井手口満修道士のこれって、どんな種?
障害を乗り越える種
〈年間第7主日〉マルコ2・1—12
芸術家が作品を作るとき、スポーツマンが戦うとき、会社の中で何かの企画を形にするとき、そして、人が何か目標に向かって進むときになどは、何かしらの苦しみを乗り越えなければなりません。彼らは、感性をこらし、日々の練習、時間や経済的な困難などの壁に遮られることがあります。しかし、そのような壁を乗り越えて、目標に調達したときには前の障害はあまり気にならないのではないでしょうか。むしろ障害をバネにして前へ進めるということもあります。
さて、きょうのみことばはイエス様が、中風の人を癒す場面です。今回の癒しの場面は、イエス様が家の中で教えを説いていたために、この中風の人はイエス様の所に行くことができませんでした。それで、この人をイエス様のところへ連れていくために、4人の男の人が、家の屋根をはがして、この人を寝床に横たえたまま降ろします。イエス様は、彼らの信仰をご覧になり、中風の人に「子よ、あなたの罪は今ゆるされた」と言われます。
さて彼らは、この中風の人を癒していただこうとイエス様がおられる家に行きますが、戸口まで人で一杯になり入ることができませんでした。まず、一つ目の障害でした。しかし、彼らはこれくらいで諦めませんでした。彼らは、何とかしてこの中風の人を癒していただきたかったのです。また、この中風の人もなんとかして癒されたかったのではないでしょうか。この両者の思いは、屋根をはがして穴をあけるという行為として現れます。イエス様は、彼らの友情、助け合い、【治したい、治りたい】という思いをご覧になられ、彼らの信仰を感じられたのでした。それで、「子よ、あなたの罪は今ゆるされた」と言われて彼らを癒されたのです。
しかし、今度は何人かの律法学者が、この癒しの場面を見て「この人はどうして、こんなことを言うのか。これは冒涜だ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができよう」。と心の中でつぶやきます。彼らは、一人の人が癒されたという喜ばしい奇跡には目を留めようとはせずに、イエス様の行いに対して「冒涜である」と心の中でつぶやいたのでした。イエス様は、このような彼らの偽善的な行為に対して厳しく注意されます。そして、イエス様は、「地上で罪をゆるす権能を持っていることを、あなたがたに知らせよう」と言われ、中風の人に「わたしはあなたに言う。起きなさい。あなたの寝床を持って家に帰りなさい」と言われたのでした。
ここに、二つ目の障害がこの中風の人と、4人の男の人たちに起きたのでした。律法学者は、当時のユダヤ人社会の中では、宗教的、政治的に権力者と言ってもいいでしょう。彼らに逆らうということは、ユダヤ人社会では、死活問題に関わることです。彼らには、肉体的、外部的な障害だけではなく、内的、精神的な障害も起こってきたのでした。そのような状況になってもこの5人は、イエス様に従ったのでした。ここに彼らの信仰の強さがあるのではないでしょうか。中風の人は、【治りたい】と思い4人の助け手は、【治って欲しい】と思っていたに違いありません。
私たちの生活の中には、すべてが順風満帆というようには行きません。冒頭で書きましたように、時には、いくつかの障害や問題が起こってきます。私たちは、その障害に対して何とかしようという姿勢が大切なのではないでしょうか。何もせずに手をこまねいていても何も起こりません。イエス様は、私たちが努力すること、何とかして前に進もう、目標に到達しようという姿の中に私たちの信仰をご覧になられておられるのではないでしょうか。
私たちは、イエス様と共に歩むときでもいくつかの障害に遇うことがあります。それでも、私たちは、イエス様が恵みをくださるという強い信仰が大切なのではないでしょうか。私たちは、みことばのように一人ではありません。私たちは、周りの仲間と助け合い、お互い支えあい、イエス様の恵みをいただきながら目標に向かって歩んで行っているのだと思います。私たちは、お互いを信じ、委ねあい、助け合うことで障害があっても目標に進むことができることでしょう。イエス様は、私たちの一つひとつのそうした思いをご一緒に担われ歩まれておられます。私たちは、イエス様が助けてくださるということを信じながら目標に向かって歩んで行きたいものです。
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