井手口満修道士のこれって、どんな種?
疑いという種
〈三位一体の主日〉マタイ28・16〜20
皆さんの中には、洗礼を受けようかと迷われている方、洗礼を受けた方が司祭、修道者への召命に進もうかと迷われている方がおられるかも知れません。また、洗礼を幼い時に受けられた方の中には、自分がいただいた洗礼の秘跡について何か疑問をいだく方もおられることと思います。このような疑いや迷いは当然起こることではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けようと迷っている人の中には、洗礼を受けた後の自分に対しての不安や、恐れのようなものがあるのかも知れません。
さて、きょうのみことばの中には、弟子たちがガリラヤの山で復活されたイエス様に会う場面から始まります。弟子たちは、復活したイエス様に会い、そして伏し拝みます。しかし、みことばには、「疑う者もいた」とあります。弟子たちは、イエス様の側にいつもいて生活を共にしていたのにも関わらず、復活をしたイエス様に対して【疑い】を持っていたのでした。この【疑う】という言葉の中には、【二つ】という意味が含まれているようです。このみことばの箇所では、弟子たちが復活したイエス様に出会えた喜びとともに、イエス様が幻ではないか、という【疑い】もあったのではないでしょうか。
しかし、みことばは「イエスは弟子たちに近づき」とあります。たぶん、弟子たちの【疑い】は、イエス様が近づいて行かれたことで解消され、【疑い】から【信じる】へと方向へ変化して行ったように思われます。
私たちにもこのような信仰の迷いや疑いが起こるのではないでしょうか。そのような時期は、自信を失い、辛く苦しいものです。しかし、いったんイエス様が近づかれ、イエス様の愛に触れることで迷いが無くなると、今までよりもまた一歩イエス様に近づいて行くことができることでしょう。イエス様は、「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている。」と言われます。イエス様は、私たちがいくつかの迷いや疑いを乗り越えて、ご自分に近づいて行くときに、これらの権能をお使いになられて、私たちを力づけてくださいます。
イエス様は、私たち一人ひとりに「すべての国の人々を弟子にしなさい。——父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らに授け、わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えなさい」と言われ、人々に洗礼へと導くように使命をくださいました。私たちは、弱く時には、迷うこともありますが、その辛さを知っているからこそ、他の人の弱さ、心の痛みが分かることができるのではないかと思います。私たちは、自分が迷い、時には疑うという弱さを持っているからこそ、イエス様が与えてくださる権能によって助けられ、人々にみことばを伝えることができるのではないでしょうか。イエス様は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである」とお約束されました。私たちは、このみことばに信頼し、力で付けられて歩んで行きましょう。
イエス様は、私たちがたとえ何度でも迷い、疑ってもいつも側にいてくださり、私たちを助けてくださいます。パウロは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んでわたしは自分の弱さを誇ることにします。……わたしはキリストのためならそれでいいと思っています。わたしは、弱っているときこそ、強いからです。」(2コリント12・9〜10)と伝えています。偉大な使徒パウロでさえ、自分の弱さを知ってイエス様に強められていたのでした。私たちもパウロのように自分の弱ささえもイエス様が強めてくださることに信頼しながら、イエス様からいただいた使命を果たして行くことができますように恵みを祈って行きたいものです。
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