井手口満修道士のこれって、どんな種?
エファタ(開け)という種
〈年間第23主日〉マルコ7・31〜37
私たちは、病気の大、小の違いはあるかも知れませんが、病気をしたことがない人はいないと言ってもいいでしょう。また、どんなにお金があり、権力を持った人でも悩みがないという人もいないのでないでしょうか。人は、時には悩み、苦しみ、また、平安や幸せを繰り返しながら生きて行くものではないでしょうか。パウロは、手紙の中で「苦難は忍耐を生み、忍耐は試練にみがかれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望はわたしたちを裏切ることはありません。わたしたちに賜った聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中であふれ出ているからです。」(ローマ5・3〜5)と伝えています。このように私たちは、たとえ苦難があったとしてもイエスの愛へと導かれて行くのです。
さて、きょうのみことばは、イエス様が異邦人の地デカポリス地方で、耳が聞こえず、舌が回らない人を癒す場面です。イエス様は、このデカポリスへ来るまでに、地中海の方からガリラヤ湖を通ってヨルダンの方にあるデカポリスへと異邦人が住んでいるところを宣教してお周りになられました。デカポリスにお入りになる前は、同じく異邦人の地であるフェニキアで汚れた霊に苦しむ娘を癒されています。そして、きょうは、同じように異邦人の地で病に苦しむ人を癒されたのです。
人々は、イエス様の所に耳が聞こえず、舌が回らない人を連れて来て、「その人の上に手を置いてくださるように」イエス様に願います。この【人の上に手を置く】という動作は、人を癒すということを表わしています。人々は、イエス様がたくさんの人を、それもユダヤ人、異邦人の区別に関係なく癒されることを知っていたのでした。イエス様は、その人を群衆から連れ出し、離れた所でその両耳にご自分の指をさし入れ、またその舌にご自分のつばをつけ、天を仰いで嘆息し、「エファタ」と言われました。
イエス様は、病人にまず手で触れられます。余談ですが「傷の手当てをする」という手当てとはまさに、患部に手を当てるということから来ているようです。イエス様が、病人を癒される時に、その患部に触れられるというのも「手当て」の所作と言ってもいいのではないでしょうか。また、イエス様がその人の舌につばをつけられますが、イエス様の時代では、つばは医薬品の役割を果たしていたようです。イエス様は、そのような癒しの所作を終え、【天を仰いで嘆息し、「エファタ」】と言われます。イエス様は、目の前にいる、耳が聞こえなくて歯がゆく、自分の病を悩み、苦しみ、家族や親類からは同情や気遣いを受け、生きて行くことに疲れていたこの病人に対して、共感なさいます。イエス様は、この人が今まで生きて来た中で受けたさまざまな苦しみに共感なさり、それらが【嘆息】となって出されたのでした。
さらに、イエス様は、「エファタ」と言われます。これは「開け」という意味です。この癒された人のこれからの生活は、希望に満ちたものとなります。今まで、病気によって周りの社会と隔たりがあった壁は、壊されました。もう何の障害もなく自由に生活ができるのです。まさにこの人は、【「エファタ」開かれた】のです。今でもイエス様は、もし私たちが苦しんでいる時、この【嘆息】を持って私たちと共におられます。そして、【エファタ】と言われておられます。イエス様は、私たちがいつまでも病気の中、悩み苦しみの中にいることを悲しまれ、その苦しみから開放されるお方です。
ルカ福音書では、イザヤ書を引用し「主がわたしをお遣わしになったのは、貧しい者に良いおとずれを伝え、捕らわれびとに釈放を、盲人に視力の回復を告げ、おさえつけられている者に自由を与え、主の恵みの年を告げしらせるためである」(ルカ4・18〜19)とイエス様、ご自身が行われる業を伝えています。このイエス様の業は、今に至まで続いています。
みことばの中では、癒された人はもちろんですが、周りの人たちも自分のことのように、このことをまだ知らない人に伝えていきます。この癒された人は、自分の中で起こった恵みを通して、他の苦しんでいる人に対して優しくすることができることでしょう。私たちも同じように、苦しみの中からイエス様に癒されたことを思い起こしてみましょう。その時に受けた思い、喜びを周りの人に伝えて行きたいものです。そこには、きっとイエス様の豊かな愛に包まれていることでしょう。イエス様は、私たち一人ひとりに嘆息と共に「エファタ」(開け)と言われておられます。私たちは、自分の心を自由に開き、イエス様との関係を人々に伝えて行くことができるように祈ってまいりましょう。
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