井手口満修道士のこれって、どんな種?
なんとかなるという種
〈四旬節第4主日〉ヨハネ3・14〜21
私たちは、よほどお互いの中で信頼関係が深く、知り合っていないとそう簡単に、人を信じることができないのではないでしょうか。たとえば、私たちは、初対面の人に「私を信じてください」と言われても、この人はどのような人なのか、もしかしたら騙されているのかも、何か企んでいる人なのかと、言うように疑うのが普通ではないでしょうか。
また、その逆で、相手のことをよく知っているからこそ、「このAという仕事に関しては信じて任せるが、Bという仕事に関しては任せることができない」という判断をすることもできるかも知れません。このように、人を【信じる】というときには、自分と相手との関係や、状況によって変化して行くように思われます。私たちは、「この人だったら、すべてを任せることができる」と信じるという関係をどのくらい持つことができるでしょうか。私たちが「信じる、信じない」というのは、相手との親密なつながりの中で生まれてくるものだと思います。
さて、きょうのみことばの中には、「独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るため」、「おん子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子を信じなかったからである」といように、【信じる】という言葉がよく出てきています。そしてその中でのポイントは、イエス様を【信じる人は】救われ、【信じない人は】救われないというようなことではないでしょうか。
では、みことばの中で言われている「独り子を信じる」ということは、どのようなことなのでしょう。私たちは、福音書や教会の教えによって、イエス様のこと、おん父のことを知ることができます。しかし、私たちは、どこまで「イエス様を信じます」と言うことができるのでしょうか。私たちは、大切なことを決断する時に「イエス様は、なんでもご存知で何でもおできになられる方だから、全てを信じてお任せします」ということができるでしょうか。もちろんそのような方もいらっしゃることでしょう。しかし、私たちは、その仕事や問題に関して、見積もりや予算や様々な意見や資料をもとに決めるのではないでしょうか。生活の中では、明日の仕事はどうなるのか、家族を養っていけるのか、この不景気を乗り越えることができるのかなどと、たくさんの不安な状態を抱えて、「私はイエス様を信じます」ということが言えるのでしょうか。このような時に、私たちの信仰が試されることだと思います。
私たちは、イエス様を【信じる】と言うときに、日常生活と信仰生活を分けているような傾向があるのではないでしょうか。不思議なことですが、日常生活では、お金、能力、時間などにとらわれ、信仰生活では、「イエス様、あなたを信じます」というような祈りの言葉が心や口から出されるようです。私たちは、口では「信じます」と言いつつ心のどこかでは、「無理なのではないか」と思っているのではないでしょうか。この二つの矛盾を解決することは、難しいことだと思います。私たちは、日常生活と信仰生活を近づけて行くときに、「信じる」「信じない」という差がなくなって行くのではないでしょうか。
私たちは、ときどき「なんとかなる」と言う言葉を口にしますが、そのような時が信仰生活と日常生活が近づいた時ではないかと思うのです。この「なんとかなる」という言葉の中には、現実的には無理かもしれませんが、後はイエス様がなんとかしてくださるだろう、というまさに【イエス様を信じる】ということの表れなのかも知れません。私たちは日常生活の中で、この「なんとかなった」という経験の中からイエス様の働きに気がつくことで、ますますイエス様との関係が深くなって「イエス様を信じます」という言葉が出て来るのだと思います。
イエス様は、私たちに「信じない者は、既に裁かれている」と言っておられます。私たちは、たとえば「なんとかなる」ということが言えなくて、がむしゃらに自分の力だけで物事を進めるとします。そのような時には、もし自分の力ではどうしようもない問題に当ってしまうと前に進むことが出来なくなってしまいます。また、イエス様のことを気づいていながら、あえて別の方向に行ってしまうこともあります。それは、イエス様を拒絶し、否定し、自暴自棄になって失望してしまうという【罪】の状態ではないでしょうか。この状態ですと、誰が裁くというよりも自分で自分を裁いていると言ってもいいでしょう。
イエス様は、私たちが「【信じます】(なんとかなる)」と言うときに、私たちに力をくださるのではないでしょうか。おん父はご自分が創造された、私たちを一人でも多く永遠の命を与えたいと思われておられます。私たちは、きょうのみことばから、もう一度イエス様を信じるということを黙想してみてはいかがでしょうか。
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