これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

飢えることがないパンをいただく種

〈年間第18主日〉ヨハネ6・24〜35

 
 先日、森田芳光監督の「わたし出すわ」という10月公開の映画の試写を観ました。それは、主人公が成人した現在になって、高校生の時の同級生がそれぞれ必要としている「お金を出してあげる」という物語です。その映画の始めに「富みとは海の水に似ている。飲めば飲むほどのどが渇いてしまう」という文字が流れていました。確かに、私たちは、【富み】を手にすることによってさらなる【富み】を欲しくなってしまいます。しかし、私たちは、どこかでその欲求を抑えなければいけません。人によっては、上限は違いますでしょうが、その人にあった【富み】というもので満足することも大切なことではないでしょうか。

 さて、きょうのみことばは、群衆がイエス様にパンをいただき全員が満腹するまで食べた奇跡の翌日の場面です。群衆は、ふたたびイエス様を捜し求めます。そんな彼らに対してイエス様は「あなたたちがわたしを捜し求めたのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。なくなってしまう食べ物ではなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」と言われます。人々は、「神の業を行うには、何をすればよいのですか」と質問をします。イエス様は、「神が遣わされた者を信じること、これが神の業である」と言われ、さらに最後の方で「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない」と言われます。

 イエス様からパンを満腹するほど頂いた人々は、パンだけには満足することはなく、イエス様を【王】にしようと考えました。イエス様は、そんな彼らの考えをご存知になったイエス様は、彼らから去って行きますが、人々は、諦めることができずイエス様を捜し求めてきたのでした。
 このように、人々はイエス様から頂いたパンの奇跡に固執してイエス様が彼らに伝えようとしたことに気がつくことができませんでした。そこで、イエス様は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない」とご自分が人々に行った奇跡の意味をお伝えになられます。

 私たちにとって「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない」というみことばは、心に刻み付ける一節ではないでしょうか。私たちは、生きるために肉体的な糧も大切です。しかし、それだけでは、本当の満足を得ることができないのではないでしょうか。冒頭の言葉ではないですが、たとえたくさんの【富み】を手に入れたとしても、さらに多くの【富み】を得ようとしてしまいます。しかし、私たちは、この世での【富み】ではなく、霊的なパンであるイエス様いただくとき、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して渇くことがない」とお約束されたイエス様の【富み】を得ることができるのではないでしょうか。

 パウロは、「これまでの生き方に従ってきたあなたがたを、言い換えれば、人を惑わす情欲に流されて堕落しきった『古い人』をかなぐり捨て、精神も霊も新しくされて、神にかたどって造られた、まことの正しさと崇高さをそなえた『新しい人』を身にまとうということです。」(エフェソ4・24)と手紙の中で伝えています。私たちは、イエス様と出会って【新しい人】となりました。パウロは、ダマスコへ行く道でイエス様に出会いそれまで彼が得ていたすべてのものを損失であり、屑とすら思うようになっていました(フィリピ3・8)。イエス様は、ご自身に出会って【新しい人】となった私たちに対しても同じように「飢えることも、渇くこともない富み」をくださるお方です。私たちは、イエス様からいただいたお恵みに満たされ、私たちの中に留めておくのではなく、隣人に対しても分ち合うことができますように、命のパンの与え主であるイエス様に祈り願ってまいりましょう。