井手口満修道士のこれって、どんな種?
イエス様に留まるという種
〈復活節第5主日〉ヨハネ15・1〜8
私たちは、人と人とのつながりの中に、不思議な縁というものを感じるのではないでしょうか。人によっては、初めて会った時から生涯の大切な人となることもあるでしょう。また、「友だちの友だちは……」という言葉ではありませんが、まったく知らない者同士が共通の知人を通して知り合うということもあります。このように、人とのつながりは、何か不思議な力によって結ばれているような気がいたします。
さて、きょうのみことばは、ぶどうの木のたとえばなしです。イエス様は、もうすぐ、十字架にかけられ、弟子たちの前から離れて行かなければいけないことをご存知でした。イエス様は、ご自分をぶどうの木にたとえられて、これから十字架上での死があっても私に留まっている人は、多くの実を結ぶことができる、ということ言われています。
この箇所で、イエス様は、弟子たちがご自分に【留まる】ということを何度も繰り返されます。では、私たちにとって『イエス様に【留まる】ということ』はどのようなことなのでしょうか。それは、私たちがイエス様から【愛】という養分をいただいている、と言ってもいいでしょう。日本とイスラエルのぶどうの栽培法は、多少違いますが共通するのは、一つの木からいくつもの枝がはり、その枝はまた別の枝を伸ばして行きます。この枝は、本体の木からたくさんの養分をもらい成長して行きます。しかし、ある程度剪定をしないと枝ばかり伸びて肝心なおいしいぶどうの実をつけることができません。
このことは、ぶどうに限らず実をつける木に共通したことです。たとえば、さつま芋は、最初の苗から茎や葉が伸び、地面についた茎の節から根がはえて小さな芋からさらに生えてきます。そうなるとせっかく植えた苗の芋は養分を保つことが出来ずに大きく成長することができません。さつま芋を栽培している農家の人は、ある時期になると【つる返し】といって余分な根をつるごと抜いて養分を逃がさないような作業をします。
さて、私たちはイエス様に留まっている枝です。枝は、幹につながっていることで安心して成長することができ、豊かな実を結ぶことができるのです。その豊かな実とは、私たちの愛の結果と言ってもいいのですが、それだけではなくイエス様の愛の業なのです。私たちは、イエス様からいただく【愛】によって成長させていただいています。そして、私たちはイエス様からの【愛】で豊か実を結ぶことができるのです。もし、私たちが行った成果を自分だけの力と思っているのでしたら大きな間違いです。むしろ、私たちは、自分の成果をイエス様からの【愛】の業の結果と思うことで本当の謙遜をいただくのではないでしょうか。謙遜の反対は、傲慢です。そこには、愛はありません。もし、自分勝手に枝を伸ばして実をつけて行く枝だがあったとしたらきっと栽培者であるおん父から剪定されてしまうのではないでしょうか。
このことは、私たちの生活の中でも同じようなことが言えるでしょう。私たちが自分勝手に物事を行い、たとえ結果がでたとしてもなんとなくむなしさが残るのではないでしょうか。そこには、周りに対しての【愛】を感じることができないような気がいたします。私たちは、イエス様からの【愛】という養分で養われ、たくさんの豊かな実を結び、さらに、また別の枝を伸ばして行き、豊かな実を結んでいきます。その枝は、人とのつながりであり、豊かな実はその人が行った愛の業といってもいいでしょう。このようにイエス様と私たちの愛の関係は、そこだけに留まることなく人の輪を作って行くのだと思います。
パウロは、テサロニケの信徒のことが心配になって弟子であるテモテを送ります。そのテモテからテサロニケの人たちが信仰を守っているという知らせを聞いて、「兄弟の皆さん、それを聞いてわたしたちは、どんなに窮乏し、苦難の中にあっても、あなたがたのおかげで励まされます。あなたがたの信仰のおかげです。あなたがたが主に結ばれてしっかりと立っている限り、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。」(1テサロニケ3・7〜8)と伝えています。パウロは、テサロニケの人たちのイエス様に結ばれて行っている業を聞いて、自分のことのように喜んでいます。
私たちは、イエス様に留まり養われ豊かな実を結ぶとともに、イエス様から伸びた他の枝だの実をも喜び、分ち合うことも大切なのではないでしょうか。私たちは、イエス様から伸びた枝の愛という交わりを通して、たくさんの人とのつながりを広げてますます豊かになることができることでしょう。
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