井手口満修道士のこれって、どんな種?
仕え、従うという種
〈四旬節第5主日〉ヨハネ12・20〜34
四旬節も最後の週に入ります。きょうのみことばはイエス様が、ご自分の十字架上での死を意識され、弟子たちにわたしに従うものとなりなさい、と勧めています。このことは、私たちにくださったイエス様からのメッセージではないでしょうか。きょうのみことばを深めながらイエス様のメッセージはどのようなものかを見てみたいと思います。
イエス様は、ご自分の死を一粒の麦にたとえて弟子たちにお話になられました。みことばは「もし一粒の麦が地に落ちなければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。自分の命を大切にする者はそれを失い、この世で自分の命を顧みない者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとするものはわたしに従え。そうすれば、わたしのいる所に、わたしに仕える者もいることになる。父は、わたしに仕える者を大事にしてくださる」と私たちに伝えています。
さて、ここでイエス様は、私たちへの一つの勧めとして「わたしに仕えようとする者はわたしに従え」と伝えておられます。このみことばは、イエス様に【従う】ということ【仕える】ということがポイントになっているように思えます。私たちは、人に仕える場合、仕える人の意向に沿うようにします。たとえば、会議などで自分の意見や考えを押し通そうとします。始めのうちは、そのようなことも大切ですが、あまり自分に固執してしまいますと、会議の発展性が見えなくなることがあります。ときには、周りの意見に耳を傾け、取り入れることによってより良い会議になるのではないでしょうか。そして、会議の中で決定されたことに【従う】ということは、ある意味で自分の命を顧みないということになるのかも知れません。
また私たちは、このように自分の意見や考えだけを通そうとするのは、非常に困難ですし、危険を伴うこともあるでしょう。みことばは「自分の命を大切にする者はそれを失い、この世で自分の命を顧みない者は、それを保って永遠に至る」と伝えています。先ほどのたとえの中で、人の意見や考えに耳を傾けるということは、ある意味で【自分の命を顧みない者】ということではないでしょうか。イエス様は、ご自分を一粒の麦として地に落ちて死ななければ、と言われております。もし、私たちがイエス様に仕えるものでしたら、私たちも同じようにイエス様に従わなければいけないのではないでしょうか。
では、具体的に【地に落ちて死ぬ】ということはどのようなことなのでしょうか。たとえば、【私がしなければ】という考えから、【私だけがしなくてもいい】ということに変えてはいかがでしょうか。ある一つの物事に関して「私がしなければ、この仕事は完成できない。私がしなければこのイベントは難しい」などから、【私】ということを取ることから始めてみてはいかがでしょう。ときには、自分の位置を一歩下がって見ることで、周りがよく見えることもあるかも知れません。確かに、【地に落ちて死ぬ】ということは、痛みを伴いますが、そこでイエス様に謙遜さを祈り願うことで、今まで固執していたものが落ち着き平安さを持つことができるのではないでしょうか。
さて、もう一つの【仕える】ということですが、パウロは手紙の中で「人間にではなく、主に仕えるように快く仕えなさい」(エフェソ6・7)と伝えています。私たちは、それぞれの社会の中でさまざまな人間関係があります。そして、一つの物事に対して、頼まれた相手によって快く引き受ける仕事のとき、またはあまり気が進まない仕事のときがあります。このようなときにこのパウロの手紙の中で言われている「主に仕えるように快く仕える」ということを思い起こしてはいかがでしょうか。私たちは、どうしても人間的な弱さから相手によって気持ちが変わってしまうこと、また、自分の体調によっても変わってきます。そのような私たちの気持ちは、「主に仕える」ということを意識することでかなり和らぐのではないでしょうか。
イエス様は、「わたしのいる所に、わたしに仕える者もいることになる。父は、わたしに仕える者を大事にしてくださる」とお約束されています。私たちは、日々の生活の中でイエス様に仕え、また従うことでイエス様と所で、さらにおん父から大事にされるという栄光を受けることができるのではないでしょうか。
HOME
HOME
バックナンバーへ