イエス様の軛を頂くという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエス様の軛を頂くという種

年間第14主日(マタイ11・7〜15)



 最近は、ほとんどしていませんが、10年ほど前は、ときどきもう一人のブラザーと山登りをしていまいた。山によっては、登りやすい山、険しい山とありますが、一生懸命に登って山頂にたどり着いたときには、それまでの疲れが吹き飛んでしまいます。

 さて、私たちの信仰生活も山登りと同じなのではないでしょうか。頂上までの道は、何通りかあって大きな曲線を歩くと、時間はかかりますが、緩やかに進むことができます。または、まっすぐ直線に近い道を通ると、早いですがかなり急な勾配の道を通ることになることでしょう。私たちは、時には緩やかに、時には直線に近い道を登りながら、頂上を目指しているようです。

 きょうのみことばは、イエス様が私たちに「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われるところです。イエス様は、まず、おん父を賛美されます。それは、おん父がどのような人にご自分をお示しになられるかということを教えられたからです。イエス様は、「あなたはこれらのことを知恵のある人や賢い人には隠し、小さな者に現してくださいました。」と言われます。ここでイエス様が言われる【知恵のある人や賢い人】とは、自分のことを【知恵があって賢い人】と思っている人のことを表しているようです。このような人たちは、自分の知恵や知識、能力、権力、富などを頼っておん父のことを理解しようとしない人たちです。しかし、反対に【小さな人たち】は、自分が弱くて、無力であることを知っているので、すべてをおん父に頼るしか生きていくことができない人たちです。イエス様は、おん父のみ心はこのような小さく、貧しい、自分の力を頼ることができない人にご自分をお現しになられると言われているようです。

 さらに、イエス様は、「……子が父のことを現そうと思う者のほかに、父を知る者はない。」と言われます。この【父を知る者】とは、イエス様が、私たちにくださったお恵みなのではないでしょうか。私たちは、いくら知恵や知識、富や権力があっても自分の力だけでおん父を知ることはできないのです。ただ、おん父を知ることができる人は、イエス様が【父のことを現わそうと思う者】だけなのです。この一節は、私たちの黙想の材料になることでしょう。イエス様は、心から救いを待ち望んでいる人を、おん父へと導く権能をお持ちなのです。この恵みを願いたいものです。

 次にイエス様が言われたのが、「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というみことばです。この一節は良く耳にする言葉です。しかし、ここの【重荷を負って苦労している者】という言葉は、おん父を知る者、または、イエス様のみことばを伝えようとする人にとって一つの心構えをお示しになられているように思えます。それは、おん父を知ることやイエス様のみことばを伝えようとする人には、【重荷】から逃れることができないということではないでしょうか。

 パウロは、手紙の中で「……わたしは弱っており、恐れにとりつかれ、ひどく不安な状態でした。」(1コリント1・3)と言っています。あのパウロでさえ、このように苦しい状態に陥ったのです。しかし、パウロはまた別の箇所で「あなたがたを襲った試練は、何一つとして人間に耐えられないようなものではありませんでした。……むしろ、耐えることができるように、試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです。」(1コリント10・13)とも伝えています。この抜け出る道というのが、イエス様から与えられた【軛】なのではないでしょうか。軛とは、農作業や荷を引かせるために、 二頭の牛を一対に繋ぐ首にかける木製の道具のようです。もちろん、普段の私たちの生活の中では、目にすることができません。しかし、当時のユダヤ人たちは、この軛という言葉を聞く時、家畜が負わされている苦しみと自分たちに負わされている苦しみを重ね合わせたのではないでしょうか。

 イエス様は、「……わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われます。私たちは、イエス様のみことばを伝えるためには、さまざまな【重荷】が与えられることでしょう。しかし、私たちは、イエス様の軛を受け入れ、イエス様の所で休むならば、また、元気を取り戻して、みことばを伝えることができるようになるのではないでしょうか。私たちは、信仰生活を生きるなかで、様々な問題にぶつかることがあるでしょう。そのようなとき、きょうのみことばを思い出して、イエス様に「あなたの所で休ませてください。あなたの軛を受け入れさせてください」と祈りたいものです。