井手口満修道士のこれって、どんな種?
祈りをする場所という種
〈四旬節第3主日〉ヨハネ2・13〜25
私たちにとってお祈りの場、心を落ち着かせて神様との時間を持つような場所はどのような所でしょうか。人によっても違いがあるでしょう。私たちは、どのような場所で祈ることが、自分にしっくりくるでしょうか。しばらく、復活を前に私たちの心を神様に向ける場所について考えて見ることにしましょう。
きょうのみことばは、イエス様がエルサレムの神殿に登られるところから始まります。イエス様が主に活動されていたところは、イスラエルの北側にあるガリラヤ地方でした。きょうのみことばの前に書かれてあります、カナもナザレもガリラヤ地方でした。そこから、エルサレムまで4、5日かかるでしょうか。エルサレムはガリラヤより都会と言ってもいいでしょう。そして、エルサレムでも神殿の周りは、とても栄えていたところです。
イエス様は、エルサレムの神殿で礼拝するために境内に入りますが、そこでは、神殿に捧げる生け贄のための動物を売っている商人、神殿に献金するために使用するユダヤの通貨に替えるための両替屋などが商売をしていました。彼らは、神殿に来る人が便利のために境内の中で商売をしていたのでした。また、そのことを黙認していた祭司たちがいたのではないでしょうか。祭司たちは、境内で商売を許す見返りとして、商人から何割かのお金を貰っていたのかもしれません。神殿という祈りの場は、権力とお金という醜い場所となっていたのではないでしょうか。そして、本当の祈りをするために来た人たちは、躓きながらも、便利さに流され、本来の祈り場というものがゆがめられていることに苦しんでいたことでしょう。
このような場所となった神殿をイエス様は、心のそこから嘆かれ、縄で鞭を作って怒り、商売をしている人を境内から追い出され「こんな物はここから運び出せ。わたしの父の家を商いの家にするな」と言われました。周りの人々は、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言います。それに対してイエス様は、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で建て直す」と言われます。本来祈りの場である神殿は、金の権力の場となり祈りをしようとする人が祈りを出来ない場となっていたのでした。イエス様は、その危機的な状況をご覧になり、このままでは祈りの場としての神殿は、壊れたものと同じと思われたのかも知れません。
また、この境内は、【異邦人の庭】と言われる場所ではないかと思われます。もし、そうであるならば、神殿の祭司たちは、唯一異邦人が祈ることを許された場所で商売をすることを許していたと言うことになります。イエス様は、本当に祈りを必要としている人、また弱い人に対して大きな妨げをしている人たちへの怒りも表わしていたのではないでしょうか。
さて、私たちは、どこを自分達の祈りの場としているのでしょう。私たちの身近な場所に祈りに相応しいところがあるでしょうか。私たちがミサに与っている教会はいかがでしょう。教会が近くにあっていつでも祈ることができるところは素晴らしいことだと思われます。もし、それが難しいときには、私たちが祈るために相応しいところを見つけることが大切なのかも知れません。教会ではなくても家庭や自室での祈りの雰囲気を作ることから始めるのもいいでしょう。そして、何よりも私たちが祈りをするために心を向けるところは、私たちと共におられるイエス様ではないでしょうか。
みことばの中には、「イエス様は、ご自分のからだという【神殿】について話しておられたのである」と書かれてあります。パウロはエフェソの人々への手紙で、「……。信仰を持つことによって、あなたがたの心のうちにキリストが住まわれますように。……人知をはるかに越えたキリストのこの愛を悟ることができますように。」(エフェソ3・17〜19)と伝えています。パウロは、私たち一人ひとりが、私たちの中におられるイエス様に心の目を向け、そのイエス様がなされる愛の業に気がつくこと、悟ることができることを進めているのではないでしょうか。
イエス様は、私たちが執着している、いろいろな権力や見栄、様々な欲に対して「こんな物はここから運び出せ。わたしの父の家を商いの家にするな」と言われていることでしょう。復活を前に、まず私たちは、自分が本当に祈ることができるように私たちの心を整理することから始めてみてはいかがでしょうか。
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