井手口満修道士のこれって、どんな種?
悔い改めるという種
〈四旬節第1主日〉マルコ1・12〜15
私たちは、灰の水曜日の典礼で額に十字架の印を灰で受けながら「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」ということば、または「回心して福音を受けなさい」ということばを受けました。「回心」をギリシャ語では、「メタノイア」と言うそうです。この言葉を反対から読みますと「アイノタメ」となります。もちろんこれは日本語だけが通じるものですが、愛のために回心するということは、とても福音的のような気がいたします。
さて、きょうのみことばは、イエス様が「霊」に追いやられて荒れ野へ行かれ、40日の間そこに留まり、サタンの試みに遇われる場面です。さらに、イエス様は、荒れ地での生活を終えた後、ガリラヤで公に福音を宣べ伝えます。
このみことばの中で「『霊』はイエスをすぐに荒れ野に追いやった」とあります。どうして【霊】がイエス様を荒れ野に追いやったのでしょうか。ここにおん父のご計画があったのではないでしょうか。日本のでも「可愛い子には旅をさせる」とか「獅子は自分の子を谷に落としてはい上がった子を育てる」という言葉があります。おん父は、イエス様に対して愛情を持って厳しい荒れ野での生活と、サタンからの試みをご計画されたのではないかと思われます。
神の子であるイエス様には荒れ野での40日間は必要なかったでしょうが、おん父の私たちを救うというご計画には、必要な40日間だったのだと思います。この荒れ地でのイエス様の生活は、私たちが陥るあらゆるサタンからの試みをお受けになったと言ってもいいでしょう。その中には、飢えや貧しさ、寂しさ悲しさ、醜さ、憎しみ、傲慢さ、裏切りなど顔を背けたくなるようなさまざまな試みを受けたのではないでしょうか。だからこそ、イエス様は私たちの弱さ、みじめさ、辛さ、悲しさをご存知なのです。おん父の救いのご計画は、私たちのあらゆる罪から救いでした。イエス様は、そのご計画のために【霊】に追いやられて荒れ野に行かれたのでした。
また、荒れ野は、おん父への信頼なしには生活できない所です。荒れ野は、日中と夜の寒暖の差が厳しく、草木はほとんど生えていませんし、さまざまな野獣がいます。そのような中での生活は、ほとんど死と隣り合わせと言ってもいいでしょう。イエス様は、荒れ野での厳しい自然環境とサタンの試みという二重のお苦しみに遇われたのでした。イエス様は、この苦しみの中でおん父との信頼、深い愛の絆を味わわれたのではないでしょうか。ときには私たちも、この荒れ地のような体験に出会うかも知れません。私たちの力ではどうしようもない、にっちもさっちもできない状態に陥るということもあることでしょう。そして、そのようなときにこそおん父へ目を向けるということに気かされるのだと思います。
さらに、ここで忘れてはいけないのが、天使たちがイエス様に仕えたということです。私たちは、天使たちの働きを残念ながらあまり意識しません。天使たちは、いつも私たちの側におられ私たちを助けてくださいます。ときには、偶然のように思われる出会いや、出来事を通して、私の力ではない何かの力が働くことがあります。きっと、そのような出来事は、天使が私たちを助けたのではないでしょうか。
さて、イエス様は、荒れ野での生活を終えてガリラヤに行かれます。そこでは、洗礼者ヨハネが捕らえられるという事件が起こっていました。人々は、洗礼者ヨハネのような正しい方、もしかしたら自分達を救うメシアではないかと、思っていた方が捕らえられるという事件に、深い喪失感を受けていたことでしょう。そのようなときにイエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に言われたのです。このことばは、イエス様が荒れ野での苦しみをお受けになられたからこそ言えることばではないでしょうか。
イエス様は、私たちの罪の状態のみじめさはふがいなさをご存知です。だからこそイエス様は、「悔い改めて福音を信じなさい」と私たちに呼び掛けておられます。私たちは、このみことばを素直に、また勇気を持って聞き従いたいものです。「回心して(悔い改めて)福音を信じなさい」ということばと額に十字架の印を受けたように、私たちは心からイエス様への愛のために回心することで、よいご復活の準備になるのではないでしょうか。
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