井手口満修道士のこれって、どんな種?
復活を恵みという種
〈復活の主日〉ヨハネ20・1〜9
皆様主の復活をおめでとうございます。
四旬節の間、イエス様の受難を黙想し犠牲を捧げてきて、ようやく主の復活の喜びを迎えていることと思います。しかし、人によっては、満足がいく四旬節を過ごすことができなかったと反省されている方もおられるかも知れません。しかし、それさえもイエス様の復活の喜びへとお捧げされてはいかがでしょうか。イエス様は、私たちのその気持ちを喜ばれて、復活されたのだと思います。
先日ラジオを聞いていましたら面白い話をされていました。「仏教では蓮の花をとても大切なものとしているようです。それは、蓮は泥水の中から水面に出て清らかな花を咲かせるところから、蓮の花を極楽浄土の象徴ともされていますし、仏様の台座としても用いられています。そして、この泥水は、人間のさまざまな醜さ、弱さ、飢え、戦争、エゴ、いじめなどのきたないところと例えて用いられ、そこを通って来るからこそ、蓮の花が象徴している極楽浄土の素晴らしさを得ることができる。」というようなことがラジオを通して流れて来ました。
この話を聞いて私は、イエス様の復活と重なったのです。パウロの手紙の中に「キリストは神の身でありながら、神としてのありかたに固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、しもべの身となり、人間と同じようになった。その姿はまさしく人間であり、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで、へりくだって従うものとなった。」と言っています。イエス様は、罪を犯す以外は、私たちと同じように苦しまれ、さまざまな醜さの中を通られ、十字架上での死を通しておん父のみ旨に従われたのでした。まさに、イエス様は、蓮の花が泥水の中を通って開花するように、おん父の栄光をお受けになられたと言ってもいいのではないでしょうか。
きょうのみことばで、弟子たちや婦人たちは、空の墓を見て初めてイエス様が復活されたことを信じます。ただ信じますが、どこまで理解していたかまだ分かりません。きっと、この時の弟子たちは、完全には理解できていなかったのではないでしょうか。
私たちも弟子たちのようにイエス様の復活を完全に理解することは難しいかも知れません。しかし、イエス様が多くの苦しみを受けられ、十字架の死に打ち勝たれ、おん父の栄光の座に着かれていることは信じることができるのではないでしょうか。また、同時にいつも私たちの側におられることも信じることもできます。
みことばは、イエス様が復活された瞬間を記事として記していませんが、「亜麻布が平になっており、イエスの頭にあった手拭いが、亜麻布と平らにはなっておらず、元の所に巻いたままになっていた」とあります。復活されたイエス様は、何かこれらの布を通り抜けられたように記されています。別の箇所では、「自分たちがいた場所のどの戸にも鍵をかけていた」(ヨハネ20・19)のに弟子たちのところにお現れになられています。このように、復活されたイエス様は、どのような壁があっても私たちの側におられることがおできになられるお方です。
私たちは、復活されたイエス様がどのような壁や障害があっても、側におられることを感じながら、私たちの醜さ、不完全さ、罪さえもすべていっしょに復活の栄光のうちにゆるし、救ってくださることを信じ、希望を持って歩んで行きたいものです。
HOME
HOME
バックナンバーへ