井手口満修道士のこれって、どんな種?
キリストの復活の証人という種
〈復活節第3主日〉ルカ24・36〜48
私たちは生きて行く中で、自分の人生を左右するような出会いや出来事に会ったことがあるのではないでしょうか。たとえば、仕事や学校の中で、教会の司祭や修道者や信徒との交わりを通して、進路や職業、結婚など、今の自分は、あの人との出会いで大きく変わった、などというようなことがあるのではないでしょうか。そのような出会いは、よくよく考えてみますと、単なる偶然ではなさそうです。きっと、なにか大きな力らが働かれたのではないでしょうか。もちろん、私たち自身もそのような機会を与える側ともなることもあることでしょう。
さて、きょうのみことばは、復活されたイエス様が弟子たちにお現れになるところです。イエス様は、「なぜおびえているのか。どうして心に疑いを抱くのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく私自身である。手をふれて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなたたちが見るように、わたしにはそれがある」。と言われ、ご自分が復活したことをお示しになられました。それでも、弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っていました。
イエス様は、このみことばの中で、「あなたたちが見るように」と言われます。では、私たちは、復活されたイエス様をどのように見ているのでしょうか。私たちは、一人ひとりイエス様との出会いは様々です。私たちは、幼児洗礼、または、成人洗礼に限らず、いつかしっかりとイエス様と出会っているのだと思います。幼児洗礼者の場合でも、成長の中でイエス様を意識する出会いがあることと思います。そしてその時、私たちはイエス様のお姿をどのように見たのでしょうか。そのイエス様との出会いが今の私たちにどのような影響を与えているのでしょうか。私したちは、このみことばを黙想しながら、今一度振り返ってみるよい機会ではないでしょうか。
イエス様は、まだ半信半疑な弟子たちに対して、「……、わたしについて、モーセの律法と預言書と詩編とに書き記さてたことは、必ずことごとく成し遂げられる」と仰になり、聖書を悟らせるために弟子たちの心をお開きになります。このことは、今の私たちにも大いに励みになるのではないでしょうか。復活されたイエス様は、私たちにみことばを通してご自分のことをお示しになられていると言ってもいいでしょう。私たちは、弟子たちのように直接イエス様との生活はしていません。しかし、私たちは、みことばを通して、また、みことばを生きている人を通してイエス様と出会うことができるのではないでしょうか。そのようなとき、イエス様が私たちの心をお開きになられ、いろいろな気づきをお与えになられているだと思います。
イエス様は、弟子たちに「メシアは苦しみを受け、三日目に死者のうちから復活しその名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる」とご自分が復活したことを示され、さらに「【あなたたちはこれらのことの証人である。】」と言われました。この「【あなたたちはこれらのことの証人である。】」というみことばは、イエス様から私たちにくださった使命と言ってもいいでしょう。
パウロはコロサイの教会への手紙の中で「わたしは、今、あなたがたのためにこれらの苦しみを受けていることを喜んでいます。キリストの苦しみの欠けているところを、キリストの『体』のために、この身で補うのです。キリストの『体』とは教会のことです。……。この神秘とはあなたがたのうちにおられるキリストであり、栄光の希望です。わたしたちはこのキリストを告げ知らせ、あらゆる知恵を用いてすべての人に忠実を与え、すべての人を教えているのです。」(コロサイ1・24〜28)と伝えています。
私たちは、【復活されたイエス様を証しする】という使命をいただいています。パウロは、私たちに対して、特別なことをしなさいとは言わずに「キリストの苦しみの欠けているところを、キリストの『体』のために、この身で補うのです。」と言っています。私たちは、私たちの目の前にあることを【キリストの苦しみの欠けているところを、キリストの『体』のために、この身で補うのです。】と思って行えば良いのではないでしょうか。たとえば、母親が家族のために行う家事の一つひとつを通して、父親が家族を養うための仕事を通して、病床で過ごす方が、自分の病気を捧げることを通して、このように私たちは自分の目の前にある日常のことを通して、パウロの言葉を生きるとき、それは、復活されたイエス様の証人という使命を果たしているのでだと思います。私たち一人ひとりができることを通して、復活されたイエス様の証人として生きることができますように日々の祈りの中で恵みを願いたいものです。
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