これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエス様に触れるという種

〈年間第13主日〉マルコ5・21〜43

 
 教皇ヨハネ・パウロ2世が1981年に来日されました。私は当時、聖パウロ会の高校生志願者でした。ちょうどその来日の中で、教皇様を招いての聖職者の集いが東京カテドラル関口教会で行われました。教皇様がカテドラルの中に入場されるやいなや、少しでも教皇様に触れようと、通路にはたくさんの聖職者が押し寄せて来ました。私もあと数センチ手を伸ばせば触れることができましたが、残念なことに触れることはできませんでした。このとき、何十人の方が教皇様に触れることができたのでしょうか。

 さて、きょうのみことばは、イエス様がヤイロという会堂つかさの娘と12年間出血病で苦しんでいる女性を癒す場面です。イエス様がガリラヤ湖からの舟を降りられると同時に、群衆はイエス様の周りに集まって来ました。その中に、会堂つかさのヤイロという人が、自分の会堂つかさという身分を忘れて、イエス様の足下にひれ伏して死にかかっている自分の娘を癒してください、と頼みます。イエス様は、彼と一緒に行かれます。しかし、そこに12年の間出血病に苦しめられている女性が、癒されると信じて、イエス様の着物に触ることができれば救われると思い、群衆の中に混じりイエス様の後ろの方から触ります。

 当時、医者にかかる人はかなり豊かな人でないとかかることはできませんでした。また、出血病にかかった人は、社会の中から不浄な者とみなされ、すべてのユダヤ教の宗教儀式にでることができませんでした。この女性は、ユダヤ人社会から、罪人のようにみなされていたのでした。彼女は、全財産を使い果たし、周りのユダヤ人からは、不浄な者として蔑まれるとうい苦しみを12年間も過ごして来たのです。ちょうど、ヤイロの娘が生まれた時に発病したというもの偶然なのでしょうか。彼女は、群衆の中に混じり、人の目を恐れながら、また、不安の中、イエス様に触れたのでした。彼女の思いの中には、人の力ではなく神様の力に頼る他は何も残っていなかったのです。

 イエス様は、ご自分の中から力が出て行ったことに気がつかれ、群衆のほうを振り返り、「わたしの着物に触れたのはだれか」とおっしゃいました。この問いに弟子たちは「群衆があなたの周りに群がっています。それなのに『わたしに触れたのはだれか』とおっしゃるのですか」と答えます。このように弟子たちが答えるのは、人間的には当たり前と言ってもいいでしょう。しかし、イエス様は、この群衆の中にあっても、ご自分に意識をして触った人のことを思われたのです。そして、この女性は、イエス様に触れることで自分の病気が癒されるという深い信仰を持っていました。イエス様は、この女性の信仰に対して彼女に人として接しようとされたのです。彼女は自分の身に起こったことを知って、恐れおののきなが進み出て、イエス様のもとにひれ伏してすべてをありのまま伝えます。彼女の中には、病気が癒されたことの恵みに恐れ、また自分のように汚れた者がイエス様に触れたことを恐れたのでないでしょうか。しかし、それでも彼女は、自分の身に起こったことを【すべてをありのまま】伝えます。ここにも彼女の信仰があるのではないでしょうか。

 私は、この女性の体験を通して順番は逆ですが、【ゆるしの秘跡】ではないだろうかと思うのです。私たちは、【ゆるしの秘跡】の時に自分の弱さ、罪について【すべてをありのまま】伝え、それからイエス様の代理者であり司祭から罪を許され「ご安心なさい」と言われます。彼女の場合は、先に癒されますが、イエス様に【すべてをありのまま】に伝えることによって、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい。……」と言われます。

 私たちも、この女性のように【ゆるしの秘跡】を通して罪の苦しみから癒されるのです。私たちは、心から自分の罪を許して頂こうと信仰をもってイエス様に【すべてをありのまま】伝えるときに、イエス様からの癒しをいただくことができるのです。きょうのみことばを通して、イエス様に触れるという勇気を求め、【すべてをありのまま】伝えるという信仰を願いたいものです。