発掘される谷のそばであった。この古代ローマの町と、それをとりまく田園は、テオド公爵がルペルトに与えたもので、塩田を発達させることでその町を活気づけること、彼はができるだろうと悟って、塩の発掘を奨励した。これがザルツブルク(塩城)という市の名の由来と言われる。この市は後にドイツの首位大司教座の都市となった。
ルベルトは715年頃、ザルツブルクで亡くなった。彼は非常に有名だったので、その死後、諸国においてそれぞれ自分の国の人だったと主張されたが、それはアイルランドで特に言われたことであった。
ルペルトは、パノニアという遠方の異教の地まで布教に行ったという説もあるが、その証拠はない。彼は、今日、バイエルンやオーストリアで崇敬され、ザルツブルク州と鉱山の保護の聖人とされている。
3月28日
カピストラノのヨハネ
1453年トルコ軍は、コンスタンティノープルを占領してヨーロッパのキリスト教国にまもなく攻め入ろうと計画した。カピストラノのヨハネはトルコ軍が東方のキリスト教国を征服したように、西方でも同じことをするであろうと案じた。
彼はすでに有名な説教家であったが、オーストリアとパパリアの君主に勧めてトルコ国と戦争をさせようとした。しかしその志を果たすことはできなかった。 1456年トルコ軍はベルグラードを攻撃しようとしたので、ヨハネはハンガリー軍の大将ヤノスと会見して、その軍隊を向けるように頼んだ。そして自らその先頭に立って進んだ。ついにトルコ軍は敗北して、キリスト教国は救われたのであった。
ヨハネは1386年イタリアのカピストラノで生まれ、すぐれた才能に恵まれてペルージアの大学で法律を学んで、市長になった。
ところがペルージア市とリミニ市との間に戦争が起こり、彼は捕われてリミニ市の牢獄に入れられた。そこで彼は生涯の罪を悔やんで修道生活を送りたいと望み、出獄後、結婚のきずなから免除されてフランシスコ会に入会した。
修練期を終えると司祭になり、イタリアの各地方を巡って説教し、無数の人々を回心させた。またパパリアやサクソニーやポーランドからも呼ばれて説教し、後に教皇特使としてミラノとヴェネツイア、フランス、聖地に派遣された。その上、ヨハネは教皇庁の宗教裁判官に任命された。フレデリック3世皇帝が教皇にフス派の活動を防ぐために誰かを送るように依頼した時、ヨハネが選ばれた。彼はフス派の男女を異端者として非常に厳しく扱った。
1456年、ベルグラードの戦いのすぐ後で、ヨハネは伝染病にかかって帰天した。(フス派に対するヨハネの猛烈さに対する反動が大きかったので、1526年カルヴィン派の人々は、彼の遺物を井戸の中に投げこんだ)。
3月29日
ヨナ、バラキシオ兄弟殉教者
327年、ペルシャの王シャプール2世が国じゅうのキリスト信者たちに対してはげしい迫害を始めた。多くの信者が牢獄に入れられたので、ベト・アサ市に住んでいた2人の兄弟のヨナとバラキシオが、信者を慰めるために牢獄へ出かけ、捕縛されて裁判に渡された。裁判官は彼らに、ペルシャ王を崇めると共に太陽と月、火と水も礼拝するように命じた。2人はただ愚かな者だけが、天の不滅の神の代わりに、死をまぬかれない人間を拝むのだと答えた。
2人は野蛮な方法で殺された。恐ろしい責苦の後で、ヨナのめった切りにされた体はぶどうしぼり器の中に入れられて押しつぶされた。バラキシオも同じように残酷に扱われた。何百本もの芦を切って鋭い破片にし、彼の体に突き刺した。そして、地上をころがされて、長い破片が体を深く貫いた。
この恐ろしい苦痛に耐えている問に、裁判官は彼に向かって、まだ生命を助けることができると言った。
バラキシオは、「私の体をつくられた神は、それをとり戻されるでしょう。そしてあなたと王様を裁かれるでしょう」と言って、兄の後を追って殉教した。
3月30日
ヨハネ・クリマコ修道者
クリマコはギリシャ語で「梯子(はしご)」を意味する。シリアのヨハネがクリマコと呼ばれた理由は、彼が6世紀の終り頃に、「完徳の梯子」という本を書いたからである。
ヨハネはわずか16歳の時にシナイ山の修道院に入り、35歳で指導者の勧めによって山のふもとに小屋を建てて独居生活を始め、聖書と教父たちの伝記を勉強しながら40年過ごした。彼が修道院に帰って他の修道士たちに会ったのは、ミサに与かるためだけであった。
ライツの修道院の依頼で書いた「完徳の梯子」は、イエズスの私生活の年数に合わせて30章から成り、天国への霊的梯子を暗示している。その中には、自分自身の体験や、グレゴリオ大教皇や他のすぐれた人々の言葉が書かれている。ヨハネが亡くなったのは605年3月30日であった。
3月31日
アカシオ司教
アンチオキアの司教アカシオは敬虔な生活を送っていたので、信者たちから非常に尊敬されて、「天使」というニックネームをつけられた。
デシウス皇帝時代のキリスト教迫害の間に、彼の教区では1人の背教者も出なかったと言われている。
251年頃、アンチオキアにおけるデシウス皇帝の代理マルチアノが彼を呼びつけてとり調べた。アカシオが、信徒たちは皇帝に対して全く忠誠であると言ったところ、マルチアノは、皇帝を神として犠牲を供え、それを証明するように命じた。司教はかたく拒絶したので、マルチアノは彼に死刑の宣告を下す前に、なお細かく調べ上げた。彼らは天使のことや、ギリシャとローマの神話、そして神の性質について議論した。
最後にマルチアノが信者たちの名前を言えと命じると、司教はただ2つの名、自分の本名のアカシオとニックネームのアガタンジェロ(よい天使)とだけ言った。マルチアノは、すっかり感心して、調査書の写しを全部デシウス皇帝に送りとどけた。皇帝はそれを読んでほほえみ、マルチアノを高位に引き上げ、アカシオを赦したのであった。
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