これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

自分の十字架を担うという種

〈年間第24主日〉マルコ8・27〜35


 以前、十字架についてユニークなたとえ話を聞いたことがあります。

 一人の青年が、あまりにも自分の十字架が重たいもので、イエス様に「私の十字架は重たすぎます。どうか、他の十字架と交換してください。」と言いました。イエス様は青年をある部屋へ連れて行って「どうぞ、あなたが好きな十字架を選んで持って行ってください」と言いました。青年は,しばらくいろいろな十字架を選びながら一つの十字架を持って行きました。何日か後に青年がまたイエス様のところに来て「この前の、十字架は、しっくり来ないのです。また、別のものと交換していいですか」と言いました。イエス様は、青年を十字架が置いてある部屋に連れて行きました。そして、同じように「どうぞ、あなたが好きな十字架を選んで持って行ってください」と言いました。青年は、また、いくつかの中から一つの十字架を選んで持って行きました。

 青年は、また、しばらくしてイエス様のところに来て、何度か自分にあたった十字架を選びにきました。そのたびに、イエス様は、「どうぞ、あなたが好きな十字架を選んで持って行ってください」と言いました。そして、また、青年は、イエス様のところに来て、「なかなか、自分にあった十字架が見つかりません。」と言いました。イエス様は、同じように「どうぞ、あなたが好きな十字架を選んで持って行ってください」と言いました。青年は、十字架が置いてある部屋の中から一つの十字架を選び、イエス様に「この、十字架はこれまで選んだ中で一番私にあったものです。どうして、この十字架を最初から私にくださらなかったのですか。」と言いました。イエス様は、青年を見つめて優しく「その十字架は、あなたが最初に交換のために戻した十字架ですよ」と、言われたました。このたとえ話は、イエス様はその人、その人にあった十字架を最初から準備されているということを伝えたいということのようです。

 さて、きょうのみことばは、イエス様が、弟子たちにご自分のことについて、「それでは、あなたたちはわたしを何者だと言うのか」という問いに対してペトロが「あなたはメシアです」と答える場面です。イエス様は、ペトロの答えに対して、「このことをだれにも話さないようにと、弟子たちをきびしく戒められました。メシアという言葉は、油を注がれたもの、神への奉仕のための聖別の意味とともに、神からの特別な選びと、力をもの与えられた方だそうです。イエス様は、メシアとしてこの世に来られましたが、弟子たちが考えているメシアとは、だいぶかけ離れていました。弟子たちは、ローマやユダヤの一部の権力者からの圧政から自分たちを解放してくださる、救い主であるメシアを思っていました。

 しかし、イエス様は、エルサレムの最高法院たちから排斥され、受難と死、それからの復活によって人類をあがなうメシアということを弟子たちに話しました。それに対してペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めます。しかし、【いさめる】という行為の中に、イエス様がおん父のみ旨を行うことに対して妨げのると言うことでした。また、この【いさめる】ということは、ペトロとイエス様が同等という意味もあるようです。ペトロは「あなたはメシア」ですと答えたにも関わらず、今度はイエス様と同等のもの言いでイエス様をいさめたのでした。イエス様は、ペトロに対して「サタンよ、退け。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである」と叱られました。イエス様は、ご自分のメシアとしての使命を全うするためには、弟子たちの考えを変えさせなければ、ならなかったのでした。

 イエス様は、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せられ「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、命を失う者は、それを救う。」と言われました。私たちは、神様から自分の肉体的または精神的な病気、また、自分の性格から来る欠点、せいかつなどの十字架を頂いています。その十字架とどのように担って行くかということで、私たちの生き方が違ってくるのではないでしょうか。そして、その十字架は【「わたしのため、また福音のために」】と言われたイエス様の勧めに添うような十字架といっても言いでしょう。私たちが担っている十字架は、イエス様がご自分のために担ってください、と言われたものなのではないでしょうか。

 パウロは、イエス様から頂いた十字架を【とげ】というように用いています。パウロはこの【とげ】を取り除いてくださるようにイエス様に3度も頼みます。しかし、パウロの手紙では、「主は、『おまえはわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ』とお答えになりました。ですから、キリストの力がわたしたちの内に宿るように、むしろ大いに喜んでわたしは自分の弱さを誇ることにします。……わたしは、弱っているときこそ、強いからです。」(2コリント12・7〜10)と伝えてあります。私たちもイエス様が歩まれた、十字架から復活へ向かわれた道を自分の十字架を担って歩んで行くことができるように、イエス様に恵みを願って参りましょう。