井手口満修道士のこれって、どんな種?
権威ある姿の種
〈年間第4主日〉マルコ1・21〜28
イエス様が宣教活動を主にしていたところは、イスラエルの北にあるガリラヤ地方でした。その中でもカファルナウムではよく宣教されたのではないでしょうか。当時のこの街は、交通の便がよくさまざまな文化が交わった場所として栄えていたのだと思われます。
またこの地方は、ガリラヤ湖があるために、湿度が高めですが緑が多い場所でもあります。このカファルナウムには、会堂があってユダヤ人が礼拝を行い、聖書(旧約)や律法の勉強を行い、時には裁判所としても用いられていました。イエス様が教えを述べられた会堂は、今の会堂跡とされるところのさらに埋もれた場所だと言われています。現在残っている会堂跡の土台には、玄武岩の黒い石が使われていますが、上は白い石が使われています。これは四世紀ごろに建てられた会堂だそうです。
さて、きょうのみことばでは、イエス様が何について教えを述べられたかは書かれてはいません。しかし、みことばは、「人々はその教えに非常に驚いた。法学者のようにではなく、権威ある者ように教えられたからである」と伝えているところをみると、律法に関連してのお話ではないかと思われます。イエス様は、別の箇所で「安息日は人のためにもうけられたのであって、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2・27)と言われています。イエス様は、当時の律法によってどれほど人々がしばられているのか、また、神様と人々の関係は、律法をどのくらい守ったかによって左右されるものでは決してないというようなことを話されたのではないでしょうか。
人々は、律法学者が律法についての教えと、行いの違いを見て偽善的な態度に彼らの曖昧さを見ていたのではないでしょうか。そこには、決して【権威ある者】とは、言いにくい姿があったのでしょう。人々は、今までの律法学者とは違う教えに対して惹かれて行ったのでした。
ちょうどイエス様が教えを述べられたところに、汚れた霊につかれた人がいました。彼は、本当は救いを願っていたのにも関わらず、この汚れた霊によって神様への礼拝や交わりができない日々が続いていたのでしょう。汚れた霊は、イエス様をまず拒み、自分たちがこの居心地がよい場所から離れないですむようにイエス様に伝えます。イエス様は、汚れた霊に向かって厳しく「黙れ、この人から出て行け」と言われました。それに対して、汚れた霊は、その人をけいれんさせ、大声をあげて出て行きます。
このことは、私たちへの一つの黙想のヒントになるのではないでしょうか。私たちは、時として自分の弱い部分を隠しながら、それに甘んじているような危険な状態に陥ることがあります。そのような状態は、楽のように見えますが、深いところで苦しんでいる部分もあるような気がいたします。イエス様は、そのような心の奥にある声を救うために、「黙れ、この人から出て行け」と言われた、と言ってもいいでしょう。言われた私たちは、体はけいれんするほど辛さを感じますが、汚れた霊が出されることによって、神様との関係が正常に戻ることができるのです。
ユダヤの人々は、イエス様が汚れた霊を追い出すところを一部始終見守り、ますますイエス様の教えに対して、「実に権威ある教えではないか。」と感嘆します。権威ある教えは、人々をひきつけ、人々に真実を伝えるとことができるのだと思います。そのため、生活と大きな関係があるのではないでしょうか。イエス様は、律法学者のような偽善者ではなく、おん父の教えをそのまま人々に伝え、人々を癒されていました。イエス様は、誰に対しても真実な方でした。人々はそのようなイエス様に権威ある者の姿を感じたのでしょう。
私たちは、生活の場でさまざまな誘惑に陥り、時には長い間苦しむかもしれません、しかし、必ずイエス様が癒してくださることに信頼いたしましょう。そして癒された私たちは、イエス様と共に権威ある姿で、みことばを伝えていきたいものです。
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