これって、どんな種?

井手口満修道士のこれって、どんな種?

宣教への種

〈年間第15主日〉マルコ6・7〜13

 
 人は、一つの悲しみでも二人で分ち合うと半分になり、喜びだと二倍になるということを聞いたことがあります。私たちが行う福音宣教も、苦しみは半分に、喜びは二倍になることと思います。
 
 さて、きょうのみことばは、イエス様が十二人の弟子たちを派遣する場面です。イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、二つずつ派遣されます。イエス様は、弟子たちに宣教に出るに際して、盗賊や獣などを追うための杖の他には、袋もパンもお金も持って行くことを禁じました。このような姿は、イスラエルの暑い荒れ野を旅するためには、かなり厳しい条件と言ってもいいでしょう。彼らは、もう自分の力を頼りにするのではなく神様の力に頼る他にはない状態でした。イスラエル地方を旅する人たちは、朝早く、まだ太陽が出ないうちに出発して目的地に向かいます。しかし、この時間帯は、盗賊やさそりや蛇などやその他の獣も多く出てくるという危険も伴います。また、太陽が昇る日中はかなり気温が高くなり旅には適しません。

 それだけではなく、イエス様は、下着は二枚以上を着ることを禁じられ、「どこへ行っても、ある家に迎えられたならば、その地を去るまでは、その家に泊まりなさい。」と言われます。これは、弟子たちの都合にあわせて、待遇の良いところを探さないようにという意味のようです。さらに、イエス様は、「あなたたちを歓迎することなく、言うことを聞かない所があったなら、そこを出て行くとき、彼らへの警告の証拠として、足の裏のちりを払い落としなさい」と言われます。この【足の裏のちりを払い落とす】ということは、イスラエル人が異邦人の町を出て行く時の習慣で、弟子たちを受け入れない所は、異邦人と同様という意味を表わしているようです。
 
 イエス様は、このような厳しい条件の中で弟子たちを福音宣教へと派遣されます。弟子たちの幾人は、本当に自分たちを受け入れてくれるのだろうか、イエス様が行われた悪霊からや病人を癒すことかできるだろうか、盗賊や獣から襲われたり怪我をしたりしないかなどという不安を持っていた人もいるかもしれません。イエス様からの派遣は、まさに命がけと言ってもいいでしょう。弟子たちは、人の力だけでは限界があり、神様への信仰や信頼がなくては宣教に行くことが出来なかったのではないでしょうか。
 
 パウロは、手紙の中で「あの人たち以上にわたしはキリストに仕えた者なのです。苦労したことはずっと多く、牢屋に入れられたこともずっと多く、打たれたことは比べられないほどずっと多く、死の危険にさらされたこともたびたびでした。……苦労に苦労を重ね、たびたび眠らずに過ごし、ひもじい思いをしたり、のどが渇いたり、しばしば食べずにいたり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(2コリント11・23〜27)で宣教での様子を伝えています。それでもパウロは、イエス様のすばらしさに惹かれて福音宣教のために生涯を捧げています。
 
 私たちも弟子たちやパウロのように、イエス様への信頼を持つことでもっと私たちの信仰が強められるのだと思います。現代社会の中で私たちは、どのような宣教ができるでしょうか。私たちは、心のどこかで「弟子たちと私たちは違うではないか? イエス様と生活をした弟子たちだからうまく宣教ができたのだ。宣教は司祭や修道者に任せておこう」と思っていないでしょうか。私たちは、どのような福音宣教すればいいのでしょう。このように考えてみると、私たちも弟子たちと同じように苦しみ、試行錯誤しているのではないでしょうか。
 
 弟子たちは、イエス様から派遣される時には、不安の中で宣教に出かけました。私たちは、自分たちの力に頼るのではなくて、弟子たちのようにイエス様の力に頼るということが大切なのかも知れません。まず、私たちは、「何をしたらいいのでしょうか」とイエス様にお尋ねすることから始めてみてはいかがでしょうか。パウロはダマスコへ行く時にイエス様に始めて会いました。そのときパウロは「主よ、どうすればよいのですか」(使徒行録22・10)とイエス様に尋ねています。私たち一人ひとりは、パウロや弟子たちのようにイエス様から特別に選ばれた者なのです。まず、イエス様にお尋ねしてみましょう。そして、私の力ではなくイエス様に信頼しながら歩んで行くことから始めてみてはいかがでしょうか。