井手口満修道士のこれって、どんな種?
しるしを見る種
〈年間第17主日〉ヨハネ6・1〜15
京都に龍安寺という石庭で有名な禅寺があります。その石庭には、15個の石を五ケ所に点在させているのですがどこから見ても一つの石だけが他の石に隠れて見えないのです。その見えない石を、禅僧たちは心の目で見るというそうです。
きょうのみことばの舞台である所には、『パンの奇跡教会』が建てられてあって、祭壇の下には、ビザンツ時代に描かれた【五つのパンと二匹の魚】のモザイクが描かれています。しかし、モザイクで描かれているパンは、五つではなく四つしかありません。残りの一つは、イエス様が持っておられるとか、またはイエス様ご自身とか言われています。私は、残りの一つは心の目で見るものかもしれないと思うのですがいかがでしょうか。
さて、きょうのみことばは、イエス様が男だけで五千人もの人たちに【五つのパンと二匹の魚】を分け与えて満腹させるという奇跡の場面です。イエス様は、山に登られて人々に教えを説き、癒されていました。聖書の中で【山】は、日常生活と離れた場所であり、神聖な場所と言われています。たとえば、旧約聖書の中で出てくる、アブラハムがイサクを生け贄として神に捧げようとしたのも山ですし、神がモーセとお会いになられた場所も山でした。また、新約聖書の中でも主の変容の場所や、真福八端と呼ばれるみことばを伝えたのも山でした。このように聖書で【山】は、特別な場所だったのです。きょうのみことばの箇所でイエス様は、この【山】で人々に教え、そして、【五つのパンと二匹の魚】で人々を満腹させるという奇跡をなさったのです。【五つのパンと二匹の魚】の奇跡の箇所は、他の共観福音書がパンと魚を弟子たちに配らせたのに対して、ヨハネ福音書だけが「弟子たちに与えた」という箇所が省かれています。イエス様が直接人々にどのようにされて食物をお配りになったのかという疑問は残りますが、これこそがイエス様がなさった【しるし】と言ってもいいでしょう。
人々は、この食物をいただいて満腹しました。人は空腹の状態ですと力も出ませんし、怒りっぽくなったり、集中力がなくなったり、不安になったりします。反対に、満腹ですと安心感や、優しい気持ちになるのではないでしょうか。イエス様の周りに集まった人々は、イエス様から【五つのパンと二匹の魚】を与えられ、満腹し平安な気持ちになったことでしょう。彼らは、ローマやユダヤの王からの圧政に苦しんでいました。さらに、多くの律法に対して実行できないという罪の痛みも感じていたのではないでしょうか。イエス様の教えは、彼らの辛い気持ちを癒し、解放するものだったのです。人々は、イエス様の教えに癒され、【五つのパンと二匹の魚】の奇跡によって肉体的にも満たされた状態になったのでした。彼らは、イエス様に対して「正にこの方こそ、この世に来られるはずの預言者だ」と言ってイエス様を王にするためにむりやり連れて行こうとします。
イエス様が人々に与えた【しるし】は、彼らの王になるためでもローマやユダヤの王からの圧政から解放するためではありませんでした。イエス様の【しるし】は、もっと深い心の解放であり、おん父へ人々を向かわせるためのものだったのでした。人々は、イエス様の意図を心から理解することが出来なかったのです。
私たちもイエス様からの恵みや出来事に対して、表面的な所だけを理解し、深い所まで見つめることができないことの方が多いのではないでしょうか。私たちの周りで起こるイエス様のみ業は、心の目で注意深く見つめないと理解することが難しいこともあるといってもいいでしょう。私たちは、イエス様からいただいたすばらしい【しるし】を見落とすことのないように、日常生活の中でも祈りの時を持ちたいものです。そして、イエス様が私たち一人ひとりにお与えくださった【しるし】を心の目で見て、理解できるように恵みを祈り願ってまいりましょう。
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